改訂版「第二次北極海ルート@」


アダム族、セム族、アベル族、エノス族、ヤペテ族、ベドウィン族は「第一次北極海ルート」に於いて、アッカド人、ヒッタイト人、シュメール人を輩出するなど、大きな成果を残した。だが、「第二次北極海ルート」もシュメール人、ユダヤ人、アーリア人、メディア人、アッシリア人、フルリ人、トラキア人、チュルク族を輩出するなど、負けず劣らずの成果を残している。時期的に確かなことは言えないが、この「第二次北極海ルート」は、シュメール文明が発生する直前、BC32世紀頃に発生したと考えられる。
ハミ人、ティカル人、メトセラ族、スバル人、エノク族、ユート族、ヤレド族、セロス人が参加したが、この内、ティカル人(マンディンカ人/ハム族)、スバル人(セイバル人/アベル族)、ユート族(セト族)はユカタン半島から聖地イウヌに帰還した「第一次北極海ルート」を敢行した人々の子孫である。
スバル人とセロス人は、聖地イウヌにてヤレド族に出会い、先祖が行った「第一次北極海ルート」の伝説を伝えた。北極探検に魅力を感じた彼らは北極探検隊を組織し、聖地イウヌを発った。そしてバルト海に及んだ際、当地に残留していたエノク族、メトセラ族、ハミ人(ハム族)が北極探検隊に参加したと考えられる。


「スバールバル諸島」

バルト海を発った一行は、北極海の入り口、ラップランドで「第一次北極海ルート」の落とし子サーミ人から物資援助などを要請したと考えられる。そこで彼らは、「第一次北極海ルート」とは違う航路を開拓するべく、北極点を突破する計画を練っていた可能性がある。それがスバールバル諸島の発見につながった。もし、ロシア語が由来でないのだとすれば、「スバールバル」の名の由来は「スバル人」だと考えられる。
ただ、スバールバル諸島はツンドラ気候であり、冬の最低気温はー30度以下になる。また、北緯約80度という位置のため、白夜と極夜がそれぞれ4ヶ月ずつあり、薄明にもならない期間が2ヶ月以上続き、植物も乏しく、わずかに草花が生える程度であるという。そんな厳しい自然条件が揃う島に残留を希望する者はいなかったため、一行はそのまま「第一次北極海ルート」に於ける第一残留拠点ペチョラ河に向かった。


「ペチョラ河」

北極点突破を諦めた彼らはスバールバル諸島に続き、第一の残留地点ペチョラ河に到達する。ペチョラ河はウラル山脈北部が水源であり、一年の大部分は凍結しているが、夏は航行可能であるという。ここではヤレド族が残留を希望する。「アルタイ族」はこの時に誕生した。「アルタイ」の名の由来は「ヤレド」である。
アルタイ族の活動はそれほど目立ったものではなく、17世紀頃にロシア帝国と接触したことで世界的に知られるようになった可能性がある。それまでは、サーミ人のようにトナカイを放牧し、狩猟と採集を糧としていたという。19世紀頃、彼らはロシアの影響を受けて東方正教会に改宗したが、一部が植民地政策に反発して「ブルハミズム」と呼ばれるシャーマニズム転向を中心にした宗教運動が発生した。1992年には、ロシア連邦内に「アルタイ共和国」を作った。


「オビ河」

ペチョラ河に続き、一行は第ニの残留地点オビ河に到達する。オビ河には4つの大きな支流があり、現カザフスタン近辺が水源となっている。このオビ河にはティカル人、メトセラ族、スバル人、エノク族、セト族、一部ヤレド族、一部セロス人が残留を希望する。「ピラミッド建造集団」「神々の集団アヌンナキ」「メディア人」「アッシリア人」「フルリ人」はこの時に誕生した。
オビ河がつなぐ4つの支流の1つはカザフスタンとモンゴルの境に端を発しているが、今年3月にその近辺であるショリア山中で人工物と思われる40mを超える花崗岩の壁が発見された。人類史を覆す巨石オーパーツ、ロシアの巨石文明として話題となっている。このロシア巨石文明に携わったのが、古代ヨーロッパにて数々のドルメンを建造し、「第二次北極海ルート」に参加していたティカル人ではないかと考えられる。


●オビ河:ティカル人

ティカル人の歴史をかいつまんで説明したい。マルタ島を支配していたハム族(アムル人)の後裔マルタ人がギリシアでアカイア人と連合し、「マルドゥク」を称した。「マルドゥク」はバビロニア帝国の主神として知られるが、その名の由来は「マルタ」と「アカイア」の組み合わせ、「マルタアカ」である。その後、マルドゥク人は西アフリカに進出し、名前が転訛して「マンディンカ人」となる。「ティカル」の名の由来は「マルドゥク」或いは「マンディンカ」なのだ。西アフリカで黒人の容貌を得た彼らはユカタン半島でオルメカ文明の基礎を形成するが、これが黒人の容貌を持った「巨大人頭像」が作られた所以である。
マルタ人が「原初の神カオス」を祀っていたアカイア人とギリシアで連合した時、洞窟信仰が取り入れられた。だが、洞窟信仰は場所が限定される。つまり、洞窟が存在しない地域に進出する場合には洞窟を造らなければならない。それが聖なる洞窟「ドルメン」の製作意図だった。後に、「聖なる洞窟」はドルメンからニューグレンジ、ピラミッドへと容貌が変遷していくが、根幹には必ず「洞窟信仰」があった。彼らは「聖なる山」を造るつもりはなかった。「聖なる洞窟」を造るためには、山が必要だっただけである。つまり、有名な「クフ王のピラミッド」などのピラミッドも、実は王墓ではなく、洞窟信仰の神「原初の神カオス」を祀るためのものだったのかもしれない。

オビ河上流に拠点を得たティカル人はその後、2手に分離し、一方はインダス流域に南下し、一方は「北極海ルート」を続行し、太平洋を横断してアメリカ大陸に至る。前者をティカル人A、後者をティカル人Bと呼称する。インダス流域に達したティカル人Aは、インダス流域に得た拠点を「サッカラ」と称する。「サッカラ」の名の由来は「ティカル」である。ティカル人はインダス流域にてユカタン半島時代の同胞、セイバル人、ユート族に再会し、インダス文明を発展させたと考えられる。

ティカル人Aはメソポタミア(ウルのジグラット)、ペルシア帝国(ペルセポリス)、インド(エローラ石窟寺院)を中心に活動していた。その後、イスラム教が発生するとイスラム様式にスイッチし、多数のイスラム教寺院、王宮の建設に携わったと考えられる。
また、インドで活動していた一部は足場を東南アジアに移して、ヒンズー様式を発展させたり、仏教様式も取り入れたりした。彼らはヒンドゥー寺院「アンコール・ワット」、大乗仏教寺院「ボロブドゥール寺院」などを建造し、栄華を誇ったと考えられる。だが、需要を失った彼らは太平洋に新天地を求め、最終的には、謎が多い「ナンマドール遺跡」を太平洋の孤島に残し、消滅したと考えられる。


●オビ河:メトセラ族

メトセラ族はオビ河で2手に分離した。一方はオビ河の上流中央アジア方面に移住し、一方はオビ河の上流モンゴル方面に移住した。中央アジア方面では「アッシリア人」が誕生し、モンゴル方面では「メディア人」が誕生した。以前、アッシリア人はセム族から分かれたと書いたが、名前重視で行くと、メトセラ族の可能性が高い。
つまり、メトセラ族は「メト」と「セラ」の文字通り2つに分離したのだ。「メト」が「メティ」「メディア」に変化し、「セラ」が「シェーラ」「アッシェーラ」「アッシュール」に変化したのだ。
「神々の集団アヌンナキ」と共に、中央アジアからメソポタミアに移住したアッシリア人は、BC31世紀頃から単独で王国を建設。緩やかな発展を続けたが、BC934年にダン族の血統であるアッシュール・ダン2世がアッシリアの王位に就くと周辺国を侵略しながら急成長した。その後、アッシリアの王位はアッシリア人の手に戻るが、侵略活動は勢いを増した。この時にアルメニア人、フェニキア人、クシュ人による大航海時代が発生した。
メディア人の一部は同胞のサカ人(ティカル人A)と連合し、「スキタイ人」を結成。「スキタイ」の名の由来はサカとメディアの組み合わせ「サカディア」である。メディア人の本流は、スキタイ人と組んでBC672年に「第一次メディア王国」を建設している。このメディア王国がカルデア人の新バビロニア王国と共に、ある種、兄弟の国であるアッシリア帝国を滅ぼした。


●オビ河:エノク族

エノク族はメソポタミアの最高神「アヌ」「エンキ」を祀り、「神々の集団アヌンナキ」を立ち上げた。これにユート族、アッシリア人、フルリ人、一部ティカル人、「第一次北極海ルート」のアベル族が参加した。「アヌ」「エンキ」の名はいずれも由来が「エノク」であり、「アヌンナキ」の名の由来は「アヌ」と「エンキ」の組み合わせ「アヌエンキ」である。
「神々の集団アヌンナキ」にはアッシリア人が「アサル」の名で参加。アッシリア人は他にもヤレド族と連合して「アサルルドゥ」を、ヤレド族の後裔アリナ族と連合して「アサルアリム」を形成している。ユート族は「トゥトゥ」を、そしてティカル人は2つの神、単独で「ナムル」と、セロス人と連合して「ナムティラク」を形成した。
BC32世紀頃、エノク族は単独でメソポタミアに残留していたヤレド族の都市国家エリドゥを占領し、守護神として「エンキ」を祀っている。BC2050年頃、エリドゥのエノク族は、ユカタン半島から来たバビロニア人などの勢力伸張を機に東西に移住をした。西方に於いては、エノク族はナクソス島に移住して「全能の神ゼウス」を祀った。「ゼウス」の名の由来は分からないが、「ナクソス」の名の由来はエノクとゼウスの組み合わせ「ノクゼウス」と考えられる。
東方に於いては、エノク族はインドに移住して「ナーガ族」となった。「ナーガ」の名の由来は「エノク」である。これは別の連載「天孫族・多氏の歴史」に既に書いたことだが、ナーガ族は後にミャンマーに進出してシャン族と連合して「長髄彦」となる。


●オビ河:スバル人

オビ河に残留したスバル人からは「フルリ人」が誕生した。「フルリ」の名の由来は「スバル」である。フルリ人は中央アジアから南下してメソポタミアに移住し、BC16世紀にオリエントに残留していた本流のスバル人やメディア人と連合して「ミタンニ王国」を建設している。BC1270年、ミタンニ王国が滅亡すると、フルリ人はメソポタミアからインドに移住した。この時に「プール族」が誕生した。「プール」の名の由来は「フルリ」である。
プール族は、インドでアーリア人の連合に参加。スバル人がエニセイ河で誕生させた兄弟「バーラタ族」と連合して「クル族」を結成する。「クル」の名の由来は「プール」である。ユーラシア大陸には、ハ行がカ行を兼ねる法則があるため違う種族のように見えるかもしれないが、実際には「プール」も「クル」も同じものなのだ。




「第二次北極海ルート」のエニセイ河以降の旅路は、次回に続きます。






改訂版「第二次北極海ルートA」


「エニセイ河」

オビ河に続き、一行は第ニの残留地点エニセイ河に到達する。エニセイ河はモンゴル・バイカル湖近辺が水源であり、年の半分以上は凍結しているという。無数の氷が川を堰き止めて洪水が発生するため、現在ではロシア人が爆発物を用いて氷を吹き飛ばしている。
ここではハミ人、スバル人、メトセラ族が残留を希望する。「パミール人」「バーラタ族」「マツヤ族」はこの時に誕生した。「パミール」の名の由来は「ハミ」、「バーラタ」の名の由来は「スバル」、「マツヤ」の名の由来は「メトセラ」である。「バーラタ族」は「フルリ人」の兄弟であり、「マツヤ族」は「メディア人」の兄弟である。


●エニセイ河:ハミ人

その後、数千年間、パミール人には目立った動きはなかった。だが、BC327年にアレキサンダー大王がマケドニア軍を率いてインダス流域・コラサン地域に侵攻すると、パミール人は他の神官氏族と共にアラビア半島に移住している。この時に「ヒムヤル人」が誕生した。「ヒムヤル」の名の由来は「パミール」である。
アラビア半島に根付いたコラサンの人々は「クライシュ族」を形成した。「クライシュ」の名の由来は「コラサン」である。だが、ヒムヤル人はクライシュ族には参加せず、BC115年に単独で「ヒムヤル王国」を建設した。その後、イスラム勢力の台頭によってヒムヤル王国が滅亡すると彼らはミャンマーに移住し、ビルマ人の祖「バマー」を称した。「バマー」の名の由来は「ヒムヤル」である。


●エニセイ河:スバル人

その後、バーラタ族はインド方面に南下し、トリツ族と連合してプール族、ブリグ族、マツヤ族、ドルヒユ族、パルシュ族、ダーサ族、パニ族、アリナ族、アヌ族、バラーナ族といった「アーリア人」の面々と戦火を交える。これはBC12世紀頃に発生し、「十王戦争」と呼ばれている。
ひとことで「アーリア人」とはいうものの、プール族(スバル人)、マツヤ族(メトセラ族)、トリツ族・ダーサ族(セロス人)、パニ族・アヌ族(エノク族)、アリナ族(ヤレド族)は全てが「第二次北極海ルート」の産物である。一方、ブリグ族・バラーナ族(パレンケ)、パルシュ族(ベリーズ)はユカタン半島からやって来た勢力であり、ドルヒユ族は伝説のトロイアの残党ではないかと考えられる。
その後、バーラタ族はオビ河の兄弟プール族と連合して「クル族」を形成するが、単独ではBC250年頃に「パルティア王国」を建設。AD226年にパルティア王国が滅亡すると、バルト海に移住し、ルカ人と連合して「ランゴバルト族」を形成した。AD774年にランゴバルト王国が滅亡すると、彼らはザクセン公の家臣となり、後に独立してヨーロッパの名門貴族「オルデンブルク家」を興した。因みに、「バルト海」の語源は「バーラタ」だと考えられる。


●エニセイ河:メトセラ族

マツヤ族はバーラタ族と行動を共にしたと考えられるが、「十王戦争」時には敵と味方に分かれている。十六王国の並立時代には、インドにやって来たフェニキア人と連合し、「シューラセーナ王国」を建設している。「シューラセーナ」の名の由来は「テュロス」であり、首都「マトゥーラ」の名の由来は「マツヤ」である。彼らは「太陽神ミトラ」を最初に祀った人々でもある。
BC4世紀頃にシューラセーナ王国が滅亡すると、マトゥーラのマツヤ族は東西に移住した。西方に向かったマツヤ族はアナトリア半島の南端キリキア周辺に落ち着き、ミトラ教徒の海賊となってローマ共和国に反逆した。彼らは、ローマ共和国勢力圏内に「ミトラ教」を広めることも行った。一方、東方に向かったマツヤ族は北九州に移住。倭人の国のひとつとされる「マツラ国」を建てた。「ミトラ」も「マツラ」も、名前の由来は「マトゥーラ」である。
マツラ国のマツヤ族はフェニキア人の軍事集団「倭人」に参加し、倭人の事業「魏」の再建にも携わったと考えられる。そして、後の倭寇時代に、「松浦党」として福建海賊と交流し、松浦半島を支配下に置いた。AD10世紀頃、嵯峨源氏の祖「渡辺綱」に接近した彼らは、自身の血統を打ち立てた。それが松浦氏の祖「松浦久」であった。「松浦」の名の由来はもちろん「マトゥーラ」である。


「レナ河」

エニセイ河に続き、一行は第三の残留地点レナ河に到達する。レナ河は一年の内、9月末から5月始めの7ヶ月は凍結してツンドラ状態になるが、その後は凍土も融解して一面の湿地帯へと変貌し、夏季には多くの野生生物の生活の舞台となる。
ここではセロス人が残留を希望する。「チュルク族」はこの時に誕生した。「チュルク」の名の由来は「セロス」である。シベリアにしばらく定住した後、やがてチュルク族はモンゴル高原に南下して、中国人に「高車」「丁零」と呼ばれた。だが、その後に彼らは独立を失い、建州女直ジェチェン(中山国)、阿史那氏(突厥帝国)、オグズ24氏族(セルジューク・トルコ帝国、オスマン・トルコ帝国)など、次々と異民族に支配された。
だが、一部チュルク族は突厥帝国の東西分裂を機に、一部阿史那氏やタタール人と共に新天地を求めてアメリカに向かう旅路に出た。一行はメキシコに残留し、チュルク族は首都トゥーラを中心に「トルテカ帝国」をメキシコに打ち立てた。「トルテカ」「トゥーラ」の名の由来は「チュルク」である。全盛期には、トルテカ人はマヤ地域をも支配下に置いたこともあるが、チチェン・イツァーが台頭すると、彼らはメキシコを去り、長い旅路を経てアフガニスタンに移住した。彼らは「トゥーラーン族」を称して、ギルザイ族に参加した。
「トゥーラーン族」からはアドルフ・ヒトラーが輩出された。アフガンからギリシアに移住していた一部が、1770年にオスマン・トルコ帝国に対して蜂起するが、失敗。敗走した彼らはオーストリアに向かったのだ。「ヒトラー」の名の由来も「トゥーラーン」ではないかと考えられる。「ヒトラーはアフガンから来た」と考えれば、なぜ彼がアーリア人の血統に執着したのか、その謎も解けるというものだ。
ヒトラーといえば、20世紀最大の悪党のように呼ばれるが、その契機となったユダヤ人大虐殺はデーン人の血統であるゲーリングが一手に引き受けていたことである。ヘルマン・ゲーリングは、ナチス党では総統後継者、空軍総司令官を任じていた。更に、彼は悪名高い秘密警察ゲシュタポの元締めでもあり、手下のヒムラーを使ってナチスに汚名を着せる任務に就いていた。ユダヤ人虐殺の汚名さえなければヒトラーはここまで悪く言われることはなかっただろう。アメリカのデーン人は、自分の利益に寄与しない者を常に「悪」と呼ぶ。


「樺太」

レナ河に続き、一行は第四の残留地点樺太に到達する。樺太南西部は、対馬海流の影響を受けて比較的温暖なため、冬季でも海は氷結しないという。ここではヤレド族が残留を希望する。「ウィルタ族」はこの時に誕生した。「ウィルタ」の名の由来は「ヤレド」である
樺太に着いた時点で、「第二次北極海ルート」の参加者はヤレド族、セロズ人、ティカル人だけになっていた。だが、彼らは更に三者三様の道を選び、冒険旅行を続けた。ヤレド族はアリューシャン列島に、セロス人は黒龍江に向かい、ティカル人は日本列島に向かったのだった。

アリューシャン列島に向かったヤレド族は「アリュート族」を形成するが、樺太のウィルタ族も彼らは彼らで冒険を続け、黒龍江流域に進出した。この時に「ウルチ族」が誕生した。だが、ウィルタ族の冒険は黒龍江に留まらなかった。ウィルタ族は後裔のウルチ族を率いて西方への冒険旅行を開始した。
樺太を発ったウィルタ族とウルチ族の一行がどこに向かったのかというと、それはペルシア湾である。彼らは、最終的にメソポタミアに到達する。そして、ウルチ族は「ウルク」を建設し、ウィルタ族は「ウル」を建設した。彼らは「ウンマ」「シッパール」などの都市国家を築いた台湾から来たアミ族と共にシュメール文明を牽引したのだ。
その後、ウルチ族は「ラガシュ」「スーサ」などの都市国家も建設していった。ただ、BC31世紀頃にエラム人がスーサを奪ってエラム王国の首都に据えると「ラガシュ」と「スーサ」のウルチ族は東方への帰還を決行する。「シュメール人の大航海時代」と「ドルイド教団の大航海時代」の幕開けである。
一部のエラム人はスーサ陥落を記念してこの時に「シュシャン人」を名乗り、エドム人と出会って「ドルイド教団」をメソポタミアで結成する。「ドルイド」の名の由来は「デルポイ」と「エドム」の組み合わせ「デルエド」である。この後、ドルイド教団は東方に向かったウルチ族を追跡して台湾、長江、日本東北地方に移住したが、一部はブリテン島に帰還し、古代ヨーロッパに「ドルイド教」を根付かせることになる。
ウルチ族は、インドの「グジャラート」に拠点を得たが、時代が下るとガンジス上流域に移住して「コーサラ王国」を建設する。「グジャラート」の名の由来は「ラガシュ」であり、「コーサラ」の名の由来は「グジャラート」である。ウルチ族の希望は、基本的に故地樺太への帰還だったが、その代わりに古代中原に移住した。彼らは牛頭の神「神農」を祀るが、ライバルのエラム人(ミャオ族)も牛頭の神「蚩尤」を祀り、両者は対立した。「ミャオ」の名の由来はエラム人の一部族「メオ」である。
一方、エラム人は日本に於いては東北地方に拠点を得たが、エドム人の神官「賀茂氏」は現島根県に拠点を構え、「出雲国」を打ち立てた。「出雲」の名の由来は「エドム」である。この時にウルチ族の一部が「蛇神ティアマト」を祀る賀茂氏と連合した。両者の神官連合が「ヤマタノオロチ」の正体である。「ヤマタノオロチ」の名の由来は「ティアマト」と「ウルチ」の組み合わせである。
伝説に於いては、蚩尤は神農に敗北するが、それはつまり、ミャオ族がウルチ族に敗北をしたことを意味する。この時に、ミャオ族は一部が満州に移住し、「粛慎」となった。「粛慎(スーシェン)」の名の由来はもちろん「シュシャン」である。そして、古代中原を脱出したミャオ族の一部は出雲国に侵攻した。「スーサの王」を称したミャオ族は、出雲国の賀茂氏とウルチ族の連合と軍事衝突したが、この一件が「ヤマタノオロチの伝説」となった可能性がある。
これを機に、ウルチ族は出雲国から樺太に帰還し、「オロチ族」となった。だが、それに留まらないオロチ族はレナ河に進出して「オロチョン族」となる。一方、蚩尤に勝利して古代中原の覇者となったウルチ族は、エラム人の部族エン族、キャン族が建てた「殷」を牧野の戦いで滅ぼしてBC1046年に「周」を建国する。「周」や「儒教」の名の由来は「スーサ(シュシャン)」である。
その後、時代が下ってBC7世紀、「フェニキア人の大航海時代」にウルクのシュメール人が参加するが、雲南に建てた「アウラック国」が滅亡すると彼らは故地の樺太に帰還して「オロク族」となる。「オロク」や「アウラック」の名の由来は当然「ウルク」である。なぜ、ウルクのシュメール人は樺太に移住したのだろうか?それは、何千年も経ってはいたが、彼らは自身の故地を認識していたということに他ならない。
「名前を知って歴史を知る」方法で紐解くと、シュメール人発祥の地は「台湾」と「樺太」であることが分かった。だが、シュメール文明を誕生させた台湾のアミ族(セム族)や樺太のウィルタ族(ヤレド族)だけでなく、アッシリア人、バビロニア人、ヘブライ人、ユダヤ人、アッカド人、ヒッタイト人、フルリ人、メディア人などの古代民族は、みな「北極海ルート」の参加者であるのは興味深いところだ。




「第二次北極海ルート」のアリューシャン列島以降の旅路は、次回に続きます。






改訂版「第二次北極海ルートB」



「アリューシャン列島」

ヤレド族は樺太に続き、第五の残留地点アリューシャン列島に到達する。ペチョラ河はウラル山脈北部が水源であり、一年の大部分は凍結しているが、夏は航行可能であるという。ここでは当然、ヤレド族だけが残留を希望した。「アリュート族」はこの時に誕生した。「アリュート」の名の由来は「ヤレド」である
BC29世紀、アリュート族はアリューシャン列島を発ってレナ河に移住した。この時に「アーリア人」が誕生する。「アーリア」の名の由来は「アリュート」である。BC12世紀頃、アーリア人の下に「第二次北極海ルート」に参加した氏族の子孫が馳せ参じる。バーラタ族、トリツ族、プール族、マツヤ族、パニ族、アヌ族である。他にはブリグ族、ドルヒユ族、パルシュ族、ダーサ族、バラーナ族がアーリア人に参加していた。アーリア人自身の直系はアリナ族だけに留まったが、アリナ族は後にヒッタイト帝国に進出し、「太陽の女神アリンナ」を祀ることになる。アリナ族の後裔はアラン族であるが、「アラン」の名の由来は「アリンナ」である。その後、アラン族は「ペルシア帝国」「匈奴」「カタルーニャ」の形成に関わった。


「黒龍江」

セロス人は樺太に続き、第五の残留地点黒龍江に到達する。ここではもちろんセロス人だけが残留を希望した。「トリツ族」はこの時に誕生した。「トリツ」の名の由来は「セロス」である。BC26世紀頃、トリツ族は古代中原に向かって南下し、長江に拠点を得ていたヤペテ族に合流した。
トリツ族が、河姆渡文化のヤペテ族と連合すると、彼らは「太陽神三足鳥」を創始する。鳥の足が「三足」である由来は「トリツ」の名から来ていると考えられる。「トリ」を数字の「3」に例えたのだ。また、この「太陽神三足鳥」は「ヤタガラス」の祖でもあるが、「ヤタ」の名の由来が「ヤペテ」と考えれば、しっくりとくる。
トリツ族は「殷」の台頭により、古代中原を去ってインドに移住する。この時に彼らはアーリア人の軍団に参加する。だが、BC12世紀にバーラタ族とプール族が連合すると、彼らはバルカン半島に移住した。この時に「トラキア人」が誕生した。「トラキア」の名の由来は「トリツ」である。だが、AD46年頃にローマ帝国によってトラキア人の王国「オドリュサイ王国」が滅亡すると、彼らはゲルマニアに移住し「チューリンギア族」となった。「チューリンギア」の名の由来は「トラキア」である。
AD785年、チューリンギア族がフランク王国に蜂起するが、失敗。彼らはその敗北を機に、エジプトに移住し「トゥールーン王朝」を開いている。「トゥールーン」の名の由来は「チューリンギア」である。その後、彼らはエジプト、イラク、ドイツを行ったり来たりするが、ドイツに落ち着いて秘密結社「薔薇十字団」を結成する。
AD1918年、その流れで「トゥーレ協会」が設立される。「トゥーレ」の名の由来はもちろん「トゥールーン」或いは「チューリンギア」である。そして興味深いことにトラキア人の兄弟チュルク族(トゥーラーン族)の後裔アドルフ・ヒトラーが「トゥーレ協会」を訪問する。その後、ヒトラーは兄弟が作ったトゥーレ協会を母体に「ナチス」を結成するのだ。


「日本列島」

オビ河上流に拠点を得たティカル人はその後、2手に分離し、一方はインダス流域に南下し、一方は「北極海ルート」を続行し、太平洋を横断してアメリカ大陸に至る。前者をティカル人A、後者をティカル人Bと呼称する。
そして、北極海ルートの探検を続行したティカル人Bはベーリング海峡を南下、樺太に続き、第五の残留拠点日本列島に到達する。一般的に認められてはいないが、彼らは日本に数基のピラミッドを建設した可能性がある。「黒又山」「皆神山」「葦嶽山」である。この内、黒又山と葦嶽山の名が気になったので由来を考えてみたが、「黒又」はティカルとメトセラの組み合わせ「カルメト」、「葦嶽」はアッシリアとティカルの組み合わせ「アッシティカ」のような気がしてならないのだ。
更に、彼らはピラミッドだけでなく、厳島に巨石建造物を建造し、熊本県に「トンカラリン」遺跡を建造した。「トンカラリン」の名の由来は「ティカル」だと考えられる。そしてこの遺跡の建造目的はもちろん、洞窟信仰である。ティカル人Bは、遠く離れた日本の地でギリシアの「原初の神カオス」を祀っていた可能性がある。
後に、ティカル人の子孫、イッサカル族がBC7世紀に「フェニキア人の大航海時代」に参加したが、日本に来た彼らは厳島の巨石建造物を一目見て先祖の仕事だと見抜き、「イッサカル」の名を取ってこの地を初めて「イツク島」と命名したと考えられる。イッサカル族は当地で「市杵嶋姫命」と呼ばれる女神を祀った。

ティカル人Bはこの後、日本を離れて太平洋を横断し、南米大陸に辿り着く。ティカル人Bは南米太平洋岸に残留したが、日本で得た技術を持った集団が「カラル遺跡」を残した。彼らをティカル人Cと呼ぶことにする。彼らは一度、故地を離れてインダス流域に移住するが、ティカル人Cはエジプトに進出して「ギザのピラミッド」などを手がけた。このエジプト時代に、ティカル人Cからティカル人Dが分離。BC16世紀頃に、ティカル人Dはユカタン半島に帰還した。
ティカル人Dは、帰路の途中「バールベック」の遺跡に関与した。それから、マヤに帰還したティカル人Dは、エジプト時代に得た技術を応用してティオティワカン、エル・ミラドールにてピラミッドや神殿を築く。だが、彼らはオアハカ盆地で「モンテ・アルバン」の神殿の建設に関与していたティカル人Bが、太平洋を渡って日本に移住することを耳にした。この時に、ティカル人Dも彼らと共に日本に同行したと考えられる。
ピラミッド派であるティカル人Dは、マウンド派であるティカル人Bと対立し、日本に於いて覇を競った。だが、ピラミッド派を退けたマウンド派のティカル人Bは、東北から九州に至る広範囲に渡り、前方後円墳を製作。日本に「古墳時代」をもたらした。一方、覇権争いに敗北したピラミッド派は、岡山県赤磐市に「熊山遺跡」として知られる小型のピラミッドを一基残して日本を去った。仮に、ピラミッド派のティカル人Dが覇権を握っていたら、日本は古墳時代ではなく、ピラミッド時代を迎えていただろう。
ティカル人Dは、日本からタヒチ島に移住し、タヒチを中心にティキを祀る小型ピラミッド「マラエ」をポリネシア一帯に製作した。彼らは一旦、そこから故地ユカタン半島に帰還したが、需要がなかったためか、思い切って大西洋を渡ってカナリア諸島に移住する。この時、彼らは通常のアイスランド・アイルランドルートを介さず、直接大西洋を横断したと考えられる。そして、彼らはカナリア諸島に「グイマーのピラミッド」として知られる遺跡を残した。
マウンド派のティカル人Bが製作した「箸墓古墳」「大仙陵古墳」などの前方後円墳は、洞窟信仰の時代の「ニューグレンジ」の再現だと考えられる。彼らは小型ではあるが、沖縄、朝鮮半島に於いても、「ニューグレンジ」を髣髴とさせる宗教施設を多数建設した。その名残りは、現在でも沖縄、韓国の墓地に見ることが出来る。
その後、需要を失ったティカル人Bは日本から太平洋ルートを介して南米大陸に帰還。ティカル人Dも同時期にカナリア諸島から帰還したが、両者は再度、故地で覇を競うことになる。この時はピラミッド派のティカル人Dが勝利し、彼らは水を得た魚の如く、パレンケに「伯爵の神殿」、「エル・タヒン」遺跡、ウシュマルに「魔法使いのピラミッド」、故地ティカルに「第1〜第4神殿」、チチェン・イツァに「ククルカンの神殿」など、次々にピラミッドや神殿を建設した。
アンデスに残留したティカル人Bと区別するため、日本から帰還したティカル人Bをティカル人Eと呼ぶ。敗北したマウンド派のティカル人Eは、逆にユカタン半島の太平洋側に移住して日本の古墳時代の影響下にあるといわれる「イサパ文化」を形成した。更に、一部ティカル人Eはユカタン半島を去って、北米大陸ミシシッピ流域に移住。「カホキア」と呼ばれる巨大なマウンドを製作し、「ミシシッピ文化」を牽引した。


「ルソン島」

日本に来たティカル人Bはその後、日本に続いて第六の残留拠点ルソン島に到達した。この時に「タガログ族」が誕生した。「タガログ」の名の由来は「ティカル」である。そして、彼らはルソン島から更にメラネシア、ポリネシアに足を伸ばした。つまり、人類史上最初にポリネシアに到達し、且つ太平洋ルートを開発したのはティカル人Bの可能性がある。


「ポリネシア」

ティカル人Bはその後、ルソン島に続いて第七の残留拠点ポリネシア(トンガ島、サモア島)に到達した。この時に「タンガロア」「ティキ」が誕生した。「タンガロア」と「ティキ」の名の由来は「ティカル」である。「ティキ」はポリネシアの神タネの生殖器を司る別人格であり、「タンガロア」はポリネシアの最高神である。
彼らは、ポリネシアの島々100箇所にティキを祀る宗教施設「マラエ」を建設した。中でもタヒチ島のマラエが有名である。これらのマラエは、ユカタン半島と日本を往来したティカル人B、ティカル人Dなどの建築集団によって波状的に建設されたと考えられる。


「イースター島」

その後、タヒチ島を発った彼らは途中で第八の残留拠点イースター島を発見。彼らは、有名な「モアイ」の他に用途不明の石の構築物「トゥパ」、鳥人が祭りの間だけ住み着く「オロンゴの家」などを残している。アステカ帝国、インカ帝国滅亡を機に、マヤ・アステカ・インカに於いて都市、神殿など石造建築に携わった技術者集団が家族を率いて移住するまで、ティカル人は大々的にイースター島に移り住むことはなく、航海の際の休憩地点として使用していたと考えられる。


「スーペ川」

イースター島に続き、ティカル人Bは第九の残留拠点スーペ川(現ペルー)に到達した。時はBC2800年頃であるが、ティカル人Bからディカル人Cが分離した。ティカル人Bは、後にアンデス・ナスカ・インカ文明の根幹を成したが、ティカル人Cは上記に記したようにスーペ川上流域にピラミッド群を建造した。
ティカル人Cはその後、シベリア南部、日本、カラルで得た技術を携えてアイスランド、アイルランド航路を経てユカタン半島の同胞セイバル人、ユート族、ティカル人Aが待つインダス流域に移住し、インダス文明の発展に寄与したと考えられる。
その後、エジプトに進出したティカル人Cは「サッカラ」と名付けた土地に、ジェセル王の命を受けてエジプト初の階段ピラミッドをBC2620年に建造する。ティカル人Cはその後もエジプトを拠点にして、「ギザのピラミッド」など数々のピラミッドや神殿を手がけた。一方、BC16世紀頃にティカル人Dがティカル人Cから分離し、エジプトから故地への帰還を果たす。

BC16世紀、ティカル人の祖マンディンカ人はドルメンを製作しながら、ドルイド教団のエラム人に要請されて「聖なる樹木」であるメンヒルやストーンヘンジの製作を行っていたと考えられる。ティカル人Dは、エジプトからの帰路の途中、ヨーロッパにいた先祖マンディンカ人を率いてユカタン半島に帰還した。そして、入れ替わりにエラム人/シュシャン人(ウェシュシュ人)が、ユカタン半島から来た新世代のティカル人(チェケル人)とセロス人(トゥルシア人)と共に地中海に進撃した。「海の民」の時代である。奇しくも、これ以降、ヨーロッパではメンヒルの製造が中止している。
その後、故地への帰還を果たしたティカル人Dはユカタン半島に定住して本拠地としたが、ドルメンの製作者であるマンディンカ人は、ユカタン半島とアジアを結ぶ太平洋ルートを介して東アジアに移住した。BC1500年頃、マンディンカ人は往年のドルメンの再現である「支石墓」を遼東半島に残している。それから五百年後、朝鮮半島西部に移った彼らは「支石墓」群を高敞、和順、江華に建設。更に、BC500年頃にも、朝鮮半島西部に「基盤式支石墓」を多数残している。
また、マンディンカ人は同時期に日本にも来訪していたと考えられる。明日香村に残されている「石舞台」がその証である。石舞台は蘇我馬子の墓と伝えられているが、あの建築様式を見るとドルメンの製作者マンディンカ人の仕事としか考えられない。つまり、石舞台は実際には蘇我馬子の時代よりも、もっと古い時代の建造物という可能性がある。
後に、ティカル人の子孫、イッサカル族がBC7世紀に「フェニキア人の大航海時代」に参加したが、日本に来た彼らは明日香村の石舞台を一目見て先祖の仕事だと見抜き、「イッサカル」の名を取ってこの地を初めて「アスカ」と命名したと考えられる。

一方、その後のティカル人Cは、プトレマイオス朝の成立を機にエジプトからヨーロッパに移住し、ローマ建築や後のキリスト教の教会建築に携わった。だが、彼らの血統は、「ノートルダム大聖堂」など神秘的かつ大規模な教会建築を手がけたのを最後に消滅した可能性がある。その代わり、ティカル人Cの子孫はモホス文明時代の同胞アベル族の後裔が結成した「フリーメイソン」に参加した。「フリーメイソン」の名の由来は「バベルのメイソン」「ヘブライのメイソン」「ピピルのメイソン」或いは「アベルのメイソン」だと考えられる。
ティカル人Dはユカタン半島を主な拠点にしてマヤ・テオティワカン・アステカ地域に多数のピラミッドや神殿建築を残した。だが、新規勢力「ヨーロッパ人」が到来。1521年のアステカ帝国滅亡を機にティカル人Dが、1533年のインカ帝国滅亡を機にティカル人Bが古巣を失った。彼らの終の棲家は、ユカタン半島でも東南アジアでもなく、太平洋横断の際に使用される休憩地点、イースター島だったと考えられる。
メラネシア、ポリネシアの住民の母体は、ユカタン半島とアジアを行き来していた人々の子孫である。だが、イースター島の場合は、1521年以後、アステカ、インカから移住してきた神殿建築に寄与した技術者集団とその家族が住民の母体を成したと考えられる。彼らの移住は、切羽詰ったものだった。彼らは追い詰められていたのだ。白人に住処を追い立てられた難民のようなものだった。だが、彼らは文句も言わずに僻地に居住し、伝統的な石造建築技術を次代に伝える目的で、モアイの建造を数百年間、継承し続けた。更には、望郷の念を込めて完成したモアイを故地に向けて立たせた。
画家を目指す者は、人物デッサンを数多くこなして画の修行とする。人物はいろいろな形の集合体である。つまり、人物を描破できれば何だって描ける。モアイの彫刻も同じ意味合いを持っていた。人物をうまく彫ることが出来れば何だって彫れる。コスタリカに残されている石球も大方同じ意味合いを持つと思われる。練習の痕跡。あそこまで完璧な円を製作することが出来るのであれば、どんな形だって作り出すことも可能だ。
絶海の孤島、イースター島。ここなら白人も来ないだろうとティカル人は考えていたに違いない。イースター島こそが安住の地だ、と思っていただろう。だが、200年後の1722年、ヨーロッパ人の到来により、イースター島を終の棲家と決めたティカル人B、ティカル人Dもまた消滅してしまった。つまり、BC32世紀頃に始まった「第二次北極海ルート」の旅は、この時に初めて終わった。或いは、ティカル人はまだ現代人に知られていない場所に根を下ろし、ひっそりと巨石建造物の制作を続けているのかもしれない。







































































































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