「聖書の家族」

この家族はアダムを筆頭に、アベル、カイン、セト、エノス、ヤレド、エノク、メトセラ、レメク、ノアと続き、セム、ハム、ヤペテの兄弟でその系譜を終える。この「聖書の家族」の名に因んだ地名、神、民族の名前は世界中に残されている。つまり、彼らは実在した。彼らの子孫は大航海時代を行い、王家・神官として世界各地に君臨したのだ。ただ、エノスとヤレドの間にはカイナン、マハラレルの名もあるが、彼らの名前だけは世界中のどこを探しても確認できない。
この「聖書の家族」は連合したり、或いは単独で大航海時代を敢行し、世界中に重要な文明を残した。中でも注目したいのが、「北極海ルート」である。北極海ルートは二回に渡って行われたが、この大航海時代により、4大河文明に加えて、ユカタン半島の文明が創始されたと考えられる。この第一次北極海ルートに参加したのがアダム族、セム族、アベル族、エノス族、ヤペテ族、ベドウィン族(ヤペテ族の支流)である。彼らは連合し、聖地イウヌ(ヘリオポリス)にて北極探検隊を結成した。
彼らが北極に興味を持ったのは、エノクの時代にバルト海に移住したセム族、ヤペテ族がエジプトに帰還したことが契機だと考えられる。年代的に確実なことは言えないが、目安として、BC5千年くらいの出来事と仮定する。一行はこの北極探検に於いて、シベリア各地に定住し、原住民とのハイブリッドから文明を牽引する種族を多く輩出した。セム族からはシュメール人、ヤペテ族からはアッカド人、ベドウィン族からはヒッタイト人が生まれた。他にも大河文明とは関係ないが、アベル族からはエヴェンキ族とブリヤート族、エネス族からはネネツ族とウォネース族、セム族からはサーミ人、アダム族からはイズマ族とアイヌ人が輩出された。
シベリアに於いては冬季は気温が非常に低く、早いところでは8月下旬に降雪を見る。オイミャコンでは−73度になる一方、夏季には30度以上にまで気温が上昇することもある、いわゆる大陸性気候である。


「スカンジナビア北部」

この北極海ルートでは、もともとバルト海の住人であったセム族、ヤペテ族が主導権を握った。聖地イウヌを発した北極探検隊の一行は、まず、セム族の故地バルト海を目指した。スカンジナビア半島を北上し、北極圏に突入した一行は、第一の残留拠点スカンジナビア半島北部(ラップランド)に到達する。ラップランドでは、セム族の一部が残留を希望した。この時に、「サーミ人」が誕生した。「サーミ」の名の由来は「セム」である。
現在ではサーミ人の多くはノルウェー、スウェーデン、フィンランドの都市圏に住み、トナカイの遊牧を営む人も減少傾向にあるという。だが、一昔前までは、その容貌や狩猟・遊牧を中心にした生活様式もひっくるめて、5千年前のままであったと考えられる。つまり、「第一次北極海ルート」に及んだ古代人の容貌をそのまま現代に伝えているのだ。


「ペチョラ河」

ラップランドに続き、一行は第ニの残留地点ペチョラ河に到達する。北極海探検に於いて、彼らは短い夏の間を選んで航海を行ったと考えられる。長い冬場は定住をするか、文明の創始者である彼らは犬ぞりの原型を発明して探検を続けただろう。ペチョラ河はウラル山脈北部が水源であり、一年の大部分は凍結しているが、夏は航行可能であるという。
ここにアダム族とエノス族の一部が残留を希望する。「イズマ族」と「ネネツ族」「ウォネース族」はこの時に誕生した。「イズマ」の名の由来は「アダム」であり、「ネネツ」と「ウォネース」の名の由来は「エノス」である。


「オビ河」

ペチョラ河に続き、一行は第三の残留地点オビ河に到達する。オビ河には4つの大きな支流があり、現カザフスタン近辺が水源となっている。その支流の1つはカザフスタンとモンゴルの境に端を発しているが、今年3月にその近辺であるショリア山中で人工物と思われる40mを超える花崗岩の壁が発見された。人類史を覆す巨石オーパーツ、ロシアの巨石文明として話題となっている。
このオビ河にはヤペテ族、ベドウィン族、アベル族が残留を希望する。「アッカド人」と「ヒッタイト人」はこの時に誕生した。「アッカド」の名の由来は「ヤペテ」であり、「ヒッタイト」或いは「ハッティ」の名の由来は「ベドウィン」である。ユーラシア大陸にはハ行がカ行を兼ねるという法則がある。「コラサン」と「ホラサン」は同じものであるし、「ハザール」と「カザール」も同じものである。つまり、当初は「アッカド」も「ヤペテ」が転訛した「アッハド」と呼ばれていたと考えられる。それが次第に「アッカド」に統一された経緯があるのだろう。それと同様、「グティ人」と呼ばれる人々は一個の民族ではなく「ハッティ人」である。
BC30世紀前後にオビ河に到達した「第二次北極海ルート」の一団が台頭を始めると、アッカド人やヒッタイト人は移住を決意し、大移動を敢行する。中央アジアからオリエント地方に移住した彼らは、アッカド帝国やヒッタイト帝国を建設する。ウル第一王朝を倒してBC2350年頃にアッカド帝国を建てたアッカド人や、人類史上最初に鉄器を使用したヒッタイト人は北極から来たのだ。
アベル族は北極・中央アジアに名前を残していないが、オビ河に残留した。そしてBC32世紀頃に第二次北極海ルートの一団がオビ河に到達するとアベル族は彼らと連合し、行動を共にした。第二次北極海ルートの面々はハミ人、ティカル人、メトセラ族、スバル人、エノク族、セト族、ヤレド族、セロス人であるが、彼らの内、エノク族、セト族、セロス人、ハミ人、ヤレド族がオビ河に残留を希望し、オビ河上流・中央アジアで連合し「神々の集団アヌンナキ」を結成した。これにアベル族が参加したのである。
「最高神アヌ」の名から「エノク族」が中心になっていたことが分かるが、この「神々の集団アヌンナキ」が中央アジアからオリエント地方に侵攻した際、アベル族も同行した。シリアに存在した彼らの拠点「都市国家エブラ」はBC2240年頃にアッカド人の侵攻を受けた。彼らはこれを機にカナンに移住し、「天空の神バアル」を祀った。「バアル」の名の由来は「アベル」なのだ。また、「オビ」の名の由来だが、ロシア語が由来でないとすれば「アベル」に因んでいる可能性がある。


「エニセイ河」

オビ河に続き、一行は第四の残留地点エニセイ河に到達する。ここではセム族とアベル族が残留を希望する。エニセイ河はモンゴル・バイカル湖近辺が水源であり、年の半分以上は凍結しているという。無数の氷が川を堰き止めて洪水が発生するため、現在ではロシア人が爆発物を用いて氷を吹き飛ばしている。
セム族とアベル族は一年の半分が凍りに閉ざされているツンドラ地帯を抜けて上流のモンゴルに定住したと考えられる。「大月氏」と「ブリヤート族」はこの時に誕生した。「大月氏」
或いは「月氏」は中国人の呼び名であり、自称は知られていないが「シメオン」「シン」など、「セム」に由来していた名前を称していただろう。「ブリヤート」の名の由来は「アベル」である。
「月氏」はその名から月と関係が深いことが分かるが、月氏と呼ばれたセム族はシュメールの神として知られる「月の神シン」をモンゴルで祀っていたと考えられる。BC30世紀前後に「第二次北極海ルート」の一行がエニセイ河に勢力を伸張すると、彼らの一部はそれを機に西方を目指した。
彼らは途中で出会ったアッカド人と意気投合し、メソポタミアに侵攻した。彼らはウル第一王朝を倒し、ウルの神官が祀っていた「月の神ナンナ」を「月の神シン」に改名させた。その後、BC19世紀にバビロニア帝国が台頭すると、セム族はメソポタミアからイスラエルに移住し、「シメオン族」を称した。また、「エニセイ」の名の由来だが、ロシア語が由来でないとすれば「エノス」に因んでいる可能性がある。


「レナ河」

エニセイ河に続き、一行は第五の残留地点レナ河に到達する。ここではアベル族が残留を希望する。レナ河は一年の内、9月末から5月始めの7ヶ月は凍結してツンドラ状態になるが、その後は凍土も融解して一面の湿地帯へと変貌し、夏季には多くの野生生物の生活の舞台となる。
「エヴェンキ族」と「河姆渡文化」を形成する人々はこの時に誕生した。「エヴェンキ」の名の由来は「アベル」である。彼らは「アベ」と「ベル」2勢力に分離し、エニセイ河では「ブリヤート族」を、レナ河では「エヴェンキ族」をそれぞれ形成したのだ。


「北海道」

レナ河に続き、一行は第六の残留地点北海道に到達する。ただ、北海道に到達する直前のベーリング海峡で探検隊は2手に分離した。アダム族、ヤペテ族、セム族はそのまま東アジア太平洋岸を南下したが、アベル族がそのままべーリング海峡を渡り、アメリカ大陸に到達するのだ。その話は後に譲るが、北海道ではアダム族が残留を希望する。
「アイヌ」の名はエジプトの聖地ヘリオポリスの古名「イウヌ」に因んでいると考えられる。つまり、アイヌ人はエジプトの「聖地ヘリオポリス」から来た。アダム族は、北海道を第二のヘリオポリスと考えたのかもしれない。
BC7世紀の「フェニキア人の大航海時代」に参加したブギス族が、故地のジャワ島を発って北海道に移住するが、この時に彼らはアイヌ人に合流する。この時にアイヌ人は「クギ」という別称を得た。「クギ」の名の由来は「ブギス」である。


「長江」

北海道に続き、セム族、ヤペテ族の一行は第七の残留地点長江に到達する。ここでは、ヤペテ族が残留を希望する。「河姆渡文化」は他称であるが、ヤペテ族は古代中原を巻き込み、黄河文明の端緒を切ったと考えられる。BC32世紀には第二次北極海ルートの一団が黒龍江に来訪するが、その中にはセロス人がいた。このセロス人は黒龍江では「トリツ族」を形成した。「トリツ」の名の由来は「セロス」である。
このトリツ族が南下して河姆渡文化のヤペテ族と連合すると、彼らは「太陽神三足鳥」を創始する。鳥の足が「三足」である由来は「トリツ」の名から来ていると考えられる。「トリ」を数字の「3」に例えたのだ。また、この「太陽神三足鳥」は「ヤタガラス」の祖でもあるが、「ヤタ」の名の由来が「ヤペテ」と考えれば、辻褄が合うのではないか。






改訂版「第一次北極海ルートA」



「台湾」

北極探検隊からはエノス族、ヤペテ族、ベドウィン族が次々に抜け、ベーリング海峡に至った時点で残っていたのはセム族、アダム族、アベル族だけであった。一行はベーリング海峡で2手に別れ、アベル族はアメリカ大陸に向かい、アダム族とセム族の一行は東アジア太平洋岸を南下した。アダム族は北海道に残留したため、セム族が単独で大航海時代を続けた。セム族だけになった探検隊は北海道に続き、第七の残留地点台湾に到達する。台湾ではセム族が残留を希望した。
台湾の少数民族として知られる「アミ族」はこの時に誕生したと考えられる。「アミ族」の名の由来は「セム」或いは「サーミ」である。その後、台湾にアミ族の支流が次々に発生した。パンツァ族、サキザヤ族、クバラン族、シラヤ族、パイワン族などであるが、彼らの名は、それぞれの時代に氏族を牽引した偉大な首長の名に因んでいると考えられる。
その後、北極探検隊の一員「セム族」の後裔は、台湾を拠点に東南アジア島嶼部、ニューギニア島、フィリピン島、ミクロネシア海域、メラネシア海域にも顔を出し、漁民として波状的に生活圏の拡大を継続したと考えられる。
興味深いのが、彼らが定住先に選んだ中のひとつソロモン諸島である。このソロモン諸島には「白人の容貌」「金髪」「碧眼」というゲルマン民族の特徴を持つ人々が少なからず存在する。あのような南方の果てに、なぜ金髪・碧眼という白人の特徴を持っている人々が存在するのか、全くの謎とされている。だが、北極探検隊に参加したセム族(サーミ人)がソロモン諸島を訪れたということになれば、事情は変わってくる。
北極探検隊の人々はみなサーミ人のような白人の容貌をしていたと考えられる。だが、彼らはシベリア、北海道、台湾など移住先でモンゴロイドと混血したため、白人の容貌は失われてしまった。ただ、ソロモン諸島には人類が存在しなかったため、そのままの容貌が残された可能性がある。つまり、ソロモン諸島の人々はサーミ人と共に、北極海ルートに参加した古代人の面影を色濃く残す人々なのかもしれないのだ。
一方、このまま南国の地台湾に根を下ろすと思われたセム族だったが、BC31世紀頃にエラム人・エドム人が率いる「ドルイド教神官団」が台湾を訪れる。彼らはこれを機に、台湾を離れ、西方に新天地を目指す航海に出た。


「ミャンマー」

アミ族を筆頭に支流のパンツァ族、サキザヤ族、クバラン族、シラヤ族、パイワン族の一部がこの航海に参加した。台湾に続き、一行は北極海探検時から数えて第八の拠点であるミャンマーに到達する。ミャンマーでは一部アミ族が残留を希望する。「シャン族」はこの時に誕生した。「シャン」の名の由来は「セム」である。
BC21世紀、東方に新天地を求めてインドを発った「ナーガ族」はミャンマーに移住して、シャン族と出会うことになる。両者はこの時に連合して「ナガシャン族」を称した。更に東方を目指したナガシャン族はミャンマーから日本に到達した。彼らは、「ナガシャン」に漢字を当て字し、後に「長髄彦」として知られることになる。「長髄彦」は、第一次北極海ルートの大航海時代に負けず劣らずのユーラシア大陸一周を古代に行ったが、その話は別連載「天孫族・多氏の歴史」の方をご覧いただきたい。


「インド」

ミャンマーに続き、一行は北極海探検時から数えて第九の拠点であるインドに到達する。インドではパンツァ族が残留を希望する。「パンチャーラ族」はこの時に誕生した。「パンチャーラ」の名の由来はアミ族の支流「パンツァ」である。彼らはBC7世紀にはガンジス上流域にパンチャーラ王国を建設し、古代インド16大王国のひとつとして栄えることになる。
また、パンチャーラ族は、バーラタ族、トリツ族、プール族、ブリグ族、マツヤ族と共に「アーリア人」の一部族として知られている。だが、パンチャーラ族以外の部族やアーリア人の名はみな「第二次北極海ルート」に於ける大航海時代の産物である。それはまた別の機会にお話したいと思う。


「メソポタミア」

インドに続き、一行は北極海探検時から数えて第十の拠点であるメソポタミアに到達する。メソポタミアではアミ族、クバラン族、シラヤ族、パイワン族が残留を希望した。「シュメール人」はこの時に誕生した。「シュメール」の名の由来は「セム」である。
いわゆるシュメール文明の下地を形成したのは、「第二次北極海ルート」に参加したヤレド族と「第一次北極海ルート」に参加したセム族だと考えられる。つまり、シュメール文明は「聖書の家族」とモンゴロイドのハイブリッドによる産物なのだ。ヤレド族は一旦台湾に落ち着いたセム族と同様、一旦満州・樺太に落ち着いていたのだが、チュルク族の台頭を機に西方を目指した。これもまた別の機会にお話したいと思う。
BC31世紀頃、アミ族を筆頭にしたセム族の後裔の移住により、「ウンマ」「シッパール」「シュルッパク」などの都市国家が古代メソポタミアに建設された。「ウンマ」の名の由来は「アミ族」、「シッパール」の名の由来は「クバラン族」、「シュルッパク」の名の由来は「シラヤ族」「パイワン族」の組み合わせだと考えられる。「シュメール人は海からやって来た」という伝説があるが、それは正しいのかもしれない。
一方、シュメール人には「ウンサンギガ」なる自称があったといわれる。この「ウンサンギガ」とはエジプト語であり、「ギガの人間」を意味する。アダム族は、聖地ヘリオポリスで「蛇神アトゥム」を祀っていた。「アトゥム」を祀るアダム族の神官にはKAMO、JOCA、ENABA、KAGAなどの氏族がいた。「ギガ」とは、ヘリオポリスの神官氏族のひとつ「KAGA」のことではないかと考えられる。つまり、ヤレド族、セム族の系統のシュメール人とは無関係であった。


「ソマリア」

メソポタミアに続き、一行は北極海探検時から数えて第十一の拠点であるソマリアに到達する。ソマリアではサキザヤ族が残留を希望する。「イサク族」はこの時に誕生した。「イサク」の名の由来は「サキザヤ」である。また、「ソマリア」の名の由来は「シュメール」である。
イサック族は、ソマリアの多数派であるハウィエ族、ダロッド族と対立を続けており、1960年に「ソマリア国」として独立を宣言した。1991年には「ソマリランド共和国」となっている。また、ソマリアの海賊が国際問題として取り上げられることも多いが、彼らも「第一次北極海ルート」の産物といえるのかもしれない。


「イスラエル」

ソマリアに続き、一行は北極海探検時から数えて第十二の拠点である現イスラエルに到達する。「サマリア人」はこの時に誕生した。「サマリア」の名の由来は「ソマリア」或いは「シュメール」である。BC1020年、イスラエル王国統一を機に、サマリア人は四方に離散していたと考えられる。だが、BC722年に北イスラエル王国を滅ぼしたアッシリア人の手引きによりサマリアに帰還することができたと考えられる。つまり、イスラエル王国時代にサマリアに居住していた市民を強制的に排除した、いわゆる「アッシリア捕囚」の背後には、真のサマリア人の故地への帰還という目的が隠れていた可能性がある。アッシリア人はそれを助けたのだ。


次回は第一次北極海ルートに参加し、ベーリング海峡でセム族、アダム族と分離してアメリカ大陸を発見したアベル族のその後についてお話したいと思う。







改訂版「第一次北極海ルートB」


「北アメリカ北西部沿岸」

北極探検隊からはエノス族、ヤペテ族、ベドウィン族が次々に抜け、ベーリング海峡に至った時点で残っていたのはセム族、アダム族、アベル族だけであった。一行はベーリング海峡で2手に別れ、アベル族はアメリカ大陸に向かい、アダム族とセム族の一行は東アジア太平洋岸を南下した。
単独で航海を続けたアベル族はレナ河に続き、第六の残留地点北アメリカ北西部沿岸に到達する。この時に「ベラ・ベラ族」「ベラ・クーラ族」が誕生した。「ベラ・ベラ族」「ベラ・クーラ族」の名の由来は「アベル」である。



「カリフォルニア沿岸」

北アメリカ北西部沿岸に続き、一行は北極海探検時から数えて第七の拠点であるカリフォルニア沿岸に到達する。「イバイ族」「ワポ族」「フーパ族」はこの時に誕生した。「イバイ族」「ワポ族」「フーパ族」の名の由来は「アベル」である。
アベル族は、「ヒベルニア」「バビロン」「ヘブライ」「ビュブロス」「ピピル」「プエブロ」など聖なる名前を多く残している。後世になり、アベル族の子孫「フィブ」が「フリーメイソン」を結成し、この地方に「モルモン教」の拠点を得るが、カリフォルニア地方を「先祖の故地」と認識していたのだろう。



「北アメリカ南西部」

カリフォルニア沿岸に続き、一行は北極海探検時から数えて第八の拠点である北アメリカ南西部に到達する。「ホピ族」はこの時に誕生した。「ホピ族」の名の由来は「アベル」である。
ホピ族が崇拝する「カチナ」は精霊の集団であるが、カチナの中にアベルの名に因んだ名前を多く見ることが出来る。カチナのリーダー格には「アホリ」「アホラ」が、警備役には「ヒリリ」「エウィロ」などがいる。いずれの名も偉大な祖「アベル」に由来しているのが分かると思う。



「ユカタン半島」

北アメリカ南西部に続き、一行は北極海探検時から数えて第九の拠点であるユカタン半島に到達する。「セイバル」はこの時に誕生した。「セイバル」の名の由来は「アベル」である。その後には、北アメリカ大西洋岸を北上してアイスランド島、アイルランド島を発見する。つまり、アベル族がアイルランド、アイスランドを経由してアメリカ大陸に至る航路を発見した。
彼らは、その後に故地である聖地ヘリオポリスに帰還し、同胞であるマンディンカ人、セト族、ノア族をユカタン半島に導いている。途中、バルト海でメトセラ族を同行させた一団はオルメカ文明、マヤ文明の基礎を築くことになる。アベル族は「セイバル」「パレンケ」「ベリーズ」を築き、マンディンカ人は「ティカル」を築いた。メトセラ族は「セロス」を築き、セト族は北アメリカ北西部沿岸に赴いてユタの語源である「ユート族」を残し、ノア族は北米に「ナワトル語族」を残している。つまり、アベル族のアメリカ大陸発見は多くの文明の実りを残したのだ。
アベル族の功績だけを取って見ても、「セイバル」からはバビロニア人、ヘブライ人、ビュブロス人、ピピル人、プエブロ族、スバル人、サバエ人、バーラタ族、フルリ人が輩出され、「パレンケ」からはパルニ人、ルカ人、フリギア人、ブルグント人、フランク人、ポラン族が輩出され、「ベリーズ」からはペルシア人、プロイセン人、ペリシテ人、パシュトゥーン人が輩出されている。
更に、マンディンカ人の功績を見ると、「ティカル」からはピラミッド建造集団、サカ人、クルズ人、スキタイ人、ソグド人、サクソン人、クレタ人、カルデア人、クライシュ族、ギルザイ族、イッサカル族、コリントス人、カルタゴ人、ガリア人、ダキア人、タタール人を輩出している。ノア族の功績はナワ族、那覇の発見などであり、セト族の功績として挙げられるのは「ユート族」から輩出された「ユダヤ人」であり、その後裔であるジュート人、テューダー家、サウード家である。現在のイスラエル国には真のユダヤ人もヘブライ人もいない。
そして、メトセラ族の功績は飛びぬけており、アベル族、マンディンカ人、ノア族、セト族を大きく引き離している。
「セロス」からはチュルク族、トラキア人、チューリンギア族、テュロス人、アシェル族、フェニキア人、テーバイ人、大伴氏、ボルジギン家、クメール人、イリュリア人、バスク人、ヴィスコンティ家、レビ族、ルーベン族、劉氏、フォン人、ハイチ人、イボ人、福建人、フィン人、ウマイヤ家、アッバーズ家、アヴィス家、ハプスブルグ家、パッラヴァ人、ブルボン家、カッパドキア人、吉備氏、カペー家、カンボージャ人、アングル人、倭人、ユリウス家、葛城氏、ヴェネツィア人、ロシア人、アシュケナジム、アゼルバイジャン人、クシュ人、インカ人、ハザール人、イエズス会、ボイイ族、マヤ人、ノルマン人、タイ族、ラーオ族が輩出されているのだ。古今東西に於いて世界をリードしてきた人々は、ほとんど「第一次北極海ルート」「ユカタン半島」を経由して登場しているのだ。
危険と隣り合わせである古代の冒険は、彼らの見聞を広め、発想の転換や多角的なモノの見方を与えた。船上という狭い空間により彼らは仲間の絆を深め、それは異民族との戦いに於いて効果を発揮した。新しい発見による刺激が彼らに更なる冒険を求めさせた。より遠くにより早く。その想いが航海技術、天候観測、船造技術などの発展につながり、知恵の共有が神官、秘密結社などの形成を促したのだ。「文明」は命を懸けた勇気ある船人の航海による賜物なのだ。

























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