東アジアに於ける新デーン人の足跡
紅巾の乱 華僑・倭寇
●海路で東アジアに達したブリテン系デーン人Fグループは中国系、日本系の2勢力に分化した
ということで、ブリテン系デーン人F1(中国系)、ブリテン系デーン人F2(日本系)と仮称する
しかし、F1グループは後にミャオ族、楚、太平道、黄巾族、呉、南詔、大理国、白蓮教(F1aA)、華僑(F1aB)、邪馬台国、倭寇(F1b)に分かれ
●F2グループは皇族(F2aA)、藤原氏(F2aB)、関西平氏(F2bA)、関東平氏(F2bB)、
粛慎・渤海、女真、金(F2cA)、モンゴル帝国(F2cB)、タタール(F2cB1)、オイラート(F2cB2)、高句麗、高麗(F2d)に分化する
また、東北・北海道地方には蝦夷(古代デーン人の末裔)がいた
●陸路で東アジアに到達した新デーン人は匈奴(新デーン人A1a、A1b)、鮮卑(新デーン人A2)、柔然(新デーン人B)、吐藩(新デーン人C1)
唐(新デーン人C2)、契丹(新デーン人D1)、西夏(新デーン人D2)を支配下に置き、随時、中国に侵攻した
柔然は突厥帝国(ギリシア系デーン人)に敗れた
●また、別に陸路で到来したギリシア系デーン人が突厥帝国(旧デーン人B2f)、
ウイグル(旧デーン人B2fA1)、宋(旧デーン人B2fA2)を影から支配、随時、中国に侵攻した
◆デーン人基本仮名称◆
3万年前〜BC5000年期 古代デーン人(ZZ系デーン人)
BC5000年〜BC3000年期 大航海時代古代デーン人(ZY系デーン人)
BC2000年〜BC500年期 旧デーン人(YZ系デーン人)
BC1300年〜 第二大航海時代ブリテン系旧デーン人(YY系デーン人)
BC500年〜 スカンジナビア系新デーン人(XZ系デーン人)
AD700年〜 第三大航海時代 ブリテン系新デーン人・ヴァイキング(XY系デーン人)
AD900年〜 ノルマン人(XX系デーン人)
◆ブリテン系デーン人(旧デーン人)◆
ギリシア(ブリテン系デーン人Aグループ)
シリア・メソポタミア(ブリテン系デーン人Bグループ)
エジプト(ブリテン系デーン人Cグループ)
アフリカ(ブリテン系デーン人Dグループ)
インド・東南アジア(ブリテン系デーン人Eグループ)
東アジア(ブリテン系デーン人Fグループ)
大西洋岸南北アメリカ(ブリテン系デーン人Gグループ)
ブリテン系デーン人A=(A1/エトルリア人、A2/ローマ帝国、A3/アテネ市、ビザンツ帝国、突厥帝国、ヴェネツィア共和国、ハザール帝国)
※古代アテネ人勢力圏(キリキア、マッシリア、コルシカ島、サルディーニャ北部、シチリア東部、ポントス王国、ボスポロス王国)
※西ローマ帝国の中枢移転先(モラヴィア王国、ノヴゴロド公国、ポーランド王国、ハプスブルグ家)
※ビザンツ帝国の中枢移転先(突厥帝国、ハザール帝国、ウイグル汗国、ハンガリー王国、ヴェネツィア共和国、モスクワ公国)
※ハザール帝国の中枢移転先(リトアニア公国、アシュケナージ)
ブリテン系デーン人B=(B1/フェニキア人・ペリシテ人・ダン族、B2/新アラム人、B3/新ヒッタイト人)
ブリテン系デーン人C=(C1/エジプト王朝、C2/テーベ・アメン神官団)
ブリテン系デーン人D=(西アフリカ、ヨルバ人、マダガスカル島)
ブリテン系デーン人E=(セイロン島、インド南部)
ブリテン系デーン人F1=(長江系/ミャオ族、楚、太平道、黄巾族、大理国、白蓮教、広東系/華僑、九州系/邪馬台国、新羅、倭寇)
ブリテン系デーン人F2=出雲を本拠地に北アジア(粛慎)、モンゴル高原(東胡)、朝鮮半島(扶余)、中国南部(呉越)に拠点が築かれた
出雲系:古代出雲、百済、任那日本府、大和朝廷(大伴氏、物部氏)
呉越系(広東):呉、越、南越(ベトナム)、南詔国
東胡系(皇族):鮮卑、柔然、北魏(吉備氏)、大和朝廷(中大兄皇子、中臣氏)
粛慎系(藤原氏):渤海、西夏、女真族、金王朝、清王朝
契丹系(平氏):契丹、モンゴル帝国、タタール
扶余系(蘇我氏):高句麗、大和朝廷(蘇我氏、聖徳太子)、高麗、李氏朝鮮
ブリテン系デーン人G=(オルメカ人/ユカタン半島)
◆新デーン人◆
・旧世代・
新デーン人A1/スカンジナビア系(ケルト人、ドルイド教ローマ人奴隷、ダキア人)
新デーン人A2/スカンジナビア系(キンブリ人、テウトニ人)
新デーン人A2/絹道系(エフタル・ヒョーン人=吐藩、マッサゲタイ人)
新デーン人A2/北亜系(匈奴、フン族)
新デーン人A3/ダーナ神族(スコットランド・アイルランド系カトリック・アイオナ修道院、ティオティワカン帝国)
新デーン人B1/ゴート人(西ゴート王国)
新デーン人B2/フランク人(フランク王国、ノーサンブリア王国、イースト・アングリア王国、マーシア王国、
エセックス王国、ウェセックス王国、サセックス王国、神聖ローマ帝国、エデッサ王国、エルサレム王国)
新デーン人B3/ロンバルディア人(北イタリア地方、ラテン帝国、ジェノヴァ共和国)
・新世代・
新デーン人A1/デーンロー系(ケント王国・カンタベリー大司教座・デーンロー)
新デーン人A1/スウェード人+コリントス人(バルト三国、キエフ公国、ウクライナ)
新デーン人A1/ノルウェー人+旧ブリテン系デーン人(アイスランド共和国、グリーンランド、トルテカ人)
新デーン人A1/デンマーク人(デンマーク王国・カルマル同盟)
ノルマン人A1/フランス系ノルマン人(ノルマンディー公国、フランス王国、外ヨルダン領、ゼンギ朝シリア、カスティーリャ王国、レオン王国、スイス連邦)
ノルマン人A2/イングランド系ノルマン人+新デーン人A1aA(ノルマン朝、ピサ共和国、ナバラ王国、アラゴン王国)
ノルマン人A3/イタリア系ノルマン人(シチリア・ナポリ王国、アンチオキア王国、トリポリ王国、ラテン帝国)
新デーン人A1/反逆派、後にルター派を創設(アルモラヴィド帝国、アルモハード帝国、モロッコ王国、ガーナ王国、ブルガリア帝国)
年代 |
できごと | 勢力 | 内実 |
---|---|---|---|
907年〜 925年 |
福建王国 (出雲の中枢移転) |
古代デーン人E(出) | 天孫が出雲を平定した際、古代デーン人E(蝦/東北が本拠地)を駆逐して代わりに出雲に根を張っていた 古代デーン人E(長/長江が本拠地)の一部勢力が出雲から逃亡、大陸で越を建て、のちに 現・福建省にビンを建てた、福建は貿易立国であり、富を目指して南海貿易に乗り出した それはまた、唐代以来のアラビア貿易につながるものだったという |
1223年 1226年 |
倭寇、初登場 倭寇、高麗沿岸を荒らす |
ブリテン系デーン人F1(倭) 古代デーン人E(出) vsブリテン系デーン人F2(高) |
天孫が出雲を平定した際、古代デーン人E(蝦/東北が本拠地)を駆逐して代わりに出雲に根を張っていた 古代デーン人E(長/長江が本拠地)の一部勢力が出雲から逃亡、大陸で越を建て、のちに 現・福建省にビンを建てた、その福建省の人々が倭寇に船舶関連の技術援助を行っていたという 明らかに大陸、日本本土制覇を狙っていたのだろう |
1283年 | 元王朝 バヤンの海運策 |
ブリテン系デーン人F2(平) 古代デーン人E(出) |
北京は遼(平氏)・金(藤原氏)時代から国都となったが、元になると壮大な規模をもち、人口も大きく 膨れ上がった、それをまかなう食糧は江南地方にゆだねなければならなかった、それでそれをいかなる方法で 北京に運ぶかと言うことで宰相バヤンは頭を悩ませたが、海運に頼ることにふみきった その計画に預かったのが海賊出身の朱清と張センだった、彼らはともに浙江人だったという |
1348年 | 海賊、方国珍 旗揚げ |
ブリテン系デーン人F2(天・反) 古代デーン人E(出・反) vsブリテン系デーン人F2(平) |
本拠の呉、ビンに反逆した天孫系と出雲系の一部勢力が呉越国を建て、その中枢の一部が海賊と化し 塩商、漕運業を営んでいた大物の方国珍が、元に対して反旗を翻した、のちに元朝から参地政事に任じ 会場勢力を背景に雄となった、という |
1350年 | 高麗 倭寇が侵攻 |
ブリテン系デーン人F1(倭) 古代デーン人E(出) vsブリテン系デーン人F2(高) |
|
1351年〜 1366年 |
紅巾の乱 | ブリテン系デーン人F1(長) vs中国人 |
白蓮教の教祖韓山童は北宋微宋の末裔を名乗り、河南で黄河の土木工事に従事していた人夫達を扇動して 反乱を企てたが、挙兵直前に発覚し韓山童は処刑された、劉福通らは韓山童の息子韓林児を擁立して蜂起し 1355年には小明王とし、国号を宋、年号を龍鳳としたという |
1354年 | 天佑 | ブリテン系デーン人F2(天) vsブリテン系デーン人F1(長) |
天孫勢力である呉の後裔、張士誠が建てた |
1357年 | 張士誠 朱元璋、楊完者を攻撃 |
ブリテン系デーン人F2(天) vsブリテン系デーン人F1(長) vs中国人 |
張士誠は、水軍を用いて朱元璋、凶暴な苗族軍を率いた楊完者を攻撃したが、成果を得られなかったという |
1359年 | 紅巾賊 高麗に侵攻 |
ブリテン系デーン人F1 vsブリテン系デーン人F2(高) |
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1368年 | 紅巾賊首領朱元璋 明帝を称す |
ブリテン系デーン人F1 vs中国人 |
ブリテン系デーン人F1a勢力が遂に中国全土に覇を唱えた |
1380年 | 李成桂 倭寇を破る |
ブリテン系デーン人F2(高) vsブリテン系デーン人F1 |
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1381年 | 明王朝 梁王国を滅ぼす |
ブリテン系デーン人F1 vsブリテン系デーン人F2 |
デーン人F1の拠点、雲南をF2グループから奪還 |
1383年 | 李成桂 女真を破る |
ブリテン系デーン人F2(高) vsブリテン系デーン人F2(藤) |
天孫系後裔勢力同士の対立、 |
1392年 | 李氏朝鮮 | ブリテン系デーン人F2(高) | 高句麗は天孫系、皇族の後裔、蘇我氏の勢力圏だったが、その勢力圏で生まれた李成桂が即位 李氏朝鮮は根っこでは天孫系後裔勢力であり、日本皇族と祖を同じくしていた |
1398年 | 李氏朝鮮 鄭道傳の乱 |
ブリテン系デーン人F2 vs朝鮮人 |
早速、日本勢力が朝鮮人貴族の影に潜み、李氏朝鮮転覆を謀った反乱を演出・指揮した |
1399年 | 明王朝 靖難の変 |
中国人 vsブリテン系デーン人F1 |
燕王が挙兵、大挙南下、南京に迫った、燕王が永楽帝として即位、デーン勢力を排した中国人による明王朝、 改めて建つ、この際、前皇帝建文帝が雲南に逃亡したと言われている、やはりデーン勢力だったワケだ |
1410年 | 永楽帝 タタール遠征 |
中国人 vsブリテン系デーン人F2 |
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1419年 | 李従茂、対馬侵攻 朝鮮・三浦に日本人町建設 |
ブリテン系デーン人F2 ブリテン系デーン人F1 vs朝鮮人 |
李従茂が倭寇の本拠地のひとつである対馬に侵攻、これを機に、F1勢力がF2勢力と連合し李氏朝鮮に挑む |
1449年 | オイラート 明に侵入 |
ブリテン系デーン人F2 vs中国人 |
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1479年 | 朝鮮軍・明軍 女真と戦闘 |
中国人 朝鮮人 vsブリテン系デーン人F2 |
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1495年 | タタール 遼東侵攻 |
ブリテン系デーン人F2 vs中国人 |
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1512年 | 李氏朝鮮 三浦の乱 |
ブリテン系デーン人F2 vs朝鮮人 |
三浦の日本人町廃止する |
1517年 | ポルトガル人 広東に出現 |
英国諜報機関ポルトガル分家 英国諜報機関ナバラ分家 ブリテン系デーン人F1 vs中国人 |
新規ブリテン系デーン人勢力であるポルトガル軍とイエズス会が旧ブリテン系デーン人勢力と接触 両者はすぐに意気投合したと見られる |
1519年 | 寧王の乱 | ブリテン系デーン人F1(長) vs中国人 |
中国人に敗れた紅巾賊の末裔が反乱を起こしたが、首謀者の朱宸濠は処刑された |
1520年 | タタール 大同に侵入 |
ブリテン系デーン人F2 vs中国人 |
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1539年 | 倭寇 活動再開 |
英国諜報機関ナバラ分家B 英国諜報機関ルシタニア分家 ブリテン系デーン人F1(長) ブリテン系デーン人F1(倭) vs明王朝 vs李氏朝鮮 |
50年間、倭寇は明にも朝鮮にも出現せず活動停止状態であったが、ここにきていきなり倭寇の活動が活発化 する、その原因として考えられるのはもちろんイエズス会との接触だ、英国勢力であるイエズス会が明を 訪れたのは1513年であり、日本を訪れたのは1543年である、ザビエル率いるポルトガル人を日本に導いたのは ヤジロウという薩摩人であったが彼は大陸人にバハンと呼ばれたいわゆる倭寇であった、またポルトガル船が 種子島に漂着した時、明の大物海賊商人である王直が同乗、彼は後に平戸に永住、倭寇を指揮する 旧来のブリテン系デーン人勢力と新規ブリテン系デーン人(イギリス人)の同盟だ |
1544年 | 李氏朝鮮 甲辰蛇梁の倭変 |
ブリテン系デーン人F2 vs李氏朝鮮勢力 |
釜山浦倭館が1521年に再開されるが英国勢力として再度倭人が朝鮮で暴動を起こしたことにより、以来、 浦所倭館は釜山浦一箇所のみとなる、この倭人は倭寇(F1b)とは異なる日本本土(F2a)勢力だ |
1549年 | フランシスコ・ザビエル キリスト教布教 |
英国諜報機関ナバラ分家B 英国諜報機関ルシタニア分家 ブリテン系デーン人F1(長) ブリテン系デーン人F1(倭) vs日本人 vsブリテン系デーン人F2 |
ザビエルがF1勢力に導かれ、彼らの勢力圏、九州に到着、F2勢力圏(本州)にキリスト教を布教しようと画策 貧乏人をキリスト教徒にして反体制勢力として育成しF2勢力を討つのだ |
1555年 | 倭寇、南京襲撃 倭寇、全羅道襲撃 |
英国諜報機関ナバラ分家B 英国諜報機関ルシタニア分家 ブリテン系デーン人F1(長) ブリテン系デーン人F1(倭) vsブリテン系デーン人F2系 |
ブリテン系デーン人F1b勢力が、F1a勢力の拠点、南京奪還を企図した |
1566年 | タタール 再度遼東に侵攻 |
ブリテン系デーン人F2 vs中国人 |
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1567年 | 倭寇vsスペイン軍 | 英国諜報機関ナバラ分家B 英国諜報機関ルシタニア分家 ブリテン系デーン人F1(長) ブリテン系デーン人F1(倭) vsスペイン人 vsフランス諜報機関 |
「明の海賊、李馬鴻と倭寇、シオコの率いる連合艦隊がスペイン駐屯軍を襲撃駆逐せんとマニラ湾ロコドシル に上陸、兵力は艦隊62艘、水夫2000人、兵卒2000人、いつのまに、どこで、どうした人達によって準備され 編成されたのか分からないがこれだけの組織的行動にはそれ相等の準備が必要である」と歴史家が 言っているがいつのまに、どこで、どうした人達、って英国勢力に決まってますよ ポルトガル、バスク人は14世紀からの英国勢力であり、イエズス会はポルトガル人、バスク人で構成 されているのだが、ザビエルなどは諜報員の精鋭と言えるでしょう 倭寇(九州海賊)、明の海賊商人は日本分家や中国分家の祖なのでしょう |
1574年 | 倭寇vsスペイン軍 | 英国諜報機関ナバラ分家B 英国諜報機関ルシタニア分家 ブリテン系デーン人F1(長) ブリテン系デーン人F1(倭) vsスペイン人 vsフランス諜報機関 |
日明連合の海賊艦隊がマニラ湾のコレヒドールにてスペイン軍を攻略、スペインはカトリックだが、彼らは 英国勢力であるイエズス会ではなく、フランス系カトリックであるドミニコ会、フランシスコ会の修道士 (諜報員)を同乗させていた |
1578年 | 大友宗鱗、日向国侵攻 | 英国諜報機関ポルトガル分家 英国諜報機関ナバラ分家 ブリテン系デーン人F1 vs日本勢力 |
フロイスらポルトガルの英国勢力は宗鱗に日向国(宮崎県)を占領し、そこに日本とは異なる法制度により 統治される都市を建設し、住民は全員キリシタンにするべきだと指令、つまり、植民地を作れということ |
1582年 | 倭寇vsスペイン軍 | 英国諜報機関ナバラ分家B 英国諜報機関ルシタニア分家 ブリテン系デーン人F1(長) ブリテン系デーン人F1(倭) vsスペイン人 vsフランス諜報機関 |
タイフサと称する日本海賊が北ルソンに上陸、スペイン軍と衝突、歴史家は倭寇の単独行動として捉えるが、 明の海賊と同じく実際には、いわゆる後期倭寇は英国勢力であった外国の英国諜報機関分家の常として、 彼らはキリスト教徒であり、傭兵でもあったのだ |
1582年 | 本能寺の変 | ブリテン系デーン人F1(倭) 英国諜報機関ナバラ分家B vs織田信長 |
織田信長と明智光秀は共に英国勢力(キリシタン)であった、英国勢力は信長を支援したが、信長は最初から 天下を取った暁には白人を排除することを決定していた、だがそれを英国勢力に知られてしまい、 英国勢力の意を受けた光秀が信長を討った |
1583年 | 満州人ヌルハチ挙兵 | ブリテン系デーン人F2(藤) vs中国人 |
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1592年 | 万暦の三征(ボハイの乱 文禄・慶長の役、楊応龍の乱) |
英国諜報機関ナバラ分家B 英国諜報機関ルシタニア分家 ブリテン系デーン人F1(長) ブリテン系デーン人F1(倭) ブリテン系デーン人F2(平) vs明王朝 |
秀吉自身(キリシタン大名はともかく)が操作されていたかは定かではないが明帝国滅亡に照準を 絞った英国諜報機関主導の陰謀であるのは間違いが無い、第一、文禄の役に於いて、キリシタン大名 や倭寇(九州海賊)のほとんどが前線に赴いたがそれは彼らの意志ではなく、白人の意志に他ならない また、イエズス会のルイス・フロイスは秀吉が次のように語ったと伝えている「シナ人が自分に服従 するならばその地に留まろうとも占領しようとも思っていない、ただシナの各地にキリシタン教会を建て、 シナ人がみなキリシタンになるように命じた後には帰国しよう、また日本の半分ないし大部分をキリシタンと させよう」コレは秀吉の意志ではなく英国諜報機関の意志である、フロイス自身の筆によるものだろう、 これほどハッキリ英国諜報機関の基本戦略、宗教を侵略装置として自覚していることを物語る文章も 見つからないだろう、どの国の侵略にもこの文章に宿る理念が根幹に潜む、イエズス会は倭寇のことを明の 海賊に聞いた時から倭寇(反体制勢力)を使って東アジアを征服することを考えていたのだろう |
1593年 | (フィリピン) 華人の反乱 |
ブリテン系デーン人F1 vsスペイン人 |
モルッカ諸島をオランダから奪取するためにマニラ総督自らが指揮するスペイン艦隊 が海上を南進、その際、潘和五をボスとする反乱が船上で勃発、総督は殺害され 船はベトナムに漂着、1595年、報復としてマニラから5000人の華僑が追放された |
1594年 | 東林書院再建 | ブリテン系デーン人F1 vs中国人 |
書院とは学校だが、東林書院は儒教の徒でありながらキリスト教宣教師と交流しまた、英国勢力、明海賊の 末裔、鄭成功が東林書院で学んでいることもあり、東林書院は俄然、儒教を模した英国勢力育成所だったと 考えられる、そのため、明政府も、多数ある書院廃止の意向を示し、両者は何年もの間、対立し しかも東林書院の勢力は中国人キリスト教徒の巣窟、南京を本拠地にしていた |
1603年 | (フィリピン) 華僑虐殺 |
スペイン人 vsブリテン系デーン人F1 |
黄江という秘密結社のリーダー格が華僑の組織化を謀り、当局に察知され、スペイン兵により華僑二万人が 虐殺された、これでマニラの華僑は500人に減ったが驚くべきことに、数年のうちに一万人台に回復した |
1622年 | 「白蓮教」の乱 | ブリテン系デーン人F1 vs中国人 |
もともと中国国内に存在した宗教団体に英国諜報機関がテコ入れ、清における反体制勢力を教育、援助、失敗 |
1627年 | 後金 朝鮮半島に侵攻 |
ブリテン系デーン人F2(藤) vs朝鮮人 |
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1631年 | 明王朝 李自成の乱 |
ブリテン系デーン人F2(平) vs中国人 |
黄河支流沿いの山奥出身の李は野蛮であったことから山賊であった可能性がある 彼は野蛮な振る舞いを側近にたしなめられたが、その側近は李を影で操作する 任務を負った英国勢力中国分家の諜報員だろう、李は明を倒し、天下を取るが その天下も40日で終幕、清軍に壊滅させられる |
1637年 | 島原の乱 | 英国諜報機関ナバラ分家B 英国諜報機関ルシタニア分家 ブリテン系デーン人F1(長) ブリテン系デーン人F1(倭) vsブリテン系デーン人F2 |
もちろん、英国勢力であったイエズス会が企画した反乱だが、現場では倭寇の一大勢力、松浦党や平戸、 天草の海賊の残党、明の海賊、王直の手下などの大物海賊が島原の乱の準備や指揮、戦闘に関わっていた と見られる、九州は当時から既に大英帝国の領土だったと捉えて良いだろう |
1640年 | 李氏朝鮮 倭館の移転要求 |
ブリテン系デーン人F2 vsブリテン系デーン人F2(朝) |
「この頃、後金軍(後の清)が朝鮮半島へ南下しているとの噂がしきりでいつここが戦乱に巻き込まれるか分かり ません、ついては以前、日本軍が築城した釜山城を改築してそこへ倭館を移し兵器を備えるなどしたい」と 後金軍侵攻を口実に釜山を英国勢力の拠点にしたいという英国勢力の狙いが見える |
1657年 | 孫可望、呉三桂 雲南侵攻 |
中国人 vsブリテン系デーン人F1(長) |
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1658年 | 明、重慶侵攻 呉三桂、再度、雲南侵攻 |
中国人 vsブリテン系デーン人F1(長) |
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1659年 | 鄭成功 南京を包囲、失敗 |
ブリテン系デーン人F1(長) vs中国人 |
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1659年 | 清、雲南侵攻 永暦帝、ビルマに逃亡 |
ブリテン系デーン人F2 vsブリテン系デーン人F1 |
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1661年 | 鄭成功 オランダ追放 |
英国諜報機関ナバラ分家B 英国諜報機関ルシタニア分家 ブリテン系デーン人F1(長) ブリテン系デーン人F1(倭) vsノルマン人A2b(蘭) |
明の海賊商人の大物、鄭芝龍と平戸のキリシタン女性、田川松の息子である鄭成功は英国勢力として台湾から オランダ勢力を排除した、また清の勃興により、東アジアに於ける覇権を目指す英国諜報機関は明帝国から 清の勢力に照準を変更、鄭成功は明を清の侵略から救うとして「反清復明」を提唱したが果たされることは無かった |
1661年 | 鄭成功 フィリピン侵攻 |
英国諜報機関ナバラ分家B 英国諜報機関ルシタニア分家 ブリテン系デーン人F1(長) ブリテン系デーン人F1(倭) vs英国諜報機関ナバラ分家A vsフランス諜報機関 |
鄭成功は、台湾をオランダから奪取した手腕を英国諜報機関に買われ、スペインが支配するフィリピン奪取の使命 を与えられた、危険を感じたスペイン側は華僑の出国を命じるが、スペイン軍はそれに抗議した華僑3000人を 殺害(多分水増し)1686年には華僑のボス、ティカが報復としてスペイン人区長を襲撃、数百人が死亡 |
1678年 | 李氏朝鮮 新倭館完成 |
ブリテン系デーン人F2 vs李氏朝鮮 |
これより200年にわたる日本人町倭館がスタートする、ここを拠点に日本人は英国勢力として諜報活動を展開、 閔妃などの朝鮮側英国勢力を育成する、こうして見ると英国諜報機関は華僑に東南アジア(オランダ、スペイン) を、倭寇分家には朝鮮をまかせていたといえる |
1683年 | 清王朝 鄭氏を滅ぼし台湾を領有 |
ブリテン系デーン人F2 vsブリテン系デーン人F1 |
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1690年 | 清王朝 第一次ガルタン汗遠征 |
ブリテン系デーン人F2 vsブリテン系デーン人F2 |