ヴァイキングとノルマン人
ノルマン人の帝国@ T ヴァイキング時代
スコーネからユトランド半島〜
デーンロー・ノルマンディーに中枢移転
◆デーン人基本仮名称◆
3万年前〜BC5000年期 古代デーン人
BC5000年〜BC3000年期 大航海時代古代デーン人
BC2000年〜BC500年期 旧デーン人
BC1300年〜 大航海時代ブリテン系デーン人
BC500年〜 新デーン人/旧世代
AD700年〜 大航海時代 新デーン人/新世代
◆新デーン人◆
・旧世代・
新デーン人BC(ケルト人、ドルイド教ローマ人奴隷、ダキア人、ジュート人、ロンバルディア人)
ダーナ神族(スコットランド・ハイランド、ティオティワカン帝国、アステカ帝国)
匈奴(フン族)
エフタル・ヒョーン人(アルモラヴィド帝国、アルモハード帝国、モロッコ王国、ガーナ王国、ブルガリア帝国)
新デーン人AD(ケント王国、カンタベリー大司教座・デーンロー)
デンマーク人(デンマーク王国、カルマル同盟)
・新世代・
フランス系ノルマン人(ノルマンディー公国、フランス王国、外ヨルダン領、ゼンギ朝シリア、カスティーリャ王国、レオン王国、スイス連邦)
イングランド系ノルマン人+新デーン人・正統派(ノルマン朝、ピサ共和国、ナバラ王国、アラゴン王国)
イタリア系ノルマン人+ロンバルディア人(シチリア・ナポリ王国、アンチオキア王国、トリポリ王国、ラテン帝国)
・英国諜報機関の勢力分化と発展・
英国諜報機関(新デーン人・ノルマン人・ブリトン人)「聖公会」※のちにノルマン人・ブリトン人が離脱
英国諜報機関(新デーン人・ノルマン人・ブリトン人)「バプティスト」※のちに分裂
英国諜報機関(新デーン人・ノルマン人・ブリトン人)「メソジスト」※のちに分裂
エフタル「ルター派教会」
エフタル「オラトワール協会」
エフタル「クェ−カー」
※過去の宗教組織:「アルビ派」「聖アウグスチノ修道会」
バスク分家B「イエズス会」
ブルグント分家「ツヴィングリ系改革派教会」
フリース分家「カルヴィン系改革派教会・アナバプティスト」
ブリトン人「ピューリタン・会衆派」
フリース分家・ダーナ神族「長老派」
アテネ人=フランク人
新デーン人=ジュート人、サクソン人
ブリテン系デーン人(akaブリトン人)=ノルウェー人
ノルマン人=ノルマンディー、デーンロー
ダーナ神族=スコットランド(ハイランド)、アングル人、デンマーク人
年代 |
舞台 | できごと | 勢力 | 内実 |
---|---|---|---|---|
8世紀後半 | フランク王国 アングロサクソン諸王国 |
ヴァイキング登場 | ノルマン人 vsアテネ人 vs新デーン人 vsダーナ神族 vsブリテン系デーン人 vsルシタニア分家 vsブルターニュ分家 |
ヴァイキングとはデーン人、ノルウェー人、スウェード人のことだが、ノルウェー人はブリトン人 スウェード人はコリント人に操られていた そして、デーン人と呼ばれたヴァイキングはノルマン人のことであるが、3者の目的はいずれも 異なっており、お互い敵同士であった、フランク人は、北方から来た人ということでデーン人 をノルマン人と呼んでいた、ノルマンディーのノルマン人とデーンローのデーン人は同族なのだ ノルマン人の敵は、アテネ人、ブリトン人、ダーナ神族(ハイランド)、新デーン人、ルシタニア人 ブルターニュ人(ローランド)の6種であり、いずれの民族もデーン人の血を引いている 上記の6種族は指揮官を司り、フランク人、デンマーク人、アングル人、サクソン人、 アイルランド人、スコット人、ピクト人、ノルウェー人などは6種族の傭兵と心得るといい アテネ人はカトリックを統括し、フランク人を使って欧州を支配、ダーナ神族はブリトン人と組み アイオナ修道院を設立、また、ダーナ神族はブリトン人の配下のアングル人と組み、 リンディスファーン修道院を設立、そして新デーン人はジュート人と共にケント王国を建て、 キリスト教の神官としてアングル人、サクソン人を支配下に置いた が、初期の頃にはブリトン人の配下だったサクソン人がケント王国に侵攻することもあった 尚、ブリトン人はノルウェー人を支配、アイルランドを拠点に何度もブリテン島を攻撃した |
793年 | ノーサンブリア王国 | ノルマン人襲撃 | ノルマン人 vsアングル人 vsダーナ神族 |
ヴァイキングがリンディスファーン修道院を襲撃、偶然のようだが明らかに目的があって ヴァイキングはこの修道院を攻撃しているだろう、じつはダーナ神族が 新デーン人勢力であるアングル人と組んだのだ、その象徴がリンディスファーン修道院の 建立だった、ゆえに、新デーン人は裏切り者のアングル人及び、首謀者であるダーナ神族を 滅ぼさねばならなかった |
794年 | ノーサンブリア王国 | ノルマン人襲撃 | ノルマン人 vsアングル人 vsダーナ神族 |
ヴァイキングが再度、リンディスファーン修道院を襲撃 この当時、ノルマン人はカンタベリー大司教座を拠点にしていた新デーン人の配下だったが 力を付けるに及び、ノルマン人は新デーン人に反逆し、デーンローなどを築く |
795年 | ラムベイ島 (アイルランド) |
ノルウェー人襲撃 (ブリテン系デーン人と連合) |
ノルウェー人 ブリテン系デーン人 vsノルマン人 |
古代からのブリテン島の主であるブリテン系デーン人にうながされ、 ノルウェー人はノルマン人と対立したと考えられる ノルウェー人の拠点ノルウェーもブリトン人の勢力圏に納まっていただろう |
800年〜 815年 |
マン島 (イングランド) |
ノルマン人襲撃 | ノルマン人 vsブリテン系デーン人 |
ブリテン島、アイルランドの両方を追撃するための拠点として入手 |
834年 | フランク王国 | ノルマン人襲撃 | ノルマン人 ノルウェー人 ブリテン系デーン人 vsアテネ人 |
ノルマン人はフランク王国に内部的混乱をひき起こし、利益を得たらしい この時も、ブリトン人が支配するノルウェー人(アイルランドのヴァイキング)と合流し、 ソンム川、セーヌ川、ロアール川などから攻略を開始 河口の島などに冬営し、川を遡って掠奪するのが慣わしであった |
838年 | ウェセックス王国 フランク王国 |
ノルマン人襲撃 | ノルマン人 vsサクソン人 vsアテネ人 |
ノルマン人がイギリス東部コーンウォールを襲撃、フランク王国北岸来襲 ノルマン人はコーンウォール人と組んでウェセックスに侵攻したが撃退される |
839年〜 | (スコットランド) (アイルランド) |
ノルマン人襲撃 | ノルマン人 vsダーナ神族 |
オークニー諸島・ヘブリディーズ諸島・スコットランド北岸アイルランド東岸にオークニー伯爵領 |
841年 | アルバ王国 | スコットランド統一 | ダーナ神族 vsブルターニュ分家 vsルシタニア分家 |
ダーナ神族がピクト人を使い、またアイルランドのルシタニア分家がスコット人をアルバに派遣 3つの勢力が相対立し、抗争を繰り返していたが ハイランドを支配するダーナ神族がノルマン人(ヴァイキング)の襲来を察知、ケネス1世は ローランドを支配するブルタニュ分家と協力、急遽アルバの統一を達成した また、ダーナ神族はこの頃に配下のアングル人をユトランド半島に派遣し、デンマーク王国 の基礎を成したと考えられる、アングル人はユトランドを出てブリテン島に赴き、 再度、ユトランド半島に戻ったのだ |
841年 | フランク王国 | フォントノワの戦い (ノルマン人の先駆け) |
ノルマン人 vsアテネ人 |
ルートヴィヒ1世死後、3人の息子が領土をめぐって諍いを起こしたが、その影には 新デーン人が暗躍している。フランク王国の領土は長男のロタール1世が全て手にするはず であったが、弟のルートヴィヒ2世、シャルル2世が抵抗、841年にフォントノワの戦いが 起こる。その後、ヴェルダン条約により、ロタールは現在のスイスを含むオランダ、 ベルギー、西ドイツ、北イタリア、シャルルはフランス、ルートヴィヒ2世が東ドイツ、チェコ、 オーストリア、ポーランドの一部とそれぞれの領土を得るが、以上、見て分かるように狡猾な ノルマン人がシャルル2世をそそのかしフランスを手に入れるために反乱を扇動し、戦闘に 協力したことは想像に難くない。事実、ロタール1世が弟らの反乱を制圧するために 新デーン人に軍事協力を申し出たが拒否されている |
843年 | 西フランク王国 | ナント襲撃 | ノルマン人 vsアテネ人 |
ロアール川の河口に近いナントが襲撃された時は、丸一日、火災と殺戮が続き僧正は 祭壇で斬り殺された、例によってロアール川の河口の南岸に浮かぶノアールムーティエ 島を拠点にしそこで冬営した |
844年 | セビーリャ王国 (スペイン) |
ハスタインとビヨルンの遠征 | ノルマン人 vsイスラム教徒 |
セビリャの城壁を破壊、ヴァイキングが世界制覇の野望を完遂させるためにはイスラム圏 との接触は不可欠だった、この頃ヴァイキングは欧州に於いては連戦連勝であったが イスラム圏に歯が立たなかった、それはおそらくイスラム圏には自分達の利益に貢献する 者(裏切り者、売国奴)がいなかったためだろう |
845年 | 中フランク王国 | ノルマン人襲撃 | ノルマン人 vsアテネ人 |
デンマーク王ホリックの派遣した600隻から成る船隊はハンブルグを焼き払った |
850年 | マーシア王国 | ノルマン人襲撃 | ノルマン人 vs新デーン人 |
イングランド東南のサネット島に冬営し、ロンドンを占領した だが、この時もアクリーで敗退し他の地域からも追放されてしまった |
850年 | (アイルランド) | ノルマン人襲撃 | ノルマン人 vsルシタニア分家 |
「黒い異邦人(デーン)」がダブリンを襲撃、ノルマン人がアイルランドを掌握、 しかしノルウェー人がダブリンに襲来 |
851年 | (アイルランド) | ノルマン人対ノルウェー人 | ノルマン人 vsブリテン系デーン人 vsノルウェー人 |
ダブリン北80キロにあるカーリングフォードでノルウェー人とノルマン人が激烈な戦闘を 演じ、5000人のノルウェー人が殺害されたという |
851年 | (アイルランド) | ノルウェー人逆襲 | ブリテン系デーン人 ノルウェー人 vsノルマン人 |
ノルウェーからオーラフという首領が救援に駆けつけ、ダブリンを再び占領、これを最後に ノルマン人をアイルランドから駆逐、以降18年間、ダブリンはオーラフに支配され、ライムリック は弟イヴァルの支配下に置かれた、オーラフがノルウェーに帰還するとイヴァルが ダブリンも支配した |
855年 | マーシア王国 | ノルマン人襲撃 | ノルマン人 vs新デーン人 |
イングランド西南のセヴァーン河口から上流にあるマーシア王国にまで深く侵入したものの 結局はテムズ川河口のシェッピー島の根拠地へと引き上げた |
856年 | 西フランク王国 | ノルマン人襲撃 | ノルマン人 vsアテネ人 |
ビヨルンに率いられたヴァイキングがパリ襲撃 |
859年 | 西フランク王国 | ヴィーラント、傭兵の申し出 | ノルマン人 vsアテネ人 |
シャルル2世がビヨルン率いるヴァイキングに困っていたところ、ヴィーラントという ヴァイキングが新しく来襲、銀3000ポンドを払えばビヨルンたちを片付けようと申し出、 シャルルは快諾、しかし、ビヨルンとヴィーラントは、どう考えても組んでいたと思われる ヴィーラントがビヨルンから銀6000ポンドを獲得したとあるが、ウソでしょう |
866年 | 西フランク王国 | ヴィーラント対ビヨルン | ノルマン人 vsアテネ人 |
この時までヴィーラントのヴァイキング一掃事業が続けられ、ヴィーラントはシャルルに金銭 の他に更に食料、葡萄酒を要求、やがては奴隷までも所望するようになる、あきらかに詐欺 であり、国民の前でクサイ芝居を打てというヴァイキングによる強制だったワケだが、無力 だったシャルルはどうすることも出来なかったのだろう |
866年 | イーストアングリア王国 ウェセックス王国 ノーサンブリア王国 |
ノルマン人襲撃 | ノルマン人 vs新デーン人 |
ハーフダン、イヴァル、アッペなど、ラグナル王の息子たちはイーストアングリアに拠点を 設け、ウェセックスに向かったが現地民の抵抗にあい、進撃を停止したという |
867年 | ヨーク王国 | デーン税 | ノルマン人 vs新デーン人 |
ノルマン人がヨークシャーの中心、ヨークを陥落し、新しい拠点とした、南下してノッティンガムに 到達し、翌年には最初の「デーン税(みかじめ料)」を徴収した |
869年 | イーストアングリア王国 | ノルマン人襲撃 | ノルマン人 vs新デーン人 |
例の湿地帯で僧院を掠奪し、セットフォードで冬営した、イーストアングリアのエドモンドは 自分の小王国を守るために奮戦したが拿捕され殺害、王国も滅んでしまった、いよいよ ウェセックスの平定ということになったウェセックスさえ手中にすれば全イングランドを支配 することが出来る |
870年 | マーシア王国 | デーンロー建設 (ノルマン人の中枢が ブリテン島に移動) |
ノルマン人 vs新デーン人 |
ノルマン人がイギリス中部にデーンローと呼ばれる植民地を得る、数百年前から新デーン人は ユトランド半島からブリテン島のジュート王国を支配していたが、ここにきてノルマン人の中枢が ユトランドからブリテン島に拠点を移した |
870年 | ウェセックス王国 | エセル・ウルフの襲撃 | 新デーン人 vsノルマン人 |
ハーフダンはロンドン西にあるリーディングに移った、彼らはリーディングに注ぐケンネットの 流れとテムズ川の間に冬営ウェセックスのエセル・ウルフは息子アルフレッドと共同で ハーフダンの陣地を襲ったが撃退された |
873年 | マーシア王国 | ロンドン掠奪 | ノルマン人 vsアングル人 |
ハーフダン、ロンドン掠奪 |
875年 | (アイルランド) | デーン人襲撃 | ノルマン人 vsブリテン系デーン人 vsノルウェー人 |
ハーフダンなるノルマン人の首領がアイルランドに侵攻 |
876年 | ヨーク王国 | ヨークシャ分割 | ノルマン人 vsアングル人 |
ハーフダンは北方に向かい、恒久的な王国の建設を計画、ヨークシャを分割しマーシア 東北部を部下に与えたそこにノルマンの法律と小作制度が導入された |
876年 | ウェセックス王国 | アイルランドのノルウェー人 ドーセットシャ上陸 |
ブリテン系デーン人 ノルウェー人 vs新デーン人 |
アイルランドにいたノルウェー人がドーセットシャに上陸した際、ノルマン人は協力を打診、 だが、878年にブリトン人・ノルマン人率いるヴァイキング軍が大敗し、ノルマン人は ウェセックス王国制覇を永久に断念、イーストアングリアに落ち着いたという |
878年 | ウェセックス王国 | ウェドモーアの和議 | ノルマン人 vs新デーン人 |
ノルマン人の首領グッドラムが受洗し、アルフレッド大王の養子となることでデーンローを手中に したといわれる、つまり、実際には新デーン人がノルマン人をキリスト教に改宗させることで 支配下に置くことを画策したということだ、ノルマン人が侵攻するはるか前から新デーン人は 既にブリテン島キリスト教の聖地であるカンタベリー、ロチェスターを支配下に置いていた 彼らはその上で自分の意志を神の意志と称し、キリスト教徒(アルフレッド大王)を操作した アルフレッド大王が王でいる限り、新デーン人のイングランド支配という事実は存在しないのだ |
885年 | ケント王国 | ノルウェー人襲撃 | ブリテン系デーン人 ノルウェー人 ノルマン人 vsジュート人 vs新デーン人 |
ノルウェー人がロチェスターを襲撃した際、デーンローにいたノルマン人はノルウェー人に 加勢、新デーン人の勢力圏、ケント王国に侵攻、ドルイド教がキリスト教に挑戦したということで いわば、宗教戦争だった |
892年 | ウェセックス王国 | ノルマン人襲撃 | ノルマン人 vsサクソン人 vs新デーン人 |
ノルマン人が大挙して侵攻、デーンローのノルマン人が再度加勢 ノルマン人とアルフレッド大王(新デーン人勢力)の間で激しい戦闘が演じられたが、ノルマン人は アルフレッド大王に敗北、さすがのノルマン人も陰謀では新デーン人にはかなわなかった |
892年 | ウェセックス王国 | ノルウェー人襲撃 | ブリテン系デーン人 ノルウェー人 vsサクソン人 vs新デーン人 |
アイルランドのノルウェー人(イヴァルの息子)がイングランド侵攻 ブリトン人勢力であるノルウェー人が、サクソン人(キリスト教徒)を操作する新デーン人と対立 |
892年 | ウェセックス王国 | ノルウェー人襲撃 | ブリテン系デーン人 ノルウェー人 ノルマン人 vsサクソン人 vs新デーン人 |
アイルランドのノルウェー人がイングランドを襲撃した際、デーンローのノルマン人が ノルウェー人に加勢、だが、毎回、勝つことが無かったという この対決は、実質的にはブリトン人・ノルマン人連合vs新デーン人という構図だ |
900年以降 | ソルウェー湾 (イングランド) (スコットランド) |
ノルウェー人襲撃 | ブリテン系デーン人 ノルウェー人 vsサクソン人 vs新デーン人 |
アイルランドに植民したヴァイキングがブリテン島に侵攻、北に向かって湖水地方を襲った ブリトン人はノルウェー人を操作し、新デーン人勢力圏に侵攻した |
901年 | (アイルランド) | ケルト人、アイルランド奪還 | ルシタニア分家 vsノルウェー人 vsブリテン系デーン人 |
イヴァンの息子が暗殺され、指導者を失ったノルウェー人は動揺し、その間、アイルランド側 の蜂起が行なわれた、アイルランド人蜂起という事象の背後にはルシタニア分家または 新デーン人の策略が隠れているだろう |
910年 | フランス王国 | 「クリュニー修道院」 | ノルマン人 vs新デーン人 vsダーナ神族 vsアテネ人 |
この時からフランスに於けるヴァイキングとヴァイキングの活動は歴史上から姿を消すこと になる、ノルマン人の首領ロロが、強奪した莫大な財宝を元手に従来のカトリックを模した 独自の利益を追求する組織を体系化。 ロロは、ノルマンディー公国をノルマン人の強固な要塞として機能させるために クラモール・ド・ハローと呼ばれる異分子排除(フランク人、ケルト人、新デーン人)を慣行。 十字軍もじつはクリュニー修道会が主導した。つまり、十字軍は 本質的にはノルマン人によるイスラム圏蹂躙だった。のちに、聖ヨハネ騎士団(またの名を ホスピタル騎士団)を結成。この時から既に、諜報機関、宗教団体、医療機関は表裏一体であった ノルマン人は武力ではキリスト教徒(フランク勢力)に勝てない ことを悟り、改宗を決意する、つまり、キリスト教徒は聖職者のいうことなら何でも聞くが、 ノルマン人は自分たちが聖職者になれば良いと考えたのだ、それが無理なら新しい修道会 を作る…ということで、クリュニー修道会が誕生したのだ、自分達の 意志を「神の意志」と称し全欧州のキリスト教徒を操るのだ! |
910年 | ウェセックス王国 | デーンロー駆逐 | 新デーン人 vsノルマン人 |
この時期にウェセックス王国はデーンローを超えて勢力を拡大した つまり、新デーン人がキリスト教徒サクソン人を使い、ノルマン人を駆逐した |
911年 | フランス王国 | ノルマン人、キリスト教改宗 | ノルマン人 vs新デーン人 vsダーナ神族 vsアテネ人 |
ノルマン人の首領ロロ(ノルウェーのヴァイキング)がキリスト教に改宗 キリスト教徒はキリスト教聖職者のいうことなら何でもいう事を聞く、つまり武力で キリスト教徒(フランク勢力)を抑えつけるのではなく、まず自分たちがキリスト教に改宗し聖職者に なれば欧州はおのずとノルマン人たちのモノとなる、彼らはそれに気付いたロロは 「自分で創った」そして「自分で選んだ司祭のいる」クリュニー会に入信したわけだ |
911年 | フランス王国 | ノルマンディー分与 「クラモール・ド・ハロー」 |
ノルマン人 vsフランク人 |
ノルマン人(ヴァイキング、デーン)によるノルマンディー分与されたがアルフレッドと グットルムの間に行なわれた妥協に似ている、ロロは再建者に変貌し、人民から尊敬の 念で迎えられ、公正な態度ゆえに人々が法律の保護を求める場合、 「クラモール・ド・ハロー」という習慣が根付き、証人の前にひざまずいて「お助け下さい 王様、私は被害を受けているのです」と呼ばわるのだがそうすれば事件はただちに 法廷に持ち出さなくてはいけないと決められて いたという、どうも、このシステムは現在の人権擁護法案や中世の魔女狩りのように、 ノルマンディーに於ける異分子、新デーン人、ケルト人、フランク人を排除するためにだけ、 つまり「異分子排除」のために創られノルマン側が気に入らない者に創った罪を着せ、 裁判で犯罪者の汚名を着せて社会的に抹殺するだけのシステムであり、真の被害者 は決して救われないシステムなのではないか、という印象がある、一見良いシステム に見えるが被害者がすぐに被告を裁判に引きずり出せるというシステムは脅威に他ならない |
913年 | (アイルランド) | ノルウェー人襲撃 | ブリテン系デーン人 ノルウェー人 vsルシタニア分家 |
ノルウェー人が再度出現、四年間の戦闘の末に支配権を確立、980年まで維持 |
918年 | ヨーク王国 | ノルウェー人襲撃 | ブリテン系デーン人 ノルウェー人 vs新デーン人 |
ダブリン王(ノルウェー人)がヨーク王国を襲撃 |
937年 | ソルウェー湾 (イングランド) (スコットランド) |
ブルナンバラの戦闘 | ブリテン系デーン人 ノルウェー人 vs新デーン人 vsダーナ神族 |
新デーン人はイングランドのキリスト教勢力を操作した(もちろん、操作されて いるアングロサクソン側はデーンに操作されている自覚は無い) この戦闘に於いては新デーン人がダーナ神族と提携、ウェールズのキリスト教徒を指揮したが、 ノルウェー人に敗北、ノルウェー人勢力はデーンロー内のヨーク王を駆逐、ヨーク王国を 占拠したが、逆に新デーン人はのちにアイルランドのノルウェー人をブリテン島から駆逐する ノルウェー人(ブリトン人)と新デーン人勢力(キリスト教)の全面戦争だったといえる |
954年 | ノルウェー人植民地 (アイルランド) (ヨーク王国) |
ノルウェー人勢力排除 | ブリテン系デーン人 ノルウェー人 vs新デーン人 |
スコットランド王(ダーナ神族)が巧みな手段でノルウェー人のアイルランド植民地を 手に入れ、ノルウェー人が占領したヨークシャもノーサンブリア王国に併合された ダーナ神族はこの後しばらくノルウェー人と連合を組む |
966年 | ウマイヤ朝 (スペイン) |
ノルマン人襲撃 | ノルマン人 vsイスラム教徒 |
ノルマン人がスペインに来襲、ムーア人(イスラム教徒)に撃退された |
978年 | ウェセックス王国 | エセルレッド2世亡命 | ノルマン人 vs新デーン人 vsダーナ神族 vsデンマーク人 |
ノルマン人の配下となったエセルレッド2世は、デンマーク人(ダーナ神族)に抵抗する代わりに 多額の賠償金を払ったが、その上「デーン税」を課せられた 彼はやがて王妃エンマの故郷ノルマンディーに亡命、クヌート帝国建国は 新デーン人、ダーナ神族(デンマーク人)による、対ノルマン人対策といえる |
980年 | (イングランド) | デンマーク人襲来 | 新デーン人 ダーナ神族 デンマーク人 vsノルマン人 |
宗教勢力は新デーン人勢力下にあったが、王室にはノルマン人の后が迎えられ、ノルマン人 勢力になりつつあったため、新デーン人がダーナ神族に協力を打診、ダーナ神族は配下の デンマーク人をブリテン島に導入、デンマーク人がブリテン島に襲来するようになる |
980年 | (アイルランド) | タラの会戦 | ルシタニア分家 vsブリテン系デーン人 vsノルウェー人 |
ダブリン王オーラフ(ノルウェー人・ブリトン系)はミーズ王(ルシタニア分家)と特別な関係を 持ったが両家の不和が彼の没落の原因となったとされているが、実際にはオラフの没落の 原因はキリスト教に改宗していなかったことだ、オーラフ王はアイルランド側に敗北し、彼の 根拠地ダブリンも炎上、ヘブリディーズ諸島のアイオーナ僧院に退いた |
989年 | (アイルランド) | シグトゥリッグ、ダブリン王に | ルシタニア分家 vsブリテン系デーン人 vsノルウェー人 |
オーラフの息子シグトゥリッグがダブリン王になり、レンスター家とミーズ家の確執を巧妙に 操作、一時は成功を収めたが11年後にアイルランド制覇を狙っていたマンスターの ブリアン王(ルシタニア分家)に敗北 |
991年 | ウェセックス王国 | ノルウェー軍襲来 | ブリテン系デーン人 ノルウェー人 vsサクソン人 vs新デーン人 |
ノルウェーからオーラフが大船団を率いてテムズ川から上陸し、モールダンの戦いに勝利 を収めた |
994年 | ケント王国 | デンマーク人侵攻 | ダーナ神族 デンマーク人 vsジュート人 vs新デーン人 |
ダーナ神族はデンマーク人を傭兵として使い、敵勢力を駆逐していったと考えられる ダーナ神族は、同胞の新デーン人支配下にある、ブリテン島キリスト教の聖地、 カンタベリー制覇を狙ってきた |
1001年 | ウェセックス王国 | デンマーク人侵攻 | ダーナ神族 デンマーク人 vsサクソン人 vs新デーン人 |
デンマーク人が新デーン人に連合を打診、成長著しい ノルマン人に対抗することを指令したと思われる |
1012年〜 1018年 |
ウェセックス王国 | オーラフ1世、賠償金取立 | ブリテン系デーン人 ノルウェー人 vs新デーン人 vsサクソン人 |
新デーン人がブリテン島を影で支配していたが、ノルウェー人はマスターであるブリトン人らと 共謀し、キリスト教徒(新デーン人)から賠償金を強制的にせしめていたと考えるコトが出来る |
1014年 | (アイルランド) | クロンターフの戦闘 | ブリテン系デーン人 ノルウェー人 vsルシタニア分家 |
ルシタニア分家が背後で糸を引くブリアン王はアイルランドの文化的振興のために尽力し、 ウェールズとスコットランドも支配したが、改宗したノルウェー人が反体制派である レンスター家に反逆を演じさせ、クロンスターで武力衝突が発生、その結果、 シグトゥリゥグ(ノルウェー人)が改めてその後20年間、アイルランドの支配権を確立した |
1016年〜 1035年 |
アングロサクソン諸王国 ノルウェー王国 デンマーク王国 |
クヌード帝国 | 新デーン人 ダーナ神族 デンマーク人 vsブリテン系デーン人 vsノルウェー人 vsノルマン人 |
ノルマン人に脅威を覚えた新デーン人は、ダーナ神族に共闘を呼びかけ、 ダーナ神族はと配下のアングル人を使い、デンマークを征服 のちにノルウェーをも征服し、ノルマン人に対し敵対する意志を見せた、それがクヌード帝国だった ノルウェーはもともとブリトン人の勢力圏だった |
1028年 | クヌード帝国 | デンマーク人 キリスト教改宗 |
新デーン人 ダーナ神族 デンマーク人 vsブリテン系デーン人 vsノルウェー人 vsノルマン人 |
デンマーク人がキリスト教に改宗 |
1046年 | ベネヴェント公国 | ギスカール遠征 | ノルマン人 vs新デーン人 |
ノルマンディーに生まれたギスカールは弟のロジェールと共に、新デーン人の配下である ロンバルディア人が建てたベネヴェント公国に遠征、ノルマン王国を建てる この時から、ロンバルディア人はノルマン人と提携する |
1054年 | ビザンツ帝国 キエフ大公国 アングロサクソン諸王国 フランス王国 神聖ローマ帝国 |
東西教会の分裂 | 新デーン人 ノルマン人 アテネ人 vsコリント人 vsブリテン系デーン人A3 vsエフタル |
ノルマン人・新デーン人・アテネ人(イギリス・フランス・神聖ローマ帝国)とコリント人 ブリテン系デーン人A3(ロシア・ビザンツ帝国)による縄張り争いの線引きだといえる |
1061年 | ベネヴェント公国 | ノルマン人襲撃 | ノルマン人 vs新デーン人 |
ノルマン人がシチリアを掌握。シチリアと南イタリアから成るシチリア王国を成立 ヴァイキングが消滅した後もノルマン人の征服欲は留まることを知らない ノルマン人の標的はこの時点で神聖ローマ帝国であった 彼らはそのために、拠点としてシチリア島の奪取を必要とした |
1066年 | (ブリテン島) | ノルマン朝 | ノルマン人 vs新デーン人 vsブリテン系デーン人 vsダーナ神族 |
ノルマンディー公であったギョーム2世は世界に覇権を唱える夢を見ていたが、ヴァイキング の伝統に乗っ取り、大陸に本拠地を持つことは不利であるとして、ブリテン島に拠点を移す ことを考えた。しかし、問題は、ブリテン島には既にいくつもの勢力が存在していたことだ ノルマン人はその諸勢力の排除に追われた、その勢力とは、カンタベリー司教座を拠点に イングランドを支配していた新デーン人、ウェールズに追われたブリトン人 そしてスコットランド(ハイランド)にはダーナ神族がいて、ローランドにはブルターニュ人がいた 十字軍開始前夜だが、ノルマンディーに残った仲間の残党であるフランス系ノルマン人 勢力(クリュニー修道会)との利害を異にし、独自の利益を追求するためにシトー修道会を 設置、ノルマン人はブリテン島を一時平定しただけで、その後も各勢力とはお互い抗争を繰り返す ノルマン系の王朝はヨーク朝までで、その後はブリトン系のチューダー朝、ローランド系の スチュアート朝、ブリトン系の清教徒革命などが起き、最終的には新デーン人が名誉革命により オランダ勢力と組み、ブリトン系、ローランド系を平定、新デーン人が大英帝国を成す ローランド系はフランスに、ノルマン人・ブリトン人はアメリカに新天地を求める |
1070年 | ノルマン朝イングランド | ヨークシャー北部の反乱 | ノルマン人 vsサクソン人 vs新デーン人 |
サクソン人を操り、新デーン人がノルマン人に対し、蜂起 |
1072年 | ベネヴェント公国 | ノルマン王国成立 | ノルマン人 vsアテネ人 |
1060年からシチリア島の攻撃を始め、メッシナを陥落させ次いでパレルモ、その他を攻略 し弟ロジェールをシチリア伯に任じ南部イタリア、シチリア島にまたがるノルマン王国が 成立した、この侵略行為にもノルマン人の欧州制覇の野望が見え隠れする、彼らはビザンツ 帝国打倒の前線基地として付かず離れずの立地条件の良さゆえシチリアを選択したのだ シチリアではギリシャ語、アラビア語、ラテン語、時にはヘブライ語が使用されていたが、 ノルマン人はシチリアでの公用語をイタリア地方の方言ロンバルディア語に制定、学者に言わせると 何故ノルマン人がロンバルディア人を重用したかナゾであるとされているがロンバルディア人は 744年にシャルルマーニュに滅ぼされている、ということで、ノルマン人は対神聖ローマ帝国 を見据え、フランク人に恨みがあるロンバルディア人を自分の手足(反フランク勢力)として 教育しようと意図があったのだ、この考え方は、その後の英国諜報機関にも受け継がれている |
1073年 | フランス王国 | ウルバヌス2世とクリュニー会 | ノルマン人連合 vsアテネ人 |
十字軍宣言をした次代ローマ法皇ウルバヌス2世はノルマン人が援助したと思われる クリュニー修道会に移った十字軍はノルマン人の指揮で敢行されたあかしだろう、 十字軍の本質はノルマン人による世界征服の一環であった |
1074年 | ノルマン朝イングランド | ヘリワード・ザ・ウェイクの反乱 | サクソン人 新デーン人 vsノルマン人 |
所領を奪われたサクソン人、新デーン人はヘリワード・ザ・ウェイクを首領としてウォッシュ 湾近くのイーリ島に集結して抵抗したが、むなしく鎮圧されたという ブリテン島に於けるノルマン人による異分子排除の進行だ |
1081年 | デンマーク王国 | 異分子排除 | ダーナ神族 vs反体制勢力 |
暴風雨や疾病、その他の災厄を僧侶、婦人(英国勢力、フランス勢力、フランク勢力)の呪術 のせいにして異分子を排除するシステムがデンマークにあったが、これを時の教皇がそれを 批判している、これらは数万年前のドルイド教時代からあり、その後も魔女狩りとして発展していく |
1081年 | ビザンツ帝国 | ノルマン人襲撃 | ノルマン人 vsブリテン系デーン人A3 vsスウェード人 vsコリント人 |
ノルマン人がビザンツ帝国に遠征、十字軍の前夜祭といえるだろう この時、単独ではビザンツ帝国にかなわなかったノルマン人が従順な奴隷であるカトリックの キリスト教徒(フランク人)を使ってビザンツ帝国侵略、イスラム圏掠奪を思いついたと思われる |
1084年 | ローマ教皇領 | ノルマン人襲撃 | ノルマン人 vsローマ人 |
ノルマン人がローマ市を陥落、この時からローマ法王はノルマン人の支配下にあったと 考えられる、ローマ襲撃はとりもなおさず欧州支配システムの一角を担うカトリックの 総本山の制圧ということだ、この時以来、アテネ人のカトリック支配は無効化された |
1086年 | ノルマン朝イングランド | 新デーン人勢力排除 | ノルマン人 vs新デーン人 vsサクソン人 |
ウィリアム1世は反乱諸侯から領土を取り上げると共に、サクソン人の貴族が後継ぎ無く 死亡したり、司教、修道院長が亡くなると代わりにノルマン人を指名したため、1086年頃 にはサクソン人貴族はわずか2人になっていた、また、カンタベリー大司教もサクソン人 のスティガンドが解任されたという、ここで見られるのはノルマン人による新デーン人の排除と カンタベリー大司教の座の強奪だ、この時にも新デーン人はのルマン人に付くか、独立を 貫くかの選択を迫られただろう |
ヴァイキング時代、デーン人は3つの勢力、デーン人、スウェード人、ノルウェー人の3つの勢力に分家した
デーン人はブリタニア、フランク王国追撃を担当し、スウェード人は東方征圧(ロシア、スラヴ圏)、ノルウェー人は西方征圧(アイルランド、アイスランド、グリーンランド)を担当した
更に、ノルマン朝時代、十字軍の頃にはデーン人は6つの勢力に分化した、デーンロー系デーン人、アルバ系デーン人、フランス系ノルマン人、
イングランド系ノルマン人、イタリア系ノルマン人、デンマーク人である
デーンロー系デーン人はイングランド系カトリックを創立、アルバ系デーン人はスコットランドを支配、
フランス系ノルマン人はノルマンディー公国、クリュニー修道会を介してフランスを支配し、後に分家したイングランド系ノルマン人がイングランドに侵攻、
ノルマン朝を興し、ノルマン朝前夜にはデンマーク人、ノルウェー人、デーンロー系デーン人がフランス系ノルマン人を牽制するためにクヌート帝国を建設した
イタリア系ノルマン人は旧デーン勢力であるロンバルド人と競合し、それぞれが南北イタリア、ジェノヴァ、ヴェネツイアを支配
十字軍時代には、イングランド系ノルマン人がピサ王国を拠点にジェノヴァ、ヴェネツィアに攻撃を仕掛けるが撃退される
また、ヴァイキング活動と並行し、デーン人はイベリア半島に於ける自身の勢力獲得を模索、フランス系ノルマン人はカスティーリャ王国(ゴート人)、レオン王国
デーンロー系デーン人はナバラ王国(バスク人)、アラゴン王国とそれぞれを支援、イスラム勢力を排し、イベリア半島に於ける勢力圏として獲得
英国勢力であるアラゴン王国は一時、イタリア系ノルマン人と共にイタリア、シチリアを共同統治するが、イベリア半島から英国勢力が排除され、
フランス勢力は、ハプスブルグ家と共にスペイン王国を建設、イベリア半島の共同統治を開始した
だが、英国勢力は後に旧デーン勢力圏であったルシタニア地方(ポルトガル王国、エストマレドゥーラ州)をイベリア半島内に於ける自身の勢力圏として確立させた