年代
|
できごと |
勢力 |
内実 |
BC1500年頃 |
ドラヴィダ語族分化 |
古代デーン人D |
ドラヴィダ語族は、既知の他の語族との間で関係が認められない、この語族を、日本語族、バスク語、朝鮮語、
シュメール語、アボリジニ諸語、そしてインダス文明で使用されていた未知の言語と関連付けようとする試みが
行われてきたという、だが、どの民族も(アボリジニ以外)ぼくの研究では古代デーン人と関わりがある |
BC1000年頃 |
海の民がインド洋に出現 セイロン島に入植 ランカー島ラーヴァナ神のモデル |
ブリテン系デーン人E
vsインド系アーリア人
vsシュメール人 |
ランカー島(セイロン島)に住んでいたラーヴァナ神はデーン人を連想させる、ある程度、史実の寓話化と
いえるのではないか、伝説によるとラーヴァナは征服戦争に乗り出し、インディラ神にも勝利したという
この伝説は、ランカー島を拠点としたブリテン系デーン人Eが大陸に進出し、南インド地方にタミル人を主とする
戦力を配下に勢力圏を築いたと考えることができるかもしれない 文字が無かったのか、意図的に歴史が記されることがなかったのかはわからないが、セイロン島の歴史は
ナゾだらけ、ということで、推測するしかないが、世界各地に於けるデーン人の特徴を考慮に入れれば
セイロン島で起きたこともだいたいわかってくるはずだ |
? |
ブリテン系デーン人E
東アジアへ |
ブリテン系デーン人E |
ブリテン系デーン人Eのガンジス進出と東アジア進出は同時期だったと考えられる |
BC800年頃 |
マガダ王国
(シンハラの中枢移転) |
ブリテン系デーン人E
vsインド系アーリア人
vsシュメール人 |
ブリテン系デーン人Eのいずれかの勢力がガンジスを遡り、王国を建てたと考えられる
北方のアーリア人とコーサラ王国を建てたシュメール人と対立しただろう |
BC543年〜
BC505年 |
タンバパニ王国
(ランカー島) |
ブリテン系デーン人E |
日本本土を治めながら大陸に赴いて勢力圏拡大に励んでいたブリテン系デーン人F2・天孫勢力と同じように
ブリテン系デーン人Eも、諜報機関と神官を兼ね、大陸のドラヴィダ人を支配していただろう
この時は、中枢がマガダにいたので、タンバパニは残党が建てた王国と考えられる |
BC500年頃 |
古代デーン人D
フィリピンに入植 |
古代デーン人D |
太平洋に出る以前に入植が開始したと考えられる、その後も波状的に近隣の人々が移住していた |
BC505年〜
BC437年 |
ヴィジタプラ王国 (ランカー島) |
ブリテン系デーン人E |
マガダの中枢を成していた機関の一部がランカー島に帰還し、建てた王国だろう |
BC437年〜
1007年 |
アヌラーダプラ王国 (ランカー島) |
ブリテン系デーン人E |
シンハラ系の人々が首都を移転 |
BC400年代頃 |
シンハラ人到来 (ランカー島) |
ブリテン系デーン人E
vsブリテン系デーン人E |
マガダなど、有力な勢力圏を築いてきたブリテン系デーン人Eの中枢がこの頃にセイロン島に帰還し、
シンハラ人と呼ばれたと考えられる、この時に、大陸系と本島系の中枢同士の対立が生じたと思われる |
BC300年代 |
ナンダ朝マガダ王国
(パンドヤ) |
ブリテン系デーン人E
vsブリテン系デーン人E |
シシュナーガ朝マガダは、何者か良くわからない人物によって滅ぼされたらしい
その後にナンダ朝が建てられた、この者は、旧デーン人(絹道系)、スパルタ人、シュメール人の
いずれかの勢力に操られていたと考えられる、或いは同胞のパッラヴァ・パンドヤも考慮の余地がある |
BC317年〜 |
マウリア朝マガダ王国
(スパルタの中枢移転) |
旧デーン人B1
vsブリテン系デーン人E |
スパルタ人は、コリント人の中枢が背後に控えたアレクサンドル大王の軍勢に加わり、そのまま陰謀に
よってマウリア朝を建てたと考えられる、カウティリアはスパルタ系の人物だったかもしれない |
BC300年代 |
サータヴァーハナ朝
(ランカー島2勢力の前身) |
ブリテン系デーン人E |
ゴーダヴァリー川を遡ってデカン高原奥地にブリテン系デーン人Eが建てたと考えられる
宗教を紐解くと、仏教を保護し、国家自体はヒンズー教を信仰していたということで、
サータヴァーハナの中枢にはランカー島の2勢力が連合して宿っていた王朝だと考えられる |
BC200年代 |
上座部仏教伝来
(ランカー島) |
ブリテン系デーン人E |
シンハラの中枢はランカー島の人民を仏教で支配しようと画策した
同胞のランカー島勢力はみなヒンズー教なので差別化の意味があっただろう |
BC200年代 |
ケララ繁栄(ヴィシュヌ派) |
ブリテン系デーン人E |
この地ではすでに交易が盛んで、エジプト、フェニキア、中国、バビロニアなどの地方からの人々でにぎわいを
見せていた、ケーララはアーユルヴェーダの発祥の地としても知られる、ティルヴァナンタプラムは
「アナンタの土地」という意味であり、巨大なヴィシュヌ像があるというが、ということはパッラヴァ系かもしれない |
BC200年代〜 |
チェーラ朝(シヴァ派) |
ブリテン系デーン人E |
ランカー島を拠点にしていたブリテン系デーン人Eの勢力が分化して大陸に建てた拠点 |
BC100年代〜 |
タミル人移住(ランカー島) |
ブリテン系デーン人E |
チョーラ系が本拠地に於いて発言力を得るために大量に支配下のタミル人を送り込んだ
これが、チョーラ系の大航海時代の発端となった可能性がある
後に、ランカー島タミル勢力は大陸にパッラヴァを築き、そこからアフリカ方面に乗り出し、
チョーラ系は、インド洋、アラビア半島、東南アジア、ポリネシア、沖縄、南アメリカにまで進出を果たす |
BC100年代〜 |
チェーティ朝カリンガ王国 |
旧デーン人(絹道系) |
カンボージャに拠点を構えていた旧デーン人がインダスをくだり、インド洋に出て東インドに拠点を築いた |
BC100年代〜 |
インド・グリーク朝
(スパルタ人) |
旧デーン人B1
vsブリテン系デーン人E |
グレコ・バクトリア王国を影で支配していたスパルタ人(旧デーン人B1)がインドに侵攻、支配した |
BC100年代〜 |
インド・サカ王朝(サカ人) |
旧デーン人(絹道系)
vs旧デーン人B1 |
サカ人がスパルタ人を追放 |
100年代〜 |
インド・パルティア王朝
(スパルタ人) |
旧デーン人B1
vs旧デーン人(絹道系) |
スパルタ人が再度、サカ人を追放 |
100年代〜 |
クシャーナ朝(大月氏) |
旧デーン人(北亜系)
vs旧デーン人B1 |
スパルタ人を追放して大月氏が建てた王朝 |
192年〜 |
チャンパ王国(ベトナム) |
旧デーン人(絹道系) |
カンボージャと同様、チャンパも最初は北インドにあった地名だったらしい
旧デーン人のインド王朝が軒並み滅びた時期とチャンパが建てられた時期が合致しているので
チャンパは旧デーン人(絹道系)の人々が建てた王朝といえる |
?〜
200年代 |
第一次パンドヤ朝
(シヴァ派) |
ブリテン系デーン人E
vsブリテン系デーン人E |
ブリテン系デーン人E(ランカー島)勢力のひとつ、チェーラ系の分家が建てた王朝
後に、パンドヤ系はチェーラ系とは利害を異にし、対立することになる |
200年代〜
893年 |
パッラヴァ朝
(ランカー島タミル勢力
ヴィシュヌ派) |
ブリテン系デーン人E
vsブリテン系デーン人E |
パッラヴァ朝は、ランカー島に根付いたタミル人を支配していたチョーラ系の神官を兼務する諜報員が作った
国家だといえる、本家のチョーラ系は大陸を、そしてパッラヴァ系は海上勢力として活躍した
ということで、後に、パッラヴァはボルネオ島(クタイ王国)、ジャワ島(タルマヌガラ王国/ヴィシュヌ派)に
拠点を持ち、その後にマダガスカルに進出、本家のチョーラと対立することになる |
200年代〜 |
シュリーヴィジャヤ王国
(スマトラ島/チェーラ) |
ブリテン系デーン人E |
チェーラ系(シヴァ派)の人々がスマトラ島に築いた王国、おそらく、彼らはパッラヴァ系とは逆の方向に
進出、フィリピンに大きな影響を与えたという、だが、後にシリーヴィジャヤはチョーラに征服される |
320年〜 |
グプタ朝マガダ王国
(ランカー島2勢力) |
ブリテン系デーン人E |
ガンジス川を遡って流域に沿ってブリテン系デーン人Eが建てた王朝と考えられる
ランカー島のシンハラ・タミルの2勢力が当初は連合で支配に当たっていたが、仏教が衰退したり、逆に
仏教を保護したりした事実を見るとシンハラとタミルの勢力が対立したり迎合したりを繰り返して
していたことがわかる、その後、新デーン人勢力であるエフタルによって滅亡した |
400年代〜 |
クタイ王国
(ボルネオ島/パッラヴァ) |
ブリテン系デーン人E |
パッラヴァ系の人々が建てた王国、この頃にブリテン系デーン人E/パッラヴァ系の大航海時代が開始された |
400年代〜 |
マダガスカル島に進出
(パッラヴァ) |
ブリテン系デーン人E |
パッラヴァ系の人々が現地人を同行させ、マダガスカルにまで進出 |
500年代〜
900年代 |
第二次パンドヤ朝 |
ブリテン系デーン人E
vsブリテン系デーン人E |
ブリテン系デーン人E(ランカー島)勢力のパンドヤが建てた王朝 |
543年〜 |
前期チャールキヤ朝
(チェーラ・パンドヤ連合) |
ブリテン系デーン人E
vs旧デーン人(カリンガ人) |
クリシュナ川を遡り、デカン高原奥地にチェーラ・パンドヤ連合が建てた王朝と考えられる
チャールキヤはカリンガ王国を滅ぼし、カリンガの中枢はカンボジヤやジャワ島に逃れたと考えられる |
573年〜 |
モン族、ペグーを創設
(ミャンマー/シンハラ) |
ブリテン系デーン人E |
上座部仏教の関係からシンハラ系の人々がモン族を支配し、長江系の人々がパガン王国を
建てるまでミャンマー周辺を治めた |
575年頃〜 |
グレート・ジンバブエ
(アフリカ/パッラヴァ) |
ブリテン系デーン人E |
マダガスカルに進出したパッラヴァ系の人々がマダガスカルを拠点にアフリカ沿岸に侵攻
神官として現地人を支配したと考えられる、グレート・ジンバブエもその頃の産物だろう |
600年代〜 |
イエメン、イスラム教伝来
(アラビア半島/パッラヴァ) |
ブリテン系デーン人E |
チョーラ系の諜報員・神官を兼務する商人がイスラム教を学習、アラビア半島に拠点を築く
彼らが支配するイエメンは、のちにシーア派を選択、彼らは後にそこからソマリアに移動する |
606年〜 |
ヴァルダーナ朝(シンハラ) |
ブリテン系デーン人E
vs新デーン人(絹道系) |
マガダ王国はエフタルによって滅びたが、ブリテン系デーン人E勢力が牙城を取り戻したと考えられる
ハルシャ・ヴァルダナ王は仏教に帰依したことからランカー島シンハラ勢力といえる |
624年〜
1279年 |
東チャールキヤ朝
(チェーラ) |
ブリテン系デーン人E |
チェーラ系はパンドヤ系と袂を分かち、独自の利益を追求することを選択したのだろう |
700年頃 |
マルケサスを分岐点に北上
ハワイに到達 (太平洋/チョーラ) |
ブリテン系デーン人E |
チョーラ系の人々に指揮されたポリネシア人は久しぶりに大航海時代に突入、ハワイに到達 |
700年頃 |
マルケサスを分岐点に東進
イースター島に到達
(太平洋/パッラヴァ) |
ブリテン系デーン人E |
チョーラ系の人々に指揮されたポリネシア人は久しぶりに大航海時代に突入、イースター島に到達 |
717年〜 |
古マタラム王国
(スパルタの中枢移転) |
旧デーン人B1 |
スパルタ系の人々がインドネシアに落ち延び、その末裔が建てた王朝の可能性がある
大乗仏教を信仰しているからだ |
752年〜 |
シャイレーンドラ朝
(ジャワ島中部) |
旧デーン人(絹道系) |
カンボージャの人々がイスラムの脅威からカリンガに移り、またカリンガがチャールキヤに滅ぼされると
ジャワ島に移り、シャイレーンドラ朝を建てたと考えられる、そして、その後に彼らはクメール帝国を築く
それが所以で、カンボジアがカンボジアと呼ばれるようになったのではないか |
753年〜 |
ラーシュトラクータ朝
(パンドヤの中枢移転) |
ブリテン系デーン人E |
パンドヤ系はチェーラ系と袂を分かち、独自の利益を追求することを選択したのだろう |
700年代後半 |
パーラ朝(シンハラ) |
ブリテン系デーン人E |
仏教を保護していたパーラ朝はランカー島シンハラ系が中枢を成していたと考えられる
更に、敵対勢力であるチョーラ朝に滅ぼされた |
800年代 |
アーディティヤ1世
パッラヴァ家アパラージタ暗殺 |
ブリテン系デーン人E(チョ)
vsブリテン系デーン人E(パッ) |
チョーラ家のアーディティーヤ1世はパラヴァ朝の内乱に乗じて主君のであるはずのパッラヴァ家の
アパラージタを殺害し、その領地を併合した、次のバラーンタカ1世は、
パーンディヤ朝の本拠マドゥライを陥落させ、セイロンの援軍も破ってパーンディヤ朝の版図を併合した
チョーラ家は古代から存在し、主に諜報員としてタミル人を操り、影でインド大陸に勢力圏を築いていたが
ここにきて、彼らは表に出てきたということだろう、マダガスカルなどに勢力圏を築き、言うことを聞かなくなった
のでチョーラがパッラヴァを切り捨てたといえるかもしれない
インドでの勢力圏争いに負けたパッラヴァはこの後、海に出てインド洋各地に一連の勢力圏を得る |
800年代 |
キルワ王国
(アフリカ/パッラヴァ) |
ブリテン系デーン人E |
今までイラン人・中国人・ロシア人は歴史を通して海を越えた広範にわたる征服の意志を見せたことがない
つまり、このキルワ国もイランの王室を騙り、建設されたと考えられる
その中心になったのは、当然、イエメン・ソマリアに拠点を持っていたブリテン系デーン人E、パッラヴァ系の
人々だ、彼らは、その後にイランを追放されてオマーンを経由して来訪したブリテン系デーン人F2と共に
東アフリカにスワヒリ文化圏を形成し、共同でポルトガルなどを撃破する |
800年〜 1521年 |
マリアナ諸島、ラッテ期
(太平洋/パッラヴァ) |
ブリテン系デーン人E |
シャフトと呼ばれる柱石の上に半円球状のキャッチストーンを乗せたもの
ナゾを残す太平洋諸島の遺跡群はすべて背後でチョーラ系の人々が関わっている |
845年〜
1279年 |
チョーラ朝(ヴィシュヌ派) |
ブリテン系デーン人E
vsブリテン系デーン人E |
インドネシア・ポリネシア・沖縄・インカの頂点として君臨、太平洋のナゾの遺跡もすべてチョーラ系の人々が
関係しているとわかる |
900年代〜
1300年代 |
ソマリア半島に入植
(アフリカ/パッラヴァ) |
ブリテン系デーン人E |
イエメンに拠点を置いていたチョーラ系の人々がソマリアに侵攻、拠点を築いたと考えられる |
900年代〜 |
パラマーラ朝
(タイラ2世・チェーラ) |
ブリテン系デーン人E(チェ)
ブリテン系デーン人F2(平)
vsブリテン系デーン人E(チョ) |
ラージプート王朝であるが、ラージプートとは戦士集団とことであり、それらの集団はトルコ系、エフタルなどの
騎馬民族で構成されていたという、つまり、当時、遼を建てて全盛期を迎えていた平氏の一派が
インドに覇を唱え、パラマーラ朝を建てたと考えられる、或いは、チョーラ系の掃討を考えたチェーラ系が
平氏が遼を建てた功績を認め、仲間に迎え入れたとも考えられる |
900年代〜 |
パシュトゥーン人
イスラム教に改宗 |
ブリテン系デーン人E |
パッラヴァ系の人々がインダス川を遡り、上流のパシュトゥーン人をイスラム教で支配、
新デーン人勢力を排除した |
931年〜 |
カルマート派
(アラビア半島/パッラヴァ) |
ブリテン系デーン人E |
現在のアラブ首長国連邦周辺に築かれた勢力圏、中枢はチョーラ系と考えられる |
955年〜 |
ガズニ朝
(アフガニスタン/パッラヴァ) |
ブリテン系デーン人E
vsブリテン系デーン人F2 |
ブリテン系デーン人Eは、すぐにパシュトゥーン人を使ってガズニ朝を建設
当時はチョーラ王国全盛の時代であり、北インドを支配していた日本系のパラマーラ朝を倒し、
インドを統一するべく、ガズニ朝は北からインドに随時侵攻 |
973年〜 |
後期チャールキヤ朝
(タイラ2世) |
ブリテン系デーン人F2(平)
vsブリテン系デーン人E(パン) |
タイラ2世はチャールキヤの後裔を自称し、パンドヤ系のラーシュトラクータを滅亡させた
当初、平氏はチェーラ系と連携していたが内部で対立するようになり、後期チャールキヤはホイサラと
ヤーダヴァの2つに分裂した |
1017年 |
チョーラ朝
ランカー島に侵攻 |
ブリテン系デーン人E
vsブリテン系デーン人E |
シンハラ勢力はポロンナルワに遷都、チョーラ系はランカー島タミル勢力と提携したと考えられる |
1000年代 |
セーナ朝
(シヴァ派と考えられる) |
ブリテン系デーン人E
vsブリテン系デーン人E |
仏教を敵視し、破滅させたという点がシヴァ派、またはヴィシュヌ派が中枢に宿っていた可能性がある |
1000年代 |
カーカティヤ朝
(パンドヤ/シヴァ派) |
ブリテン系デーン人E
vsブリテン系デーン人E |
王はシヴァ派を保護していたという、つまり、パンドヤ系勢力だ |
1000年代 |
ホイサラ朝(平氏) |
ブリテン系デーン人F2
ブリテン系デーン人E(チョ)
vsブリテン系デーン人E(チェ) |
後期チャールキヤは平氏勢力だが、後期チャールキヤは当時、封臣に支配されていたという
平氏はチェーラ系を排し、権力を奪回するためチョーラと手を結んだのだろう |
1100年代 |
ヤーダヴァ朝(チェーラ) |
ブリテン系デーン人E
vsブリテン系デーン人F2 |
チェーラ系の人々が平氏が支配するチャールキヤから独立し、その後も平氏の支配するホイサラ朝と対立した |
1045年〜 |
クディリ王国(ジャワ島) |
旧デーン人B1 |
引き続き、スパルタ系の末裔が支配した王国ではないか |
1055年〜
1236年 |
ポロンナルワ王国 (ランカー島) |
ブリテン系デーン人E |
シンハラ勢力はポロンナルワに遷都、チョーラ系はランカー島タミル勢力と提携したと考えられる |
1100年代 |
トンガ王国
ハアモンガ・マウイ建立
(太平洋/パッラヴァ) |
ブリテン系デーン人E |
ドルメン状の巨石建造物が建築される、東ポリネシアではマラエと呼ばれる宗教的石造建築が発達 |
1100年代 |
イースター島、モアイ建造
(太平洋/パッラヴァ) |
ブリテン系デーン人E |
ポリネシア人・南米人専用の流刑地、或いは技術者養成の場だった可能性がある 囚人は無意味な労働を課され、修行を終えた技術者はマヤ・インカなどに送られ、建築現場で貢献した |
1100年代〜
1300年代 |
第三次パンドヤ朝 |
ブリテン系デーン人E
vsブリテン系デーン人E |
ブリテン系デーン人E(ランカー島)勢力のパンドヤが建てた王朝 |
1117年〜 |
ゴール朝(北インド地方) |
新デーン人?
旧デーン人? |
誰が中枢を成していたのかは分からないが、ブリテン系デーン人E/パッラヴァ系勢力が中枢を成していた
ガズニ王朝と激しく対立していた、ゴール人がトルコ系という所から、ゴール朝はビザンツ系、もしくは
藤原氏系の人々が支配していた可能性もある |
1187年〜 |
舜天王統・琉球王国
(東アジア/パッラヴァ) |
ブリテン系デーン人E
vs天孫の末裔 |
この時、舜天が天孫族を滅ぼし、琉球王朝の祖となったという
沖縄の言葉はインドネシアと共通点があるが、接触を持ったとしたらこの頃かもしれない、つまり舜天は
ブリテン系デーン人Eである、この頃、ブリテン系デーン人Eは太平洋・インド洋を駆け巡っていた |
1200年代〜 |
クスコ王国
(南米/パッラヴァ) |
ブリテン系デーン人E
vs古代デーン人 |
間違いなく、クスコ王国は古代デーン人が築いた下地に、パッラヴァ系の人々が建てた帝国だった |
1206年〜 |
デリー・スルタン朝
(北インド地方) |
ブリテン系デーン人A3(ビ)
ブリテン系デーン人E(チョ)
ブリテン系デーン人F2(藤) |
この当時は、ブリテン系デーン人の3勢力が代わる代わる中枢を成していた可能性がある |
1220年〜
1302年 |
ダンパデニア王国 (ランカー島) |
ブリテン系デーン人E |
|
1222年〜 |
シンガサリ王国
(ジャワ島/チェーラ) |
ブリテン系デーン人E |
シヴァ派ということでチェーラかパンドヤ勢力だ、彼らはスパルタ系、或いは大月氏系が中枢を成していた
クディリ王国を滅ぼし、シンガサリ王国を建てた |
1250年 |
マルケサスを分岐点に南下 ニュージーランドに到達 |
ブリテン系デーン人E |
パッラヴァ系の人々に指揮されニュージーランドに到達したポリネシア人はマオリ族に変化、
幻の巨鳥モアを絶滅させた |
1287年〜 |
ペグー王朝・モン族
(ミャンマー/シンハラ) |
ブリテン系デーン人E
vsブリテン系デーン人F1 |
パガン王国に支配されていたモン族はモンゴル軍侵攻により解放され、再度、モン族の王朝を建設した |
1293年〜 |
マジャパヒト王国 (ジャワ島/チェーラ) |
ブリテン系デーン人E |
モンゴル軍が侵攻した際、スパルタ系のクディリ王国の末裔を自称する者が王を殺害、その後、シンガサリ王の
娘婿がモンゴル軍と協力してシンガサリ王国を乗っ取った暗殺者を排除、同時に協力してくれた
モンゴル軍をジャワ島から駆逐、マジャパヒト王国を建てた |
1300年代 |
フィリピン、イスラム教伝来
(パッラヴァ) |
ブリテン系デーン人E |
マラッカを拠点にしていたパッラヴァ系の人々がフィリピンを訪れ、イスラム教を伝えたと考えられる |
1336年〜 |
ヴィジャヤナガル王国
(チェーラ/シヴァ派) |
ブリテン系デーン人E(ヴ)
vsブリテン系デーン人E(マ) |
シヴァ神を信仰していた点から、ヴィジャヤナガル王国はチェーラ・パンドヤ系の人々が
中枢を成していた可能性がある |
1339年〜 |
マイソール王国
(パッラヴァ) |
ブリテン系デーン人E(マ)
vsブリテン系デーン人E(ヴ) |
イスラム教を信仰していた点からマイソール王国はパッラヴァ系の人々が中枢を成していた可能性がある |
1344年〜
1408年 |
ガンポラ王国 (ランカー島) |
ブリテン系デーン人E |
|
1347年〜 |
バフマニー朝(パッラヴァ) |
ブリテン系デーン人E |
イスラム教であり、アフガンの傭兵も関係しているため、パッラヴァ系勢力と考えられる
チェーラ系のヴィジャヤナガル朝と対立していた |
1385年〜 |
40年戦争(ミャンマー) |
ブリテン系デーン人F1
ブリテン系デーン人F2
vsブリテン系デーン人E |
上ビルマには、ミャンマー東北部に住むタイ系のシャン族が、ピンヤ朝とアヴァ王朝を開き、
強盛になると絶えずペグー王朝を攻撃した、1385年から40年戦争が起こり
今日のミャンマー全土で行われた内戦となったという、結果、パッラヴァ系勢力は勢力化に組み込まれた
が、後に大英帝国が来訪すると、パッラヴァ系のモン族は英国傘下に入り、ビルマに随時侵攻する |
1392年〜
1423年 |
ライガマ王国 (ランカー島) |
ブリテン系デーン人E |
|
1402年〜 |
マラッカ王国
(東南アジア/パッラヴァ) |
ブリテン系デーン人E |
イスラム圏で暴れていたパッラヴァ系の人々が建てた国家、インドネシアのイスラム教はマラッカが発祥だが
彼らはイスラム教でインドネシアを支配しようと考えたのだろう
更に、彼らはアラビア半島にまで進出、アラブ首長国連邦の祖となった可能性がある |
1412年〜
1597年 |
コッテ王国 (ランカー島) |
ブリテン系デーン人E |
|
1438年〜 |
インカ帝国
(南米/パッラヴァ) |
ブリテン系デーン人E
vs古代デーン人 |
間違いなく、インカ帝国は古代デーン人が築いた下地に、パッラヴァ系の人々が建てた帝国だった |
1440年〜 |
インカ帝国
マチュ・ピチュ建設 |
ブリテン系デーン人E
vs古代デーン人 |
明らかに諜報員の精鋭を育てる施設だっただろう、日本の修験道の祖とつながりがあるかもしれない |
1450年代〜 |
ムタパ王国
(ザンベジ川/パッラヴァ) |
ブリテン系デーン人E |
1629年にポルトガルによって征服された |
1450年代〜 |
トルワ王国
(ジンバブエ/パッラヴァ) |
ブリテン系デーン人E
ブリテン系デーン人F2
vs古代デーン人 |
カミと呼ばれる高地に拠点があったが、藤原氏・平氏の後裔がイラン・オマーン・ザンジバルを経由して
来訪、ブリテン系デーン人E(パッラヴァ系)と提携、王国を運営していた可能性がある |
1490年〜 |
ヒジャプール王国
(パッラヴァ) |
ブリテン系デーン人E |
イスラム教であり、もともとバフマニー朝の一部だったことからパッラヴァ系だ |
1496年〜 |
アチェ王国
(チャンパの中枢移転) |
旧デーン人(絹道系) |
ベトナムが攻勢になり、チャンパ王国の首都が陥落、同時にチャンパの中枢がスマトラ島に移転
アチェ王国を建てた |
1500年代 |
イースター島、モアイ建造中止 |
ブリテン系デーン人E
vs白人列強 |
折りしも、白人がブリテン系デーン人Eの拠点、インド・東南アジア・南米・太平洋を蹂躙しはじめた頃、そのため、
ポリネシア・南米から囚人が送られてこなくなり、技術者養成どころの話じゃない、ということだろうか |
1511年〜 |
マラッカ王国滅亡
ジョホール王国建つ |
英国諜報機関ルシタニア分家
vsブリテン系デーン人E |
マラッカ王国滅亡とはいえ、首都をポルトガルに占領されただけで、中枢は南部に移転
ジョホール王国を建て、アチェ王国などと同盟を組み、貿易を続けたという |
1526年〜 |
ムガール帝国 |
ブリテン系デーン人F2
vsブリテン系デーン人E |
モンゴル征西の際の産物だろう、つまりモンゴル軍を牽引していた藤原氏・平氏の中枢が
ムガール帝国を機能させていた |
1536年 |
インカ帝国
マンゴ・インガの反乱 |
ブリテン系デーン人E
vs英国諜報機関ルシタニア分家 |
インカ帝国の帝王、マンゴ・インガが反乱を起こし善戦するが、彼自身がキリスト教徒であるインディオ女性
(カタリナ)と結婚しており、至る所にキリスト教会も建設され大勢のインディオや兄弟でさえも裏切り者として
襲い掛かる中、更にカタリナとの息子、クシ・ユパンギがキリスト教の洗礼を受け、国民にも強要するが、 クシ・ユパンギは異母兄弟のトゥパク・アマルに暗殺される |
1539年〜 |
スール朝(パッラヴァ) |
ブリテン系デーン人E |
パッラヴァ系の中枢が支配していたアフガニスタン、パキスタンと関係があった |
1572年 |
インカ帝国
トゥパク・アマル処刑 |
英国諜報機関ルシタニア分家
vsブリテン系デーン人E |
異母兄弟のクシ・ユパンギが英国勢力である聖アウグスチヌス会の宣教師をビルカバンバに招き入れたが、
アマルが反発、宣教師を追放する、その後、クシ・ユパンキを暗殺、帝王に即位し、スペイン軍に対し
反乱を起こすが逮捕、クスコで処刑され、インカ帝国は滅亡した |
1586年〜 |
マタラム王国 |
英国諜報機関ルシタニア分家
旧デーン人B1
vsブリテン系デーン人E
vsオランダ人(ノルマン人A2b) |
スパルタ人の後裔がルシタニア分家と結び、オランダやブリテン系デーン人E勢力に対抗した |
1600年代〜 |
カワーシム家・バニヤース族
アラビア半島南部から移住
(パッラヴァ) |
ブリテン系デーン人E |
パッラヴァ系の人々の拠点であるアラビア半島南部から来た人々がアラブ首長国連邦の基礎を成したと
考えられる、彼らは海上勢力としてペルシア湾を航行するヨーロッパ勢力と対立し、「アラブ海賊」として
恐れられた、彼らは、海上勢力として競合関係にあったオマーン王国ならびにその同盟者である
イギリス東インド会社と対立し、ついにはイギリス艦船ミネルヴァを拿捕、海賊団の旗艦とする |
1609年 |
琉球王国
薩摩藩が侵攻 |
ブリテン系デーン人F1
vsブリテン系デーン人E |
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1693年〜 |
ロズウィ王国 (ジンバブエ/パッラヴァ) |
ブリテン系デーン人E
vs英国諜報機関ルシタニア分家 |
チャンガと呼ばれるショナ人の戦闘部隊がトルワ王国を打倒、ポルトガル人をジンバブエ高原から駆逐した |
1708年〜 |
マラータ同盟(チョーラ) |
ブリテン系デーン人E
vsブリテン系デーン人F2 |
ヒンドゥー教徒のマラータ族がムガル帝国に反乱を起こした、つまりチョーラ系だ |
1747年〜 |
ドゥッラーニー朝
(アフガニスタン/パッラヴァ) |
ブリテン系デーン人E
vsアーリア人 |
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1764年〜 |
シーク教国(チョーラ) |
ブリテン系デーン人E vsブリテン系デーン人F2 |
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1817年〜 |
ズールー王国
(南アフリカ/パッラヴァ) |
ブリテン系デーン人E
vs英国諜報機関
vsノルマン人A2b |
5世紀にパッラヴァ系の人々がマダガスカルに到来した際、東アフリカ沿岸にも支配を強化したと思われるが
ズールー王国はその後裔だろう |