オスマン・トルコ帝国を撃滅せよ
「フィリキ・エテリア」「ムハンマド・アリー朝」
英国諜報機関+ヴラフ人
年代 |
できごと | 勢力 | 内実 |
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651年 | ササン朝ペルシア滅亡 | イスラム勢力 vsイラン系アーリア人 |
実際にはペルシアの賢人がオリエント地方保護のためにイスラム教を発明したと考えられる つまり、じつは滅亡したように見えて新しいペルシア帝国の始まりでもあった |
661年〜 750年 |
ウマイヤ朝イスラム帝国 | イスラム勢力 | キリスト教に対抗できる唯一の勢力 |
750年〜 1258年 |
アッバス朝イスラム帝国 | イスラム勢力 | ウマイヤ家が増長したのをイラン系アーリア人勢力が排除したということか |
821年〜 873年 |
ターヒル朝建つ (ホラサン地域) |
イラン系アーリア人 | |
861年〜 1003年 |
サッファール朝建つ (イラン南東部 アフガニスタン南西部) |
新デーン人 vsイスラム勢力 |
銅細工師が起こした王朝だという、明らかに新デーン人勢力だろう、のちにアッバス朝に倒されている 広範囲に渡る征服の意志を見せているがこれはイラン系アーリア人には見られない傾向だ |
864年〜 928年 |
アラヴィー朝建つ (イラン北部) |
イラン系アーリア人 | イラン系アーリア人の一派が建てた王朝、のちに同族のサーマーン朝に滅ぼされるが、その後に再度 アラヴィー朝の系譜を継ぐブワイフ朝を建てる |
869年 | ザンジュの乱 | 新デーン人? vsイスラム勢力 |
イラク南部で黒人奴隷が反乱を起こした、首謀者のアラブ人は処刑された |
873年〜 999年 |
サーマーン朝建つ (トランスオクサナ イラン東部ホラサン) |
イスラム勢力 | |
927年〜 1043年 |
ズィヤール朝建つ (イラン北西部) |
イラン系アーリア人 | |
932年〜 1062年 |
ブワイフ朝建つ (イラン・イラク) |
イラン系アーリア人 vsブリテン系デーン人A3 |
ハザールの中枢(ブリテン系デーン人A3)がマムルークを操作していたが、ブワイフ朝がマムルーク出自 の大アミールを倒してカリフの保護権を掌握したという |
955年〜 1187年 |
ガズナ朝建つ (アフガニスタン) |
ブリテン系デーン人A3 vsイスラム勢力 |
ハザールの中枢配下のマムルークが建てた帝国 |
1038年〜 1308年 |
セルジュークトルコ帝国建つ | トルコ人 vsイラン系アーリア人 |
トルコ人はもともとビザンツ系のデーン人の配下にいて突厥帝国を築いたが、デーン人の手の内を学び その上で、イラン系アーリア人勢力とは利害を異にしたい彼らはスンニ派の保護者を称した |
1077年〜 1231年 |
ホラズム・シャー朝 | ブリテン系デーン人A3 vsイスラム勢力 |
ハザールの中枢が支配するマムルークが建てた王朝 |
1117年〜 1215年 |
ゴール朝建つ (アフガニスタン・北インド) |
ブリテン系デーン人A3 vsイスラム勢力 |
ハザールの中枢配下のマムルークが建てた帝国、ガズナ朝に属していた |
1231年 | ホラズム・シャー朝 モンゴル軍が侵攻 |
ブリテン系デーン人F2 vsブリテン系デーン人A3 |
同じブリテン系デーン人勢力として、当然のようにホラズム・シャーの王アラーウッディーンはチンギス・ハーンと通じて いたが、モンゴル軍は彼を信用できないと見たのか陰謀を仕掛け、ホラズム・シャー侵攻の口実を作った |
1256年〜 1353年 |
イルハン朝建つ | ブリテン系デーン人F2 vsイラン系アーリア人 |
モンゴル軍中心(中枢は藤原氏の末裔)の政権 |
1299年〜 1922年 |
オスマントルコ帝国建つ | トルコ人 | 突厥帝国時代にビザンツ系デーン人に支配されていたトルコ人が彼らの手の内を学び独自にセルジュークトルコを 建てたが滅亡、そののち、続けてオスマントルコを建て、600年近くも存続することになる |
13世紀 | 「サハヴィー教団」 | イラン系アーリア人 | イルハン朝期に生きたイスラム神秘主義者、サフィーユッディーンが開いた教団 |
1335年〜 1393年 |
ムザッファル朝建つ | イラン系アーリア人 vsブリテン系デーン人F2 |
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1375年〜 1468年 |
黒羊朝建つ (イラク) |
トルコ人 vsイラン系アーリア人 |
トルコ人が作った政権だろう、のちにオスマントルコ帝国の範図にそのまま納まることになる |
1378年〜 1508年 |
白羊朝建つ (イラン) |
トルコ人 vsイラン系アーリア人 |
トルコ人が作った政権だろう、しかし、白羊朝はサハヴィー朝によって壊滅する |
1381年〜 1507年 |
チムール帝国建つ | 新デーン人 vsイラン系アーリア人 |
新デーン人勢力となったチャガタイ・ハーン国のチムールが建てた王朝 |
1388年 | チムール イランの全域服属 |
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1393年 | チムール ムザッファル朝征服 |
新デーン人 vsイラン系アーリア人 |
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1501年〜 1736年 |
サハヴィー朝建つ | イラン系アーリア人 vs新デーン人 |
デーン人勢力を排除した久しぶりのイラン系アーリア人が建てた王朝、この後しばらく平和が続く |
1514年 | チャルディラーンの戦闘 | トルコ人 vsイラン系アーリア人 |
トルコがアナトリアに迫っていたサハヴィー朝を退けた |
1517年 | マムルーク朝滅亡 | トルコ人 vsブリテン系デーン人A3 |
ハザール系の中枢が支配していたマムルーク朝がトルコによって破壊された エジプトがオスマントルコ帝国の範図に納まる |
1521年 | ベオグラード占領 | ||
1522年 | 聖ヨハネ騎士団壊滅 | ||
1526年 | モハーチの戦闘 | ||
1529年 | 第一次ウィーン包囲 | ||
1538年 | プレヴェザの海戦 | ||
1571年 | レパントの海戦 | ||
1645年 | ヴェネツィア共和国と戦争 | ||
1666年〜 1694年 |
サハヴィー朝の終焉 シャー・ソレイマーンの場合 |
英国諜報機関 vsイラン系アーリア人 |
当時の王、シャー・ソレイマーンは周囲の英国の息がかかった宦官などにより 集団ストーカーされていた可能性がある、もちろん、英国諜報機関の目的はサハヴィー朝の乗っ取りである 王が世間との隔絶を望み、王に対する臣下の関心を奪うにはどうしたら良いだろうか? それは、王を精神疾患にすることだ、つまり、王座に就かせたまま王を追放するのだ ソレイマーンはハーレムに篭りきりになり隠匿生活を送ったという、それは臣下の宦官が英国の意志を 宿していたからに他ならない、バイエルン王国のルートヴィヒ2世と同じ末路だ |
1683年 | 第二次ウィーン包囲 | ||
1690年代 | バルーチー族、蜂起 | 英国諜報機関 vsイラン系アーリア人 |
王を精神疾患にして内部から侵食しつつ、同時多発的に外から反体制勢力を侵攻させるという攻撃法は 先祖のデーン人の頃からの、英国勢力お得意のパターンである、準備には何十年もかけたことだろう この時、信頼できる、グルジアの王子ギオルギ11世に救援を求めたという |
1694年〜 1722年 |
シャー・スルタン・ホセイン の場合 |
英国諜報機関 vsイラン系アーリア人 |
シャー・スルタン・ホセインは前王を貶めた宦官たちによって選ばれ、前王同様に酒と放蕩に明け暮れた 彼の治世に反発した宗教勢力が蜂起したという、多分、英国勢力だろう |
1709年 | アフガン人、カンダハル占領 | 英国諜報機関 vsイラン系アーリア人 |
アフガン人、ミール・ヴァイスは、ギルザイ族を率いてサハヴィー朝の王シャー・スルタン・ホセインの右腕と 思われるギオルギ11世を殺害、タリバン指導者の多くはギルザイ族出身だという、タリバンは英国勢力だ |
1709年 | アフガン人、マシュハド包囲 | 英国諜報機関 vsイラン系アーリア人 |
アフガン人、アブダーリー族が蜂起、多分に英国勢力だろう |
1719年 | マフムード、ケルマーン占領 | 英国諜報機関 vsイラン系アーリア人 |
ミール・ヴァイスの息子、マフムードが勢力を増し、サハヴィー朝にとって脅威となる |
1722年 | スルタン・ホセイン降伏 | 英国諜報機関 vsイラン系アーリア人 |
マフムードはエスファハーンに入り、イラン国王となることを宣言した |
1722年 | ホセインの子 タフマースブ2世即位 |
イラン系アーリア人 新デーン人 vs英国諜報機関 |
シルクロードを支配した新デーン人の末裔(ナーディル・シャー)がイラン系アーリア人を援護、英国勢力を駆逐 サハヴィー朝は滅び、アフシャール朝が建てられた ナーディル・シャーの征服の意志は広範囲に及ぶことからも新デーン人勢力と考えられる 彼は、アナトリア東部、イラン、中央アジア、インドに範図を広げ、ペルシアのナポレオン、第二のアレクサンドロス とも呼ばれた |
1747年 | ナーディール・シャー暗殺 | 英国諜報機関 vs新デーン人 |
旧サファヴィー朝が失った領土のほとんどを回復し、一時ペルシアの覇権を握った、だが、晩年になると ナーディルは息子を盲目にしたり、甥の息子ら親族を大量に殺したり、市民や役人を殺戮したりした この反動により、部下の兵士らによって暗殺されたという、ナーディールはじつは側近の者達に集団ストーカー されていたのではないか?多数派である身分の低い者に自尊心を傷つけられ、心を乱され 手を出してしまうことで周囲の英国勢力に排除の口実を与えてしまった感がある この事象は、舞台こそイランであるが、ある意味、新デーン人の新旧勢力交代劇として見ることも出来る |
1750年〜 1794年 |
ザンド朝建つ | 英国諜報機関 vsイラン系アーリア人 |
カリーム・ハーンは自らの称号を「王朝の代理人」から「人民の代理人」に変えたという 英国勢力のにおいを感じさせるに充分だ |
1792年 | ロシア帝国 クリミア半島所有 |
ロシア諜報機関 vsトルコ人 |
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1794年〜 1925年 |
ガージャール朝建つ | イラン系アーリア人 vs英国諜報機関 |
英国諜報機関の陰謀にさらされながらイラン系アーリア人は何とか切り抜けてきたといえる ガージャール朝の時期には英国勢力の宗教組織、バーブ教、バハーイー教が送り込まれる |
1798年 | ナポレオン・ポナパルト エジプト遠征 |
ナポレオン・ポナパルト vsトルコ人 |
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1811年 | ムハンマド・アリー朝 | 英国諜報機関エジプト分家 vsトルコ人 |
ムハンマド・アリーは暗殺された司令官に代わってアルバニア人非正規軍の司令官となり、権力闘争に参加 したが、暗殺者は英国諜報機関だろう、アリーは式典を模し、オスマン時代にエジプト地域を支配していた マムルークたちをカイロの城塞に招き、彼らの帰路、城塞からカイロの町に降りる途中の隘路で待ち伏せ、 虐殺、降服した者も斬首するという強硬手段を行い、マムルークを一掃した、英国諜報機関による オスマントルコ帝国弱体化の手始め |
1814年 | 「フィリキ・エテリア」 | 英国諜報機関ギリシャ分家 vsトルコ人 |
ギリシャ独立を演出した、オスマントルコを弱体化させる悪意が秘められた英国諜報機関による陰謀 |
1822年 | ギリシャ独立戦争 | 英国諜報機関ギリシャ分家 vsトルコ人 |
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1831年 | 第一次エジプト・トルコ戦争 | 英国諜報機関エジプト分家 vsトルコ人 |
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1839年 | 第二次エジプト・トルコ戦争 | 英国諜報機関エジプト分家 vsトルコ人 |
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1844年 | 「バーブ教」 | 英国諜報機関イスラム分家 vsトルコ人 vsイラン系アーリア人 |
対イスラム圏、オスマントルコ帝国・イラン侵略の礎を築く画策、失敗、エジプトと ギリシャを独立させたものの敬虔なイスラム教徒に守られたイランやオスマントルコ は手強いと踏んだ英国諜報機関が手足となる反体制派育成のためにカルトを設立 |
1853年 | クリミア戦争 | 英国諜報機関 英国諜報機関フランス分家 トルコ人 vsロシア諜報機関 |
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1863年 | 「バハーイー教」 | 英国諜報機関イスラム分家 vsトルコ人 vsイラン系アーリア人 |
対イスラム圏、オスマントルコ帝国・イラン侵略の礎を築く画策、バーブ教から派生、イスラム圏から追放 されたが世界的に成功、敬虔なイスラム教徒に守られたイランやオスマントルコは手強いと踏んだ 英国諜報機関が手足となる反体制派育成のためにカルトを設立 |
1905年 | |||
1908年 | 青年トルコ人革命 | ||
1914年 | 第一次世界大戦 | 英国諜報機関 アメリカ諜報機関 英国諜報機関フランス分家 英国諜報機関イタリア分家 英国諜報機関日本分家 ロシア諜報機関 vsオーストリア帝国 vsプロイセン帝国 vsオスマントルコ帝国 |
上記を察知していたオーストリアも同じフランク系勢力であるプロイセン帝国、そして反英国勢力である オスマントルコ帝国と組み第一次世界大戦に望んだが、英国勢力が勝利、神聖ローマ帝国の背後にいた フランク人貴族の末裔の一派、ハプスブルグ家の支配システムを崩壊させた、ノルマン人の末裔(大英帝国)が フランク人の末裔に対し、1000年来の雪辱を果たした、これにより、古来からのフランク系(神聖ローマ帝国、 ハプスブルグ家)勢力が排除され、オスマントルコ帝国も領土を縮小され、弱体化を余儀なくされた |
1917年 | バルフォア宣言 | ブリテン系デーン人A3 英国諜報機関 vsトルコ人 |
英国勢力による敗戦国、オスマントルコ帝国の食い荒らし、開始、大英帝国外相バルフォアがシオニズム支持 を表明、英軍がオスマン軍を破り、エルサレム入城 |
1921年 | セーヴル条約 | 英国諜報機関フランス分家 vsトルコ人 |
大戦中のアラブ独立運動の指導者として知られるハーシム家のファイサル・イブン=フサインを国王に据えて 王政を布かせた、という演出を加え、反オスマン派の傀儡たちに独立国を演じさせた敗戦国である オスマントルコ帝国は英国勢力の定めた条約の強制に逆らえず、弱体化を余儀なくされた英国諜報機関の分家、 フランス支部にはレバノン、シリア、モロッコ、チュニジアが分け前として与えられた |
1927年 | ジッダ条約 (ヒジャーズ・ナジュド王国) |
英国諜報機関サウジ分家 vsトルコ人 |
大英帝国はジッダ条約によってアブドゥルアズィーズの領域の独立を認めた この条約により、オスマントルコ帝国は更に弱体化を余儀なくされた |