新説・日本系デーン人が築いた世界帝国 モンゴル帝国





◆デーン人基本仮名称◆


3万年前〜BC5000年期 古代デーン人(ZZ系デーン人)
BC5000年〜BC3000年期 大航海時代古代デーン人(ZY系デーン人)
BC2000年〜BC500年期 旧デーン人(YZ系デーン人)
BC1300年〜 第二大航海時代ブリテン系旧デーン人(YY系デーン人)
BC500年〜 スカンジナビア系新デーン人(XZ系デーン人)
AD700年〜 第三大航海時代 ブリテン系新デーン人・ヴァイキング(XY系デーン人)
AD900年〜 ノルマン人(XX系デーン人)



◆古代デーン人◆



第一次大航海時代(北極海ルート)

バルト海・ジーラント・スカンジナビア半島東岸(古代デーン人Z1/旧デーン人の先祖)
スカンジナビア半島西岸北岸・古代フィンランド・古代ロシア地方(古代デーン人Z2)=サーミ人
シベリア(古代デーン人Z3)=エヴェンキ族、ブリヤート族



第二次大航海時代(大西洋ルート)

ブリテン島・アイルランド島(古代デーン人Y1/海の民の先祖)
古代フリース地方(古代デーン人Y2a)
古代バスク地方(古代デーン人Y2b)
古代ルシタニア地方(古代デーン人Y2c)
カナリア諸島(古代デーン人Y3)



第三次大航海時代(大西洋・地中海・紅海・ペルシア湾・インド洋・太平洋ルート)

エーゲ海(古代デーン人Aグループ)=地中海・サルディーニャ島・エーゲ海
エジプト・アフリカ(古代デーン人Bグループ)=エジプト・テーベ・ヌビア・アフリカ大陸・紅海・ベドウィン族
メソポタミア/シュメール人・ヘブライ人(古代デーン人Cグループ)=ペルシア湾・ウバイド人
インド・東南アジア(古代デーン人Dグループ)=カッチ・ハラッパー・マレー半島・セレベス島
東アジア(古代デーン人Eグループ)=日本東北地方・沖縄・朝鮮半島
南北アメリカ(古代デーン人Fグループ)=南北アメリカ大陸


古代デーン人A(サルディーニャ人、シチリア人、クレタ人、ロードス島、キプロス島、キクラデス諸島)
古代デーン人B(B1a/テーベ、B1b/ヌビア、B2/ベドウィン・プント王国、B3/エジプト王朝)
古代デーン人C1(シュメール神官団A/ヘブライ人)=(ユダヤ人/C1a、イスラエル人/C1b)
古代デーン人C2(シュメール神官団B)=(カッシート人/C2a、アッシリア人/C2b)
古代デーン人D(ダーサ人、パニ人、カッチ人、チャンダーラ、デミアル人、ワナ人、ポリネシア人)
古代デーン人E(東北・北海道縄文人、蝦夷・アイヌの先祖)
古代デーン人F(ディネ族/ナバホ族・アパッチ族、イサパ文明、アパラチー族他)


※古代デーン人はピクト人として故国に帰還、新デーン人と対立し、敗北、配下となる





◆旧デーン人◆



旧デーン人がメソポタミアに派遣した支配下勢力第一波(旧デーン人A1/旧アラム人、アッカド人)
第二波(旧デーン人A2/アモリ人「バビロニア帝国」、フルリ人「ミタンニ王国」)

旧デーン人がギリシアに派遣した勢力第一波(イオニア人、アケーア人/旧デーン人A3)
第二波(テッサリア人、エオリア人)
第三波(ドーリス人/旧デーン人B)


・アケーア系デーン人(Aグループ)勢力圏=(テーベ市、アルゴス市/ギリシア、サムニテ王国、カンパニア王国/イタリア南部)


※ギリシア系旧デーン人Bグループ(B1/スパルタ市、B2/コリント市、B3/ポカイア市)


・スパルタ系デーン人(B1)勢力圏=(スパルタ市、クレタ島、ロードス島、リビア、サイス朝エジプト王国)


*コリント系デーン人(B2)の派閥*

コリント・シュラクサ(旧デーン人B2a)
アンチゴノス朝マケドニア(旧デーン人B2b)
セレウコス朝シリア(旧デーン人B2c)
プトレマイオス朝エジプト(旧デーン人B2d)
マウリア朝マガダ(旧デーン人B2e)


旧デーン人がエジプトに派遣した支配下勢力(ヒクソス人/旧デーン人C1)
旧デーン人が東アジアに差し向けた勢力(旧デーン人C2/殷を建設、その後滅亡)

旧デーン人がアーリア人に差し向けた勢力(キンメリア人/D1、スキタイ人/D2)
のちにキンメリア人、スキタイ人のどちらかがネパール地方に赴きカピラバストゥ王国を建設、仏教を作り出した
旧デーン人支配下の中央アジア勢力:エナレエス(占い師)、アラン人、マゴス神官団





◆ブリテン系デーン人(旧デーン人)◆



ギリシア(ブリテン系デーン人Aグループ)
シリア・メソポタミア(ブリテン系デーン人Bグループ)
エジプト(ブリテン系デーン人Cグループ)
アフリカ(ブリテン系デーン人Dグループ)
インド・東南アジア(ブリテン系デーン人Eグループ)
東アジア(ブリテン系デーン人Fグループ)
大西洋岸南北アメリカ(ブリテン系デーン人Gグループ)


ブリテン系デーン人A=(A1/エトルリア人、A2/ローマ帝国、A3/アテネ市、A3a/ビザンツ帝国、
A3b/ヴェネツィア共和国、A3c/ハザール帝国(アシュケナージ)、A3d/突厥帝国、A3e/ウイグル、A3f/宋)
※アテネ人A3系勢力圏(キリキア、マッシリア、コルシカ島、サルディーニャ北部、シチリア東部、ポントス王国、ボスポロス王国)

ブリテン系デーン人B=(B1/フェニキア人・ペリシテ人・ダン族、B2/新アラム人、B3/新ヒッタイト人)
ブリテン系デーン人C=(C1/エジプト王朝、C2/テーベ・アメン神官団)
ブリテン系デーン人D=(ヨルバ人、マダガスカル島)
ブリテン系デーン人E=(セイロン島、インド南部)


ブリテン系デーン人F1=(F1aA/ミャオ族、楚、太平道、黄巾族、呉、南詔、大理国、白蓮教、F1aB/華僑、F1b/邪馬台国、倭寇)
ブリテン系デーン人F2=(F2aA/皇族、F2aB1/奥州藤原氏・全真教、F2aB2/藤原氏、F2bA/関西平氏、F2bB/関東平氏、
F2cA/粛慎・渤海、女真人・満州人、F2cB/モンゴル人、F2cB1/タタール人、F2cB2/オイラート人、F2d/高句麗・高麗人)

ブリテン系デーン人G=(オルメカ人/ユカタン半島)





新デーン人



新デーン人A1a/スカンジナビア系デーン人(ケルト人、ドルイド教ローマ人奴隷、ダキア人)、新デーン人A1b(キンブリ人、テウトニ人)
新デーン人A2/中央アジア系デーン人(A2a/エフタル・ヒョーン人、マッサゲタイ人、パルティア人、A2b/チャガタイ汗国、オゴタイ汗国、チムール帝国)
新デーン人A3/東アジア系デーン人=匈奴(A3a)、フン族(A3b)、鮮卑(A3c)、柔然(B)、吐藩(C1)、唐/天台宗(C2)、契丹/遼(D1)、西夏(D2)
新デーン人A4/アルバ系デーン人(スコットランド・アイルランド系カトリック・アイオナ修道院、ティオティワカン帝国)

新デーン人B1/ゴート人(西ゴート王国)
新デーン人B2/フランク人(フランク王国、ノーサンブリア王国、イースト・アングリア王国、マーシア王国、
エセックス王国、ウェセックス王国、サセックス王国、神聖ローマ帝国、エデッサ王国、エルサレム王国)
新デーン人B3/ロンバルディア人(北イタリア地方、ラテン帝国、ジェノヴァ共和国)

新デーン人A1a/デーンロー系デーン人(ジュート王国・カンタベリー大司教座・デーンロー)
新デーン人A1c/スウェード人(バルト三国、キエフ公国、ロシア、ウクライナ)
新デーン人A1d/ノルウェー人(アイスランド共和国、グリーンランド、トルテカ人)
新デーン人A5/デンマーク人(デンマーク王国・カルマル同盟)

ノルマン人A1/フランス系ノルマン人(ノルマンディー公国、フランス王国、外ヨルダン領、ゼンギ朝シリア、カスティーリャ王国、レオン王国、スイス連邦)
ノルマン人A2/イングランド系ノルマン人+新デーン人A1aA(ノルマン朝、ピサ共和国、ナバラ王国、アラゴン王国)
ノルマン人A3/イタリア系ノルマン人(シチリア・ナポリ王国、アンチオキア王国、トリポリ王国、ラテン帝国)
新デーン人A1aB/反逆派、後にルター派を創設(アルモラヴィド帝国、アルモハード帝国、モロッコ王国、ガーナ王国、ブルガリア帝国)



◆東アジアに根付いたブリテン系旧デーン人勢力◆


●海路で東アジアに達したブリテン系デーン人Fグループは中国系、日本系の2勢力に分化した
ということで、ブリテン系デーン人F1(中国系)、ブリテン系デーン人F2(日本系)と仮称する
しかし、F1グループは後にミャオ族、楚、太平道、黄巾族、呉、南詔、大理国、白蓮教(F1aA)、華僑(F1aB)、邪馬台国、倭寇(F1b)に分かれ

●F2グループは皇族(F2aA)、奥州藤原氏(F2aB1)、藤原氏(F2aB2)、関西平氏(F2bA)、関東平氏(F2bB)、
粛慎・渤海、女真、金、満州・清(F2cA)、モンゴル帝国(F2cB)、タタール(F2cB1)、オイラート(F2cB2)、高句麗、高麗(F2d)に分化する
また、東北・北海道地方には蝦夷(古代デーン人の末裔)がいた

●陸路で東アジアに到達した新デーン人は匈奴(新デーン人A1a、A1b)、鮮卑(新デーン人A2)、柔然(新デーン人B)、吐藩(新デーン人C1)
唐(新デーン人C2)、契丹(新デーン人D1)、西夏(新デーン人D2)を支配下に置き、随時、中国に侵攻した
柔然は突厥帝国(ギリシア系デーン人)に敗れた

●また、別に陸路で到来したギリシア系デーン人が突厥帝国(ブリテン系デーン人A3z1)、
ウイグル(ブリテン系デーン人A3z2)、宋(ブリテン系デーン人A3z3)を影から支配、随時、中国に侵攻した






年代 できごと 勢力
内実
37年 高句麗成立 ブリテン系デーン人F2aA
(皇族)
日本の皇族は極東デーン人勢力の一派として、朝鮮半島統一、中国蹂躙の目的のために高句麗を裏から
操作していた、当時、朝廷の主だった諜報員はみな大陸にいた
つまり、当時から、日本国内の動きはすべて大陸に反映されていた、またその逆も然り
698年 渤海成立 ブリテン系デーン人F2aB
(藤原氏)
後の清朝、金、渤海は、裏で藤原氏が関係していた、日本の支配者たちは大陸に諜報員を派遣し、自分の領土を
確立していたが、つまり、当時から、日本国内の動きはすべて大陸に反映されていたのだ
渤海成立時は、折りしも、大化の改新後、藤原氏が歴史に登場した頃であった
平氏の伸張と共に、後に奥州に移った藤原氏中枢勢力は日本国内に見切りを付け、大陸に渡り、金では全真教を興し
モンゴル帝国を導いた、源義経がチンギス・ハンだったという伝説もあながちウソではないかもしれない
784年 桓武天皇
長岡京に遷都
ブリテン系デーン人F2bA
(平氏)
新デーン人
平氏は大陸の新デーン人勢力「契丹」と結び、日本国内に於いて旧勢力との分化を謀った向きがある
というか、平氏の勃興は大陸系新デーン人の意志だったのかもしれない
788年 最澄、延暦寺創建 新デーン人 目に見える平氏は「身体」であり、延暦寺は平氏の「頭脳」だった、頭脳が残っていれば何も滅んではいない
別の身体を選べば良いのだが、それが後の戦国時代の口火を切った可能性がある
794年 桓武天皇
平安京に遷都
ブリテン系デーン人F2bA
(平氏)
新デーン人
桓武天皇が平氏を生んだのではなく、桓武天皇は平氏だった、彼らは奈良仏教勢力(旧デーン勢力)と
利害を異にするために天台宗を崇拝する、桓武天皇は大陸の新デーン人に離反を提起された可能性がある
805年 「天台宗」 新デーン人 平氏は旧勢力と利害を異にするために天台宗を崇拝、天台宗は新デーン人の隠れ家だ
新デーン人は天台宗を隠れ蓑に中国、日本を支配した
918年 高麗建つ ブリテン系デーン人F2aB
vs朝鮮人
藤原氏勢力が新羅を倒し、朝鮮半島に於ける勢力圏を確立
926年 契丹、渤海を滅ぼす ブリテン系デーン人F2bA
新デーン人
vsブリテン系デーン人F2aB
日本の新規勢力、関西平氏が藤原氏の一派、大陸の新デーン人と組み、大陸に於ける藤原氏勢力圏を滅ぼす
938年 空也、念仏宗を創む
「浄土思想」
ブリテン系デーン人F2bA
新デーン人
平氏の中で勢力圏が分化、平氏の一派が浄土思想を創り、まず他の平氏と利害を意にすることを一番の目的
とし、次に皇族(神道、奈良仏教)、藤原氏と利害を異にすることを行なった
939年 平将門・藤原純友の乱
(天慶の乱)
ブリテン系デーン人F2bA
新デーン人
vsブリテン系デーン人F2aA
vsブリテン系デーン人F2aB
大陸の新デーン人が将門、藤原氏の一派に旧日本勢力に対する蜂起を提案し、将門は新皇を自称するが
平定される、つまり、天慶の乱は契丹の渤海侵攻と関連していた
この後、藤原氏が全盛時代を迎える、彼らは当時、九州以外の日本を制し、北東アジア(渤海地域)、
朝鮮半島を支配していたことになる
1035年 園城寺・延暦寺の
僧徒、争う
ブリテン系デーン人F2bA
vs新デーン人
天台宗勢力内の権力闘争であり、大陸の出来事とも連動している、大陸の出来事とは新デーン人勢力である
契丹の高麗(日本勢力)侵攻である、天台宗は新デーン人と平氏勢力に割れ、争ったのだ
1086年 院政始まる ブリテン系デーン人F2bB2
vsブリテン系デーン人F2aA
高麗が新デーン人勢力配下に落ちた後に、日本国内で院政がはじまる、大陸での支配権を失った藤原氏は
皇族を支配下に置き、日本での支配権を強固にしたということだろうか
1087年 奥州藤原氏 ブリテン系デーン人F2aB1 一方で北方にも勢力圏を築いておきたいがために、藤原氏の中枢が奥州に移動したと思われる
安倍氏を倒した清原氏(奥州藤原氏)の本拠地に赴き、東北を拠点にし、藤原氏は自身の大陸勢力、女真に
いろいろ指示をしていた可能性がある、それが後の世界帝国、モンゴル帝国建設につながっていく
1107年 女真、高麗侵攻 ブリテン系デーン人F2aB
vs新デーン人
新デーン人の3大勢力、契丹、西夏、高麗の中で高麗は元々藤原氏勢力だったので当時の藤原氏勢力だった
女真が高麗に侵攻した
1115年 女真、契丹を破る
女真、金建国
ブリテン系デーン人F2aB1
ブリテン系デーン人F2c
vs新デーン人D1
奥州藤原氏が女真に指示し、契丹を破る、つまり、平氏の親玉である大陸系新デーン人勢力を
ブリテン系デーン人F2aB勢力が打破した
1124年 中尊寺金色堂建立 ブリテン系デーン人F2aB1 砂金を産業にし、莫大な資金を溜め込み、大陸蹂躙の軍資金として投入、後に藤原氏は北アジアを手中にしたが、
同時に奥州藤原氏の本拠地、平泉が繁栄、金色堂はその象徴だ
1156年 保元の乱 ブリテン系デーン人F2bA
新デーン人
vsブリテン系デーン人F2aA
vsブリテン系デーン人F2aB2
旧日本勢力(ブリテン系デーン人F2)と対立していた新デーン人勢力の勝利といえるか
これは、藤原勢力である女真が、平氏の親玉である契丹(新デーン人)を破ったことと連動しているだろう
1159年 平治の乱 ブリテン系デーン人F2bA
vs新デーン人
平氏、新デーン人勢力内の権力闘争だったか、平清盛が新デーン人を裏切った行為と言えるだろうか?
清盛は王になるために皇族と新デーン人を利用した
1167年 平清盛、太政大臣となる ブリテン系デーン人F2bA
vs新デーン人
清盛は、日本の旧ブリテン系デーン人勢力(皇族・藤原氏)、新デーン人勢力を排し、日本の王となった
1168年 平清盛、厳島神社造営 ブリテン系デーン人F2bA
vs新デーン人
日本の元を作ったブリテン系デーン人(オリエント地方を破壊した海の民の一派)を奉ったか
平氏は皇族や藤原氏と違い、ルーツ(海の民)回帰を怠らなかったというところか、新デーン人に対する裏切りとも
言える、こうしてみると、九州倭寇は当然として、瀬戸内海賊もブリテン系デーン人(海の民)の末裔なのだろうか?
1189年 奥州藤原氏、滅亡 ブリテン系デーン人F2bB
新デーン人
vsブリテン系デーン人F2aB1
9年前に源氏が挙兵、1185年に壇ノ浦の合戦で平氏を滅ぼした、次の一手が奥州藤原氏だったが、
奥州に攻め入る口実のために頼朝は工作員として義経を派遣した、が、藤原氏に見破られ、義経は自害させられる
しかし、実際には、奥州藤原氏は義経を大陸行きに動向させ、モンゴル軍の指揮官として登用した可能性もある
この頃、藤原氏の中枢は大陸に移動し、全真教の中枢を担い、教団として存続したと考えられる
1192年 源頼朝、鎌倉幕府開く ブリテン系デーン人F2bB
新デーン人
vsブリテン系デーン人F2bA
新デーン人の隠れ家は比叡山だったか?とにかく、新デーン人は関西平氏に制裁を加えるべく、関東平氏に指示し
源氏を表にして鎌倉幕府を興したのだろうか?
頼朝の背後には土肥氏、三浦氏、北条氏などの関東平氏の面々が控えていた
1206年 チンギス・ハーン
クリルタイ最高権力者に
ブリテン系デーン人F2cB
vs新デーン人
蒙古が新デーン人勢力を駆逐し、草原を制覇した、日本では新デーン人勢力が台頭したが、大陸では逆に
新デーン人が駆逐され、ブリテン系デーン人F2cB勢力(藤原氏勢力)が台頭している
シャーマン指導者、
ココチュ殺害
ブリテン系デーン人F2cB
ブリテン系デーン人F2aB
ブリテン系デーン人F2cA
vs新デーン人
蒙古はもうひとつの新デーン人勢力、シャーマン指導者のココチュを殺害、非常に手強い存在だったようで、
チンギス・ハーンでさえ、ココチュが死んだことをしっかり確認するまでは安心できなかったという
この一件でモンゴル人はめでたく新デーン人勢力から日本系デーン人勢力傘下に入る
1219年〜
1224年
チンギス・ハーンの西征 ブリテン系デーン人F2cB
vsノルマン人勢力
vsロシア人勢力
vs神聖ローマ帝国
vsイスラム勢力
この頃、大陸に渡った藤原氏は全真教の教団としてモンゴルを操り、同じブリテン系デーン人の国、ビザンツを救う
ために西方に進軍した
1219年 金軍、南宋に侵攻
紅巾の賊起こる
ブリテン系デーン人F2cA
ブリテン系デーン人F1a
vsギリシア系デーン人
金軍が南宋に侵攻したことに乗じ、F1a勢力の紅巾賊が行動開始
1220年 南宋、西夏連合
金に侵攻
ギリシア系デーン人
新デーン人
vsブリテン系デーン人F2cA
南宋、西夏の連合は金に打って出たが敗北
1221年 承久の乱 ブリテン系デーン人F2bB
新デーン人
vsブリテン系デーン人F2aA
二頭政治が行われていたが、承久の乱の勝利により、幕府が皇位継承などに影響力を持つようになる
日本では新デーン人勢力が台頭したが、大陸では逆に新デーン人が駆逐され、
ブリテン系デーン人F2cB勢力(藤原氏勢力)が台頭している
1223年 倭寇、初登場 ブリテン系デーン人F1b
vs朝鮮人
vs中国人
藤原氏の大陸勢力の台頭に慌てたF1勢力が倭寇を指揮し、朝鮮半島、中国大陸奪取を画策
1227年 蒙古、西夏を滅ぼす ブリテン系デーン人F2cB
vs新デーン人
1229年 西遼滅亡
オゴタイ汗国建つ
ブリテン系デーン人F2cB
vs新デーン人
1231年 蒙古、ホラズム朝滅亡
チャガタイ汗国建つ
ブリテン系デーン人F2cB
vsイラン系アーリア人
1234年 蒙古、金を滅ぼす ブリテン系デーン人F2cB 全真教の本拠地、金を滅ぼしたが、金の中枢は全真教の教団としてモンゴル軍に従軍していた
1237年 蒙古の将、バトゥ
モスクワ占領
ブリテン系デーン人F2cB
vsロシア人
ハザール帝国を滅ぼしたロシア人に危惧を抱いていたビザンツの援護と言える
1240年 バトゥ、キエフ占領 ブリテン系デーン人F2cB
vsロシア人
vsスウェーデン人
ノヴゴロド軍、ネヴァ河畔にスウェーデン軍を破る
1241年 ワールシュタットの戦闘 ブリテン系デーン人F2cB
デーンロー系デーン人
vsハンガリー軍
vsポーランド軍
蒙古軍はハンガリー軍・ポーランド軍を全滅させ、神聖ローマ帝国に侵攻するが、あまりのウンコの多さに驚き
引き返した、当時の欧州諸都市は下水設備が崩壊しており、市民はみな道路に排泄物を捨てていたのだ
当初の計画では、蒙古軍はブリテン島に拠点を移した新デーン人の手引きにより、敵勢力であるフランク人勢力
フランス、イングランドのノルマン人勢力を掃討する手筈だったのではないか
1243年 キプチャク汗国建設
(ロシア)
ブリテン系デーン人F2cB
vsロシア人
ハザール帝国を滅ぼしたロシア人に危惧を抱いていたビザンツの援護と言える
1245年 フランシスコ会、
ドミニコ会、修道士派遣
プラノ・カルピニ訪問
フランス系ノルマン人
vsブリテン系デーン人F2cB
イングランド系ノルマン人はかつてのデーンがフン族を呼び寄せた時のルートを使い
モンゴル軍を欧州に誘導、神聖ローマ帝国とフランス王国滅亡を試みたが、当時の
欧州の諸都市はすべてウンコだらけだったため、ウンコに驚いたモンゴル軍は退却
ということで欧州は助かったのだった、そこで、フランス系ノルマン人がフランシスコ会
とドミニコ会の諜報員をモンゴル帝国に派遣、協定を結び、共同でイングアンド系
ノルマン人に対抗することを画策した
1253年 フビライ、大理を滅ぼし
吐蕃を服属す
ブリテン系デーン人F2cB
vsブリテン系デーン人F1a
vs新デーン人
フビライが紅巾賊などのF1a勢力の拠点、大理国を滅ぼし、新デーン人の勢力圏、吐蕃を服属させる
1258年 セルジュークトルコ滅亡
イル汗国建つ
ブリテン系デーン人F2cB
vsイスラム勢力
ビザンツのイスラム勢力に対する懸念の払拭といえる
1258年 アッバース朝
イスラム帝国消滅
ブリテン系デーン人F2cB
vsイスラム勢力
ビザンツのイスラム勢力に対する懸念の払拭といえる
1259年 イル汗国、十字軍
ダマスクス攻略戦
ブリテン系デーン人F2cB
フランス系ノルマン人
vsイスラム勢力
フラーグ・ハーンがアルメニア軍、フランス系ノルマン人勢力と連合しダマスクス、シリアに遠征するが失敗
1260年 フビライ即位 ブリテン系デーン人F2cB
vs新デーン人
フビライの名の由来は藤原氏の祖、中臣鎌足の次男、不比等ではないか、音読みにしたらフヒトはフビラとなる
これは、藤原氏の中枢が日本を捨て、大陸に赴いた証ではないか??
1261年 ビザンツ帝国復活 ブリテン系デーン人Aグループ
vsイタリア系ノルマン人
vsロンバルディア人
蒙古軍の援護射撃があったかどうかは定かではないが、ビザンツのノルマン勢力掃討が蒙古軍の欧州到来の
時期と偶然にも重なっている、ビザンツはアテネ、ローマを建国したブリテン系デーン人の後裔が建てたと考えられる
1264年 モンゴル帝国帝位
継承戦争
ブリテン系デーン人F2cB
vs新デーン人
新デーン人の領土を蹂躙しても中枢は生き残っており、彼らは早速、モンゴル帝国の反体制派に接触し蜂起を
打診、当時の大ハーン、モンケを暗殺し、新デーン人は配下に降りたアリクブケを背後から操作した
だが、アリクブケはフビライに破れ、新デーン人はモンゴル帝国テイキングオーバーを一時断念、次のモンゴル
反体制戦力としてチャガタイ汗国のハイドゥを選ぶ
1265年 キプチャク汗国、ノガイ
ブルガリア遠征
ブリテン系デーン人F2cB
vsイタリア系ノルマン人
vsロンバルディア人
当時、ブルガリアはイタリア系ノルマン勢力としてビザンツを攻撃していた、やはり元寇はビザンツ帝国援護の
性格も一方で備えていたといえる
1266年 キプチャク汗国、ベルゲ
ミカエル8世の女と結婚
ブリテン系デーン人F2cB
ブリテン系デーン人Aグループ
キプチャク汗国のベルゲ・ハーンがビザンチン帝国の王、ミカエル8世の女と結婚した、
つまり双方はお互いをブリテン系デーン人勢力と認識していた
1266年 キプチャク汗国、ノガイ
アゼルバイジャン攻撃
1266年 チャガタイ汗国
ハイドゥの乱
新デーン人
vsブリテン系デーン人F2cB
新デーン人の中枢がオゴタイ、チャガタイに指令し、キプチャクと同盟を成立させる
1271年 元朝始まる ブリテン系デーン人F2cB フビライはブリテン系デーン人F2勢力下にあったが、宗教に於いてチベット仏教を信仰したので
同時に、新デーン人勢力下にいたことにもなる
1274年 文永の役 ブリテン系デーン人F2cB
vsブリテン系デーン人F1b
当時の九州は日本ではなかった、長江上流に拠点を置くF1勢力の日本拠点だった、本州勢力の流れを組む
蒙古軍は日本征伐というよりは九州征伐のつもりだったに違いない、だが神風により失敗
1275年 マルコ・ポーロ
フビライ・ハーンに会見
ブリテン系デーン人F2cB
ブリテン系デーン人Aグループ
ビザンツ、ハザール、ヴェネツィアはアテネ、ローマを建てたブリテン系デーン人Aグループの残党が建てたが
そのブリテン系デーン人A勢力の諜報員、マルコ・ポーロがブリテン系デーン人F2勢力に接触
1277年 元軍、ビルマ侵攻 ブリテン系デーン人F2cB
vsビルマ人
ニャサウンギャンの戦闘
1279年 克Rの戦闘 ブリテン系デーン人F2cB
vsギリシア系デーン人
蒙古軍が南宋を滅ぼす
1280年 キプチャク汗国
ブルガリア服属す
ブリテン系デーン人F2cB
vsイタリア系ノルマン人
vsロンバルディア人
当時、ブルガリアはイタリア系ノルマン勢力としてビザンツを攻撃していた、やはり元寇はビザンツ帝国援護の
性格も一方で備えていたといえる
1281年 弘安の役 ブリテン系デーン人F2cB
vsブリテン系デーン人F1b
当時の九州は日本ではなかった、長江上流に拠点を置くF1勢力の日本拠点だった、本州勢力の流れを組む
蒙古軍は日本征伐というよりは九州征伐のつもりだったに違いない、だが神風により再度失敗
F1勢力である日蓮は元寇を利用し、本州に多くの信者を獲得した
1282年 日蓮、建長寺創建
「法華経・日蓮宗」
ブリテン系デーン人F1a
vsブリテン系デーン人F2bB
蒙古軍の日本侵攻を耳にしたF1勢力がこの機に乗じて新しい宗教で日本人民を改宗させ、配下に治めようと画策
長江上流、または九州からわざわざ千葉の外れに赴き、日蓮を工作員として教育
1284年 元将トガン
安南・チャンパを討つ
ブリテン系デーン人F2cB
vsベトナム人
安南軍、二年後に元軍を破る
1292年 元軍、ジャワ遠征 ブリテン系デーン人F2cB
vsジャワ人
シンガサリ軍、これを退ける
1293年 元将バヤン
ハイドゥの軍を破る
ブリテン系デーン人F2cB
vs新デーン人
ブリテン系デーン人F2bBが新デーン人勢力を退ける
1293年 モンテ・コルヴィノ訪問 フランス系ノルマン人
vsブリテン系デーン人F2cB
フランス系ノルマン勢力であるフランシスコ会の修道士(諜報員)コルヴィノがハンバリクに
教会を建設、数千人のモンゴル人に洗礼を施した
1307年 6名の司教を派遣 フランス系ノルマン人
vsブリテン系デーン人F2cB
モンゴル帝国に誕生したハンバリクの大司教に仕えるべき6名の司教をローマ教皇が派遣
1313年 コルヴィノ宣教 フランス系ノルマン人
vsブリテン系デーン人F2cB
モンゴル帝国は広大でたくさんの人種がいたが、コルヴィノはモンゴルに対する反体制派を
育成するつもりで流刑囚、アラン人、ロシア人、アルメニア人などにも洗礼を与えた































































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