新デーン人の帝国 T

ローマ帝国・シルクロード・東アジア侵攻
「サドカイ派」「グノーシス主義」「マニ教」
匈奴(フン族)・エフタル・ロスチャイルド家




大英帝国の黎明





旧デーン人



・旧デーン人Aグループ・

メソポタミア侵攻第一波(旧デーン人A1/旧アラム人、アッカド人)
第二波(旧デーン人A1/アムル人「バビロニア帝国」、フルリ人「ミタンニ王国」)

シルクロード侵攻第一波(バクトリア・マルギアナ文明、大月氏/旧デーン人A2)

ギリシア侵攻第一波(イオニア人/ケルト人、アケーア人/旧デーン人A3)
第二波(テッサリア人、エオリア人/ケルト人)

エジプト侵攻第一波(ヒクソス人/旧デーン人A4)


・旧デーン人Bグループ・

ギリシア侵攻第三波(ドーリス人/旧デーン人B)

ドーリス人の第一後裔、スパルタ人(旧デーン人B1)
ドーリス人の第二後裔、コリントス人(旧デーン人B2)

シルクロード侵攻第二波(キンメリア人、スキタイ人、サカ人/旧デーン人B3)



・アケーア系デーン人(Aグループ)勢力圏=(テーベ市、アルゴス市/ギリシア、サムニテ王国、カンパニア王国/イタリア南部)


・スパルタ系デーン人(B1)勢力圏=(スパルタ市、クレタ島、ロードス島、リビア、サイス朝エジプト王国)


*コリントス系デーン人(B2)の派閥*

コリントス市・シュラクサ(旧デーン人B2a)
アンチゴノス朝マケドニア(旧デーン人B2b)
セレウコス朝シリア(旧デーン人B2c)
プトレマイオス朝エジプト(旧デーン人B2d)
マウリア朝マガダ(旧デーン人B2e)

※コリントス人中枢移転先(アルメニア王国、キエフ公国、ロシア帝国)





ブリテン系デーン人(旧デーン人)



ギリシア(ブリテン系デーン人Aグループ)
シリア・メソポタミア(ブリテン系デーン人Bグループ)
エジプト(ブリテン系デーン人Cグループ)
アフリカ(ブリテン系デーン人Dグループ)
インド・東南アジア(ブリテン系デーン人Eグループ)
東アジア(ブリテン系デーン人Fグループ)
大西洋岸南北アメリカ(ブリテン系デーン人Gグループ)


ブリテン系デーン人A=(A1/エトルリア人、A2/ローマ帝国、A3/アテネ市、ビザンツ帝国、突厥帝国、ヴェネツィア共和国、ハザール帝国)

※古代アテネ人勢力圏(キリキア、マッシリア、コルシカ島、サルディーニャ北部、シチリア東部、ポントス王国、ボスポロス王国)
※西ローマ帝国の中枢移転先(モラヴィア王国、ノヴゴロド公国、ポーランド王国、ハプスブルグ家)
※ビザンツ帝国の中枢移転先(突厥帝国、ハザール帝国、ウイグル汗国、ハンガリー王国、ヴェネツィア共和国、モスクワ公国)
※ハザール帝国の中枢移転先(リトアニア公国、アシュケナージ)

ブリテン系デーン人B=(B1/フェニキア人・ペリシテ人・ダン族、B2/新アラム人、B3/新ヒッタイト人)
ブリテン系デーン人C=(C1/エジプト王朝、C2/テーベ・アメン神官団)
ブリテン系デーン人D=(西アフリカ、ヨルバ人、マダガスカル島)
ブリテン系デーン人E=(セイロン島、インド南部)

ブリテン系デーン人F1=(長江系/ミャオ族、楚、太平道、黄巾族、大理国、白蓮教、広東系/華僑、九州系/邪馬台国、新羅、倭寇)

ブリテン系デーン人F2=出雲を本拠地に北アジア(粛慎)、モンゴル高原(東胡)、朝鮮半島(扶余)、中国南部(呉越)に拠点が築かれた

出雲系:古代出雲、百済、任那日本府、大和朝廷(大伴氏、物部氏)
呉越系(広東):呉、越、南越(ベトナム)、南詔国
東胡系(皇族):鮮卑、柔然、北魏(吉備氏)、大和朝廷(中大兄皇子、中臣氏)
粛慎系(藤原氏):渤海、西夏、女真族、金王朝、清王朝
契丹系(平氏):契丹、モンゴル帝国、タタール
扶余系(蘇我氏):高句麗、大和朝廷(蘇我氏、聖徳太子)、高麗、李氏朝鮮


ブリテン系デーン人G=(オルメカ人/ユカタン半島)






新デーン人



新デーン人A1a/スカンジナビア系デーン人(ケルト人、ドルイド教ローマ人奴隷、ダキア人)、新デーン人A1b(キンブリ人、テウトニ人)
新デーン人A2/中央アジア系デーン人(A2a/エフタル・ヒョーン人、マッサゲタイ人、パルティア人、A2b/チャガタイ汗国、オゴタイ汗国、チムール帝国)
新デーン人A3/東アジア系デーン人=匈奴(A3a)、フン族(A3b)、鮮卑(A3c)、柔然(B)、吐藩(C1)、唐/天台宗(C2)、契丹/遼(D1)、西夏(D2)
新デーン人A4/アルバ系デーン人(スコットランド・アイルランド系カトリック・アイオナ修道院、ティオティワカン帝国)








年代

できごと 勢力 内実
東胡
(天孫の中枢、北アジアへ)
ブリテン系デーン人F2(天)
vs漢民族
将来、吉備氏、蘇我氏、平氏、源氏の祖となる天孫(諜報員軍団)集団が大陸に拠点を築いた
それらは東胡、扶余、粛慎などだったが、彼らは黒竜江を遡り、モンゴル草原の奥地にまで赴いたのだ
彼らの目的は新デーン人、漢民族を打倒し、大陸に覇を唱え、広大な領土を得ることだった
この時、大陸へ赴く手段として船が用いられたが、それが瀬戸内海賊の祖となっただろう
瀬戸内海は大陸へ赴く玄関口だった、生口島が神の島と呼ばれ皇族と関係が深かったのもそれだろう
BC318年 匈奴(天孫時代) ブリテン系デーン人F2(天)
vs漢民族
匈奴は韓、趙、魏、燕、斉の五国とともに秦を攻撃したが、五国側の惨敗に終わった
BC3世紀 新デーン人大移動 新デーン人 ブリトン人が指揮していたケルト人の蜂起に刺激され、BC300年代にスコーネ・ユトランドを出発した
新デーン人の部隊は3手に分岐、一方はローマ帝国、一方は漢、一方はブリテン島を目指した
ローマ帝国を目指した部隊は、サドカイ派を成す神官を兼務する諜報員部隊と、キンブリ人・テウトニ人
で構成された戦士とその家族の部隊で、彼らは期が熟すまでガリア・ゲルマニアで待機していたと
考えられる、その後、諜報部隊はシリア・サマリアに拠点を築き、アタルガティス教・サドカイ派を組織
アタルガティス教はシリアの奴隷蜂起に関与し、キンブリ・テウトニ部隊は直接ローマに侵攻した
一方の漢に向かった部隊は、旧デーン人が開発したシルクロードを利用、当地の
モンゴル民族を統率・指揮し、大月氏を撃破、漢に侵攻し、ブリテン島から来た日本の天孫族と戦った
もう一方の勢力は、海を渡り、ブリテン島・アイルランドに侵攻、アイルランド人にダーナ神族の名で
呼ばれた、彼らは、ケルト人のマスターであるブリトン人勢力の壊滅に乗り出したが、失敗、
ブリテン島(現イングランド地域)・アイルランドから退き、スコットランド(ハイランド)に拠点を築く
BC220年〜
BC130年頃
ダーナ神族
ブリテン島・アイルランドに侵攻
新デーン人
vsブリテン系デーン人
伝説の王ヌアザを首領に新デーン人正規軍がブリテン島、アイルランドに遠征
していたと考えられる、DANEは英語読みではデーンとなるが、フランス語ではダーヌ、
ダーン、ラテン語ではダーネとなる、それがアイルランドではダーナとなったというところだろう
※彼らは、ブリトン人がケルト人のマスターだということを知っており、元を断とうとして
ブリテン島・アイルランドに侵攻したのだろう
BC220年〜
BC130年頃
第一次マー・トゥーレスの戦闘 新デーン人
vsブリテン系デーン人
ダーナ神族が先住民フォモール族と同盟を締結、フォルボルグ族に勝利
新デーン人がアイルランドに拠点を築いた、ということか
BC220年〜
BC130年頃
第二次マー・トゥーレスの戦闘 新デーン人
vsブリテン系デーン人
同盟者であったフォモール族と対立するようになり、ヌアザは王位をルーに譲り、フォモール族
と戦闘を開始、勝利を収める、こうして見ると反対勢力がたくさん育っていたということか
BC220年〜
BC130年頃
ミレー族(ルシタニア人)到来 ブリテン系デーン人
ルシタニア分家
vs新デーン人
のちに、ミレー族(ゲール人)がイベリアから援軍に来たというが、ブリトン人配下のルシタニア人のことだろう
その結果、ダーナ神族はアイルランドを捨ててスコットランド(ハイランド)に拠点を移転
BC220年〜
BC130年頃
影の国(アルバ) ブリテン系デーン人
ルシタニア分家
vs新デーン人
アルバ(スコットランド)にあるとされる影の国、それは新デーン人の要塞ではなかったか
そこには伝説の女戦士スカサバがおり、後継者の戦闘要員を教育していたという
BC209年代 匈奴(新デーン人時代) 新デーン人
vsブリテン系デーン人F2(天)
vs漢民族
新デーン人が陸路で到来、旧デーン人(大月氏など)をモンゴル高原から駆逐し、北アジアに覇を唱えた
新デーン人が匈奴(天孫)内部の叛乱分子に接触、蜂起を打診、自身の勢力として育成して
天孫勢力に反抗、北アジア拠点の東胡を撃破、その後は漢に随時侵攻しながら、
併行して、ブリテン島から来た日本の天孫族と対立した
BC209年頃 東胡滅亡 新デーン人
vsブリテン系デーン人F2(天)
東胡が匈奴に滅ぼされた際、烏桓と鮮卑に分化したという、この後、天孫族は新デーン人に300年近く
支配された
BC206年 楚漢戦争 ブリテン系デーン人F1(楚)
vs漢民族
約5年間にわたり、秦王朝滅亡後の政権をめぐり、西楚の覇王項羽と漢王劉邦との間で、
当時の中国のほぼ全土で繰り広げられた内戦
BC202年 漢王朝 漢民族
vsブリテン系デーン人F1(楚)
劉邦が初代皇帝
BC200年 白登山の戦い 新デーン人
vs漢民族
匈奴は馬邑城の韓王信を攻撃し、彼を降伏させることに成功した、匈奴はそのまま太原に侵入し、晋陽に
迫った、そこへ高祖(劉邦)率いる漢軍が到着するが、大雪と寒波に見舞われ、多くの兵が凍傷にかかった
高祖は陳平の献策により冒頓の閼氏(えんし:歴代単于の母)を動かして攻撃を思い止まらせその間に
逃走した、これ以降、漢は匈奴に対して毎年貢物を送る条約を結び、弱腰外交に徹する
BC177年 匈奴
西域を支配下に
新デーン人
vs漢民族
vs旧デーン人(大月氏)
匈奴が河南の地へ侵入、上郡で略奪をはたらいた、そのため、漢の孝文帝は丞相の灌嬰に右賢王を撃たせ
た、白登山の一件以来、初めて匈奴に手を出した漢であったが、その頃の単于冒頓は西方侵略に忙しく、
敦煌付近にいた月氏を駆逐させるとともに、西域26国を匈奴の支配下に収めている
BC2世紀 「サドカイ派」 新デーン人
vs古代デーン人C
vsブリテン系デーン人B
vsブリテン系デーン人A2
ユダヤ教の中の反体制勢力に接触、パリサイ派・エッセネ派と対立するサドカイ派を構成したと考えられる
ユダヤ教は優れた民族支配装置なので、新デーン人はゆくゆくはローマ侵攻に役立つと思い
目をつけたのだろう、サドカイ派はディアスポラののちにキンブリ・テウトニの残党とともにエフタルを形成
更にエフタルが滅亡した際には、ブルガリア支配を経てドイツ騎士団となり、ロスチャイルド家が輩出された
「アタルガティス教」 新デーン人
vsブリテン系デーン人A2
シリアの女神を信仰する宗教だが、ドルイド教の息がかかっており、新デーン人勢力として信徒のひとり、
エウヌスがシチリアにて奴隷の反乱を扇動することになる、彼は女神の名の下に神託や予言を
行なったが、女神は彼を王と宣言したという、デーン人は自分の意志を神の意志と称するわけで、
シチリア奴隷戦争は、ローマ人に対する新デーン人の蜂起だった
BC121年 武帝即位 漢民族
vs新デーン人

匈奴は、衛青と霍去病の遠征に遭って大敗し、漠南の地(内モンゴル)が漢に奪われるなど形勢は完全に
逆転、次の烏維単于の代には漢から人質を要求されるようになった
また、漢が匈奴に代わって西域を支配すると、収入が途絶えた

BC135年 第一次シチリア奴隷戦争 新デーン人
vsブリテン系デーン人A2
アタルガティス教の青年を指導者としてローマ各地の奴隷を蜂起させた
宗教+奴隷を使った新デーン人によるローマ侵略の一環
サドカイ派を構成し、グノーシス主義などを広めた勢力がアタルガティス教組織にも関与しているだろう
BC113年 キンブリ人・テウトニ人侵入 新デーン人
vsブリテン系デーン人A2
ローマ共和国に侵攻し、野蛮人と呼ばれた
BC105年 アラウジオの惨劇 新デーン人
vsブリテン系デーン人A2
ゲルマン人連合がローマ軍を撃退
BC103年 第二次シチリア奴隷戦争 新デーン人
vsブリテン系デーン人A2
アタルガティス教の青年を指導者としてローマ各地の奴隷を蜂起させた第二弾
宗教+奴隷を使った新デーン人によるローマ侵略の一環
サドカイ派を構成し、グノーシス主義などを広めた勢力がアタルガティス教組織にも関与しているだろう
BC102年 アクェセクスティエの戦闘
ヴェルケレの戦闘
ブリテン系デーン人A2
vs新デーン人
ローマ軍、キンブリ人・テウトニ人を全滅させる、実際には、両者の残党はサドカイ派の拠点・サマリア
などに身を寄せ、のちのエフタル勢力形成を準備していたのではないか
BC87年 ポセイドニオス調査旅行 ブリテン系デーン人A3(ア)
旧デーン人B2
vsブリテン系デーン人A2
ストア派の哲学者ということで、アテネ系の諜報員だったと考えられる、彼が新デーン人の勢力圏をくまなく
調査して歩き、その成果がアテネ人によるフランク人の支配、コリント人によるゴート人支配に寄与した
折りしも、キンブリ人・テウトニ人のローマに対する脅威が解決した直後に旅行に出ているのが興味深い
BC88年 第一次ミトリダテス戦争 新デーン人
旧デーン人B2
vsブリテン系デーン人A2
アテネ人の旧植民都市、ポントス王国が蜂起、背後には新デーン人、ミトラ教のマスター、コリント人が
いると考えられる、コリント人がミトラ教の海賊を指揮し、新デーン人が、ポントス人奴隷の
スパルタクスを影で指揮した
BC85年〜
BC68年
匈奴
烏桓族討伐
新デーン人
vsブリテン系デーン人F2(天)
東胡の生き残りで、匈奴に臣従していた烏桓族が、歴代単于の墓をあばいて冒頓単于に破られた時の
報復をした、単于は激怒し、2万騎を発して烏桓を撃った、という
BC83年 第二次ミトリダテス戦争 新デーン人
旧デーン人B2
vsブリテン系デーン人A2
アテネ人の旧植民都市、ポントス王国が蜂起、背後には新デーン人、ミトラ教のマスター、コリント人が
いると考えられる、コリント人がミトラ教の海賊を指揮し、新デーン人が、ポントス人奴隷の
スパルタクスを影で指揮した
BC74年〜 第三次ミトリダテス戦争 新デーン人
旧デーン人B2
vsブリテン系デーン人A2
アテネ人の旧植民都市、ポントス王国が蜂起、背後には新デーン人、ミトラ教のマスター、コリント人が
いると考えられる、コリント人がミトラ教の海賊を指揮し、新デーン人が、ポントス人奴隷の
スパルタクスを影で指揮した
BC71年〜 スパルタクスの大乱
(第三次奴隷戦争)
新デーン人
vsブリテン系デーン人A2
あきらかにポントス王国の件にからんでいる、ドルイド教徒の奴隷、キンブリ人の残党などを合流させ
新デーン人が影から支援している
BC58年〜
BC31年
匈奴内紛
呼韓邪単于即位
ブリテン系デーン人F2(天)
vs新デーン人
呼韓邪単于は、内部を治めるため漢に入朝、称臣して漢と好を結んだ、漢はこれに大いに喜び、
後に王昭君を単于に嫁がせた、こうしてふたたび匈奴を統一した呼韓邪単于は漢との関係を崩さず、
その子たちもそれを守り、しばらく漢と匈奴の間に平和がもたらされた、という
※背後には匈奴に於ける、天孫勢力による新デーン人勢力排除を意図した謀があったかもしれない
9年 新王朝 漢民族
vs新デーン人
儒教信奉者である王莽は、夷狄蔑視に基づく政策をおこない、他国からの人質、投降者、亡命者などの
受け容れを禁止する4ヵ条を突き付けられた、呼韓邪単于以来、漢の保護下に入っていた匈奴はそれを
認めるしかなかった、という
13年 後漢王朝 漢民族
vs新デーン人
新末には、漢の残党、匈奴、天孫勢力と考えられる赤眉軍の3勢力が新撃破を画策し行動していた
46年 匈奴南北分裂 ブリテン系デーン人F2(天)
vs新デーン人
右いくけん日逐王の比は南辺八部の大人(部族長)たちに推戴され、呼韓邪単于と称して
南匈奴を建国し、匈奴から独立するとともに後漢を味方につけた
南匈奴は、北匈奴の単于庭(本拠地)を攻撃し、単于蒲奴を敗走させた、これにより単于蒲奴の
権威は失墜し、その配下の多くが南匈奴へ流れて行った、という
※この頃に既にスコーネ本国から欧州召喚の指令が来ており、それが南北分裂の原因かもしれない
68年 ユダヤ人蜂起 ブリテン系デーン人A2
vs古代デーン人C
vsブリテン系デーン人B
vs新デーン人
内心はどうあれ、本来、敵同士であるエッセネ派、パリサイ派、サドカイ派が団結してローマ帝国に蜂起した
各々、カナンの地を拠点にローマに一矢報いることを考えていただろう
83年 モン・グラピウスの戦い
(カレドニア)
ブリテン系デーン人A2
vsダーナ神族
vs古代デーン人E
ピクト人は、第三次大航海時代の古代デーン人の末裔だと考えられる、ブリトン人=エラム人=蝦夷=
ディニ族=インカ人=ピクト人の図式が可能かもしれない、顔立ちも独特の特徴が出ていただろう
ピクト人は、スコーネ・ブリテン島に帰還したが、既に数千年が経っており、新デーン人・ブリトン人が
支配する土地となっていた、そのため、新デーン人の一派であるダーナ神族の傭兵となって
スコットランド(ハイランド)に納まったのではないか、この時にはローマ帝国軍と一戦交え、タキトゥスに
記録された
93年 鮮卑登場
(天孫の中枢移転)
ブリテン系デーン人F2(天)
vs新デーン人
新デーン人が指揮する匈奴に東胡が滅亡させられて以来300年近く、天孫は影を潜めていたがここにきて
天孫が中枢を司る戦力、鮮卑が登場、のちに宿敵匈奴を撃破する
天孫の中枢は高句麗を有能な司令官、蘇我氏に一任し、みずからはモンゴル高原に出陣
騎馬民族、鮮卑を指揮し、ユーラシアの新デーン人勢力(匈奴など)や中国人と争った
98年 「ゲルマニア」
タキトゥス著
ブリテン系デーン人A3(ア)
旧デーン人B2
vsブリテン系デーン人A2
この100年ほどでアテネ系の諜報員がゲルマン人勢力圏を調査・研究し、見えない帝国、新デーン人の
存在・勢力圏を発見、新デーン人を叩くべく、また、ローマを殲滅すべく、新デーン人配下のゲルマン人諸族
に蜂起を打診、同時にローマ帝国撃破を画策、出自が明らかでないタキトゥスは明らかに諜報員だろう
1世紀〜 「グノーシス主義」 新デーン人
vsブリテン系デーン人A2
1世紀に生まれ、3〜4世紀にかけて地中海世界で勢力を持った古代の宗教・思想の1つである
物質と霊の二元論に特徴がある、普通名詞としてのグノーシスは古代ギリシア語で認識・知識を
意味する言葉であり、グノーシス主義は自己の本質と真の神についての認識に到達することを求める
思想傾向を有する、という
※人々の意志足りうるには、既存宗教勢力(頭脳)と教義(意志)を異にする必要がある、ただそれだけのこと
130年頃 「バシリデス派」 新デーン人
vsブリテン系デーン人A2
グノーシス主義牧師、アレキサンドリアに移住したことから、エジプトに勢力を築き、反ローマ勢力を
育て、ローマに対して蜂起しようとしていたのだろう
バシリデス派はアブラクサスという神を信仰していた、エジプト人に取り入るためだろう
135年 ディアスポラ ブリテン系デーン人A2
vs古代デーン人C
vsブリテン系デーン人B
vsエフタル
ユダヤ人の流浪生活が始まる、由緒ある正当なユダヤ人と考えられるエッセネ派主導の
キリスト教を使ったローマ人・サドカイ派・パリサイ派滅亡作戦は失敗したので故地を脱出
パリサイ派(ブリテン系デーン人B)、サドカイ派(エフタル)も別の拠点を探しにカナンの地を脱出
エッセネ派は原始キリスト教に化け、パリサイ派はドナトゥス派に化け、サドカイ派はエフタルに化けた
意志を失った身体だけのユダヤ人は流離い、例え、異国でもそこにユダヤ人がいれば、
そこはユダヤ人の土地だ、という、キリスト教作戦の逆説的方法を実践しようと考えていただろう
140年頃 「マルキオン派」 新デーン人
vsブリテン系デーン人A2
グノーシス主義牧師、彼は教会によって異端とされたが、その思想を支持する人々はローマで
マルキオン派という自分たちの教会を結成し、その後数世紀に渡って存続した(エジプト、メソポタミア、
アルメニアにまで広まったという
エジプトなど、ローマ辺境に勢力を築き、反ローマ勢力を育て、ローマに対して蜂起しようとしていたのだろう
140年頃 「ウァレンテス派」 新デーン人
vsブリテン系デーン人A2
グノーシス主義牧師、ローマ帝国だけでなく、エジプト、北アフリカにまで勢力圏を拡大していたという
エジプトなどローマ辺境に勢力を築き、反ローマ勢力を育て、ローマに対して蜂起しようとしていたのだろう
ウァレンテスの弟子は2つに分化、アナトリア派はエジプト、シリア、アナトリアで活躍し、イタリア派は
ローマを中心とし、ガリアにまで及んだという
2世紀〜 ゲルマン人大移動 ブリテン系デーン人A3(ア)
旧デーン人B2
ブリテン系デーン人
ブリテン系デーン人B
vsブリテン系デーン人A2
vs新デーン人
ゲルマン人がアテネ人・コリント人・ブリトン人・フェネキア人などに指揮されローマ帝国領内に侵入
ギリシア・マケドニア・ルシタニア・カルタゴなど、自分たちの拠点をローマ人に破壊された人々による
雪辱戦・報復と考えていい
新デーン人はこれに乗じ、北アジア勢力に連絡し、フン族を呼び寄せたと考えられる
155年 鮮卑
檀石槐即位
ブリテン系デーン人F2(天)
vs新デーン人
その兵馬は強盛で、南は漢の国境地帯で略奪をはたらき、北は丁零の南下を阻み、東は扶余を撃退し
西は烏孫に攻撃をかけた、その領域はかつての匈奴の版図に匹敵し、東西1万4千余里、南北7千余里
にわたって山、川、水沢、鹽池などを手中に収めた、という
156年 鮮卑
モンゴル高原統一
ブリテン系デーン人F2(天)
vs新デーン人
鮮卑が北匈奴を撃破、匈奴は以前から欧州召喚の要請を受けていたがこれがフン族征西の
直接の要因だろう
これまで、300年来、新デーン人が支配していたモンゴル高原を天孫が東アジア人の手に奪還
194年 フン族、バルフ攻略 新デーン人
vsアーリア人
新デーン人中枢同士の連絡・連携・指揮により、フン族がサドカイ派・キンブリ人・テウトニ人のために
バルフを攻略し、拠点を用意したと考えることが出来る
この後、サドカイ派が頭脳となり、キンブリ人・テウトニ人が戦闘要員となり、エフタルが形成されただろう
欧州侵攻の指令があるまでは、フ族もこの地で周辺を略奪して軍資金を蓄えながら待機していただろう
234年 「マニ教」 エフタル
vsアーリア人
新デーン人で構成されたサドカイ派はディアスポラ後、中央アジアに移転、エフタルの頭脳となる
その後、グノーシス主義を基調にしたマニ教を作り、ペルシアのテイキングオーバーを計画
ゾロアスター、シャカ、イエスを預言者として認めていた、ということで、のちに、仏教、
キリスト教、ゾロアスター教のテイキングオーバーをも画策していたフシが窺える
270年〜
310年
応神天皇即位
(鮮卑の司令官)
ブリテン系デーン人F2(鮮)
vs漢民族
応神天皇は諜報員リーダー、司令官として鮮卑を操っていたと考えられる、この後、応神天皇は
八幡大菩薩として平氏、源氏、瀬戸内海賊に軍神として崇拝されるが、その関係からも契丹などは平氏が
支配していたことがわかる、応神とはオーディンのことか?匈奴やエフタルは、有能な指揮官
だったと考えられる応神天皇を畏怖していたのかもしれない
そして、フン族・エフタルが故郷に戻り、応神天皇やその配下の話が北欧神話となった…??
北欧神話はいつが起源かわからないが、スノッリが北欧神話を著したのがヴァイキングの騒乱後だった
それ以前にオーディンのことがゲルマン人の間で語られていたかどうかは不明だし、
ということで、北欧神話=応神天皇(天孫・モンゴル高原)起源説も不可能ではない
303年 ドナトゥス派誕生 ブリテン系デーン人B
vsブリテン系デーン人A3(ア)
vs旧デーン人B2
アテネ人・コリント人に対抗するため、フェニキア人(パリサイ派)が作った組織と見られる
371年 フン族
東ゴート王国に侵攻
新デーン人(フン族)
新デーン人(エフタル)
vs旧デーン人B2
ゴート族の臣下の一部(サルマティア系ロソモン族)は王を捨ててフン族の下に投降した
打ち破られた東ゴート族はフン族により滅ぼされ、捕虜になった者は女・子供とも虐殺された
処刑の残酷さは限度を知らなかったという
383年 ローマ軍vsフン族
(パンノニア)
ブリテン系デーン人A3(ア)
ブリテン系デーン人A2
vs新デーン人(フン族)
vs新デーン人(エフタル)
ローマ軍の長、フランク人バウトはパンノニアにいたフン族、アラン族を攻撃し、ラエチア地方
に進軍するよう仕向けた、当時、ラエチアはアラマン族の部族連合に参加していた
ユトゥング族に占領されていた
389年 「マニ教」迫害 ブリテン系デーン人A3(ア)
ブリテン系デーン人A2
vsエフタル
テオドシウス大帝がマニ教信者に恥辱を加えた上で処刑
391年 聖アウグスティヌス
ヒッポの司教に
新デーン人
vsブリテン系デーン人B
マニ教を作ったエフタルの一味だったと思われる聖アウグスティヌスだが、彼は中身はエフタルのまま
キリスト教(アテネ勢力)に寝返ったフリをし、ドナトゥス派(フェニキア人)を非難
※エフタルにとってもアテネ人にとってもフェニキア人は対立勢力だった
397年 フン族
シリア・アナトリアに侵攻
新デーン人(フン族)
新デーン人(エフタル)
vsブリテン系デーン人A2
シリアとカッパドキアを徹底的に破壊尽くしたため、住民は全滅、エルサレムとテュロスは
敵を迎える準備をし、他の中東諸国は恐怖のとりこになったという
402年〜
555年
柔然
(天孫の中枢移転)
ブリテン系デーン人F2(天)
vs新デーン人
柔然の頃は、履中天皇から始まり、継体天皇の代まで大陸で司令官として騎馬民族を指揮していた
鮮卑の頃はまだ匈奴の勢力も残存し、北魏を建てた反天孫系勢力も抱えていたため、天孫系純粋化を
謀るべく、柔然を建てたと推測される
410年 エフタル
ガンダーラに侵攻
新デーン人
vs旧デーン人(サカ人)
新デーン人が陸路でユトランドから中央アジアに遠征、旧デーン人が開発したシルクロードを利用
エフタルは対イラン系・インド系アーリア人、中国人を目的としていた
415年〜
455年
エフタル
グプタ朝マガダに侵攻
新デーン人
vsブリテン系デーン人E(ラ)
ガンジス川を遡って流域に沿ってブリテン系デーン人Eが建てた王朝だろう
マガダ王国は、マウリア朝以外は代々ランカー島勢力によって統治されてきたと考えられる、当初
ランカー島のシンハラ・チョーラの2勢力が連合で支配に当たっていたが、仏教が衰退したり、逆に
仏教を保護したりした事実を見るとシンハラとチョーラの勢力が対立したり迎合したりを繰り返して
していたことがわかる、その後、新デーン人勢力であるエフタルによって滅亡した
※ランカー島のチョーラ勢力は、のちに大陸にも拠点を築きパッラヴァとしてチョーラから分化した
425年 エフタル
ササン朝ペルシアに侵攻
新デーン人
vsアーリア人
バハラーム5世により撃退される
430年 ビザンツ帝国
フン族と条約締結
新デーン人(フン族)
新デーン人(エフタル)
vsブリテン系デーン人A3(ビ)
フン族の勢力は勢いを増したため、テオドシウス2世はフン族と条約を結ばざるを得なくなる
毎年金350ポンドを渡す約束をした
431年 「ネストリウス派」破門 ブリテン系デーン人A3(ア)
vs新デーン人
ネストリウス派はエフタルが運営していたと考えられる、そのため、異端視された可能性がある
434年 フン族
ビザンツ帝国に侵攻
新デーン人(フン族)
新デーン人(エフタル)
vsブリテン系デーン人A3(ビ)
新デーン人が、東ローマ帝国から口実をつけた上で金品横領
436年 ササン朝ペルシア
フン族侵攻
新デーン人(フン族)
新デーン人(エフタル)
vsイラン系アーリア人
新デーン人の意向を受け、ペルシアに目を向けるが、フン族はペルシア軍に敗北、再び欧州に向かう
445年 アッティラが王に即位 新デーン人
新デーン人(フン族)
新デーン人(エフタル)
vsブリテン系デーン人A3(ア)
vsブリテン系デーン人A2
匈奴としてモンゴル高原で日本の天孫勢力と対立していた新デーン人(北亜系)は本家の危機を
耳にし、指揮官としてアッティラ等、騎馬民族を率い、途中でエフタルの中枢を形成していた
同胞の新デーン人(絹道系)と合流、故郷の欧州に帰還
新デーン人連合は、反旗を翻したゲルマン人たち、ローマ人を駆逐するべく、更に最高指揮系統
である新デーン人(本土系)と合流、欧州で戦闘を繰り広げる
アッチラは、中央アジアから中央ヨーロッパ、バルカン半島に跨る大帝国を建設、
だが、それは同時に新デーン人の帝国ということでもあった
450年〜 ケント王国
(ブリタニア)
新デーン人
vsブリテン系デーン人
新デーン人は配下であるジュート人を、後にカンタベリー大主教、ロチェスター大司教の本拠地となる、
カンタベリーを含むケント地方に送り込みケント王国を建設させる
ヴァイキング時代には、デーンローにノルマン人を受け入れ(後に離反する)、カンタベリー大司教、
ロチェスター大司教は新デーン人勢力としてアルフレッド大王を操った
451年 カタラウヌムの戦い 旧デーン人B2(ゴ)
ブリテン系デーン人A2
vs新デーン人
vs旧デーン人B2(ゲ)
コリント人をマスターとするゴート人とゲピード人が敵同士になり戦ったと考えられる
だが、フン族の末路を考えるとゲピード人はフン族の内部に配置されたスパイ部隊だったかもしれない
或いは、コリント人勢力でありながら、ゴート人とゲピード人の間の利害に異が生じ2勢力に分化していた、
いずれにしてもフン族はこの戦いで敗戦、弱体化した
453年 アッティラ暗殺 ブリテン系デーン人
vs新デーン人
vs新デーン人(フン族)
vs新デーン人(エフタル)
西ローマ帝国、ゲルマン人連合に敗北したアッティラは、制裁として新デーン人の
刺客に暗殺される、或いはブリトン人が新デーン人の目を盗み、死んだことにして
アッチラを拉致、豪傑を迎えることでブリテン系デーン人勢力圏の保護を任せたのではないか
それがアーサー王の伝説のネタのモトになったのではないか、どっちにしても
フランス語読みのアルチュールはアッチラに似ていなくもない
454年 ネダオ川の戦い 旧デーン人B2(ゲ)
vs新デーン人
コリント人をマスターとするゲピード族が同盟してきたフン族に反旗を翻し、殲滅させたという
こののち、フン族は新規・新デーン人勢力のエフタル、ブルガリア人、ペチェネグ人の戦闘要員として
振り分けられ、更にのちには、聖ヨハネ騎士団(アテネ系)・テンプル騎士団(新デーン人系)の
構成要員になったと考えられる
400年代 ササン朝ペルシア
ホラサン占領
イラン系アーリア人
vs別種アーリア人
400年代 「アッシリア東方教会」 新デーン人
vsアーリア人
ササン朝ペルシアに支配されていた頃のイラクに拠点を置いた
6世紀 アルバ王国 ダーナ神族
古代デーン人E
vsブリテン系デーン人
vsルシタニア分家
この頃、アイルランドから来たダルリアダン・スコット人(ゲール人・ルシタニア人)と戦闘を繰り返したという
ルシタニア人は自分の意志、或いはブリトン人と提携していたと考えられる
6世紀 ランゴバルド人
パンノニアに入植
新デーン人
ブリテン系デーン人A3(ビ)
vs旧デーン人B2
ビザンツ皇帝は、イタリアを支配するゴート人等への対策のため、ランゴバルド人の定住を許可し、
帝国の傭兵とする、ランゴバルド人は1世紀頃、パンノニアに到来
後に、同じ新デーン人勢力であるフン族がパンノニアを拠点とすることに関連はあるだろうか??
508年 エフタル
高車に侵攻
新デーン人
vsブリテン系デーン人F2(中)
ブリテン系デーン人の直系、天孫の系統である中臣氏勢力が、黒竜江の付近(粛慎)と共に
北アジアの奥地、トルコ系民族を統率していたのではないかと考えられる
これで高車が天孫系の鮮卑と対立していた理由がわかる、その後の本土での動きが大陸に於いても
反映されていた、藤原氏の繁栄が暗示されていたと言うことだ、のちに中臣氏の中枢は祖を
同じくするビザンツ勢力にトルコ民族を貸与、突厥帝国として中央アジア、北アジアを制覇することになる
516年 柔然
高車王を殺害
ブリテン系デーン人F2(柔)
vsブリテン系デーン人F2(中)
vs新デーン人
天孫の一派である柔然が高車の背後に隠れた中臣氏勢力を襲撃、高車王が殺害され、高車の人々は
エフタルに逃亡したという
510年〜
520年代
エフタル王
仏教を弾圧
新デーン人
vs旧デーン人(サカ人)
新デーン人であるエフタルは旧デーン人勢力である仏教を弾圧
北インド・ガンダーラを治めていたミヒラクラが仏教を弾圧し、13世紀にはインドから消えたという
520年 北魏の官氏
エフタル王に謁見
ブリテン系デーン人F2(吉)
新デーン人
vsブリテン系デーン人F2(柔)
天孫の一派、鮮卑が建てた北魏(吉備氏)は柔然と同じブリテン系デーン人F2(天孫)勢力だが
北魏は柔然と対立していたため、中央アジア系の新デーン人勢力であるエフタルに同盟を打診
柔然と相対する姿勢を明確にした
523年 柔然
エフタルに接近
ブリテン系デーン人F2(柔)
新デーン人
vsブリテン系デーン人F2(吉)
柔然王は北魏に謀反を起こし、自分の姉をエフタルに嫁がせようと画策したが、北魏の軍に邪魔された
533年 マールワー王
エフタル王を撃破
ブリテン系デーン人E(チェ)
旧デーン人(サカ人)
vs新デーン人
インドの王がエフタルを破る
543年 聖コルンバ布教
(アイルランド)
ブリテン系デーン人
ダーナ神族
vs新デーン人
新デーン人(本土系)がドルイド教に見切りを付けたのを見て、更にフランク人がキリスト教を
使うのを見ていたいルシタニア分家は彼らに倣い、ある意味懸念を抱き、本格的に自分達も、と
我流のキリスト教教会を設立、ブリトン人が援助したと考えられる
552年 突厥帝国建つ ブリテン系デーン人A3(ビ)
ブリテン系デーン人F2(藤)
ブリテン系デーン人F2(中)
vs新デーン人
vs漢民族
ビザンツ勢力は、新デーン人がユーラシアを支配し、匈奴をフン族として欧州に派遣したことに
危惧し、ユーラシア・シルクロード地域を支配していた新デーン人勢力(匈奴)に対抗するために、また
柔然時代、柔然の支配下にあった反体制勢力(中臣氏・ビザンツ)はトルコ人を配下に置き、柔然に蜂起させ
突厥帝国の基が出来上がったと考えられる
558年 エフタル滅亡 イラン系アーリア人
ブリテン系デーン人A3(ビ)
ブリテン系デーン人F2(藤)
vs新デーン人
ササン朝ペルシアと突厥帝国が挟み撃ち、新デーン人の中央アジア勢力、エフタルを滅ぼした
エフタルの中枢は後にブルガリアに逃亡、ブルガリア帝国を建てて、新デーン人の東欧勢力とする
また、一部はペチェネグ人を指揮、新規・新デーン人勢力として重用
ブルガリア帝国・ペチェネグ人・ボゴミリ派・カタリ派・マニ教が滅亡して以後、エフタルの中枢は
ドイツ・イベリア半島に移転、一方はドイツ騎士団、一方はベルベル人を操り、アルモハード帝国を築く
ドイツ騎士団は北欧にドイツ騎士団領を設け、エフタル旧支配地域からエフタルの後裔を呼び寄せ
ドイツ人として北欧各地に入植、ドイツ人の祖となる、つまり、ナチス・ドイツの
ゲルマン人アーリア人起源説は一時期中央アジアを支配していたエフタルの存在が基盤となっている
ドイツ騎士団が滅亡してからは、ルター派を作った仲間と合流、ロシアに移民を行ったりし、ロシアの
サラトフにヴォルガ・ドイツ人のコミュニティが発生した、古巣の旧エフタル支配地域は、カスピ海を隔てて
目と鼻の先だ
エフタルは興味深い、彼らはスコーネを出て中央アジアに拠点を築き、そこからインド・ペルシアに攻撃を
しかけ、中央アジアの拠点を喪失してからは、北アフリカ・イベリア半島支配を経、欧州に戻ってきたのだから
500年代 聖コルンバヌス伝道
(ヨーロッパ)
ブリテン系デーン人
ダーナ神族
vs新デーン人
ブリトン人と結託したダーナ神族勢力であるコルンバヌスが西ヨーロッパ(フランク王国、西ゴート王国、
ランゴバルト王国)に赴き、自身の勢力圏拡大を謀る
563年 アイオナ修道院建立
(カレドニア)
ブリテン系デーン人
ダーナ神族
vs新デーン人
新デーン人は、このブリトン人+ダーナ神族連合の動き、自分達のブリテン島での拠点(ケント王国)
を奪われたことを危惧し、同胞のダーナ神族征伐のためにノルマン人(ヴァイキング)を出陣させることになる
568年〜
774年
ランゴバルド王国建つ 新デーン人
vsブリテン系デーン人A3(ア)
597年 ケント王国
アウグスティヌス布教
新デーン人
vsブリテン系デーン人
カルタゴ(当時はランゴバルト王国)で活動していたアウグスティヌス(新デーン人勢力)を呼んだと思われる
635年 唐王朝
景教伝来
新デーン人
vsブリテン系デーン人F2(天)
阿羅本は「鎮国大法主」に封ぜられ、各地に景寺(教会)を建てるよう、詔勅が下された
ネストリウス派キリスト教は唐王朝に広まることになった
635年 リンディスファーン修道院建立
(ノーサンブリア王国)
ブリテン系デーン人
ダーナ神族
vs新デーン人
古来からのブリテン島の主、ブリテン系デーン人+アングル人がダーナ神族と結ぼうとしているため、
危機感を感じた新デーン人は、ノルマン人に侵攻を要請、ノルマン人はヴァイキングとして襲来
先ず最初にリンディスファーン寺院を襲撃させた、つまり海賊のきまぐれなどではなく、意図していた
635年 ブルガール国
突厥帝国から独立
エフタル
vsブリテン系デーン人A3(ビ)
vsブリテン系デーン人F2(藤)
エフタルの中枢が突厥の反体制勢力であるブルガリア人に接触、裏切りを打診、蜂起させたと思われる
640年代頃 ハザール帝国分離 ブリテン系デーン人A3(ビ)
ブリテン系デーン人F2(藤)
vsブリテン系デーン人F2(中)
中臣氏が中枢を成すハザールが、突厥を支配する藤原氏・ビザンツ勢力と袂を分かち、独自の勢力を作った
のちにハザール人は東欧アシュケナージとなる
※アシュケナージの祖には、中臣氏(ハザール)と新デーン人(エフタル)の2派がいるのではないか
681年 第一次ブルガリア帝国 エフタル
vsブリテン系デーン人A3
ビザンツと講和を結んでこの地域の支配権を認められ、第一次ブルガリア帝国を建国する
694年 ケント王国
ウェセックス王国が侵攻
ブリテン系デーン人
サクソン人
vs新デーン人
vsジュート人
当時のサクソン人はまだブリトン人勢力だった、マスターであるブリトン人は
新デーン人のキリスト教拠点であるジュート人の国、ケント王国を破壊しようと画策
697年 ランゴバルト王国
ヴェネツィア初代ドージェ選立
新デーン人
vsブリテン系デーン人A3(ビ)
vs旧デーン人
ヴェネツィアはダルダニア人がビザンツ人の協力の下、建てたと考えられるが
当時は新デーン人勢力であるランゴバルト人が影響力を持っていただろう
8世紀 アングル人対サクソン人 ブリテン系デーン人
vs新デーン人
アングル人・サクソン人はブリトン人のますたーだったが、サクソン人がキリスト教徒になり、新デーン人勢力
となったため、ブリトン人は残ったアングル人を、新デーン人勢力であるサクソン人と対決させた
基本的にはアングル人・ブリトン人vsキリスト教徒サクソン人・新デーン人という構図が認められていた
710年 ウェセックス王国
コーンウォールの戦闘
新デーン人
vsブリテン系デーン人
この当時のサクソン人は、キリスト教徒(新デーン人勢力)となっており、マスターである新デーン人が
サクソン人を使い、ウェールス(ブリトン人勢力)に侵攻、勝利する
744年 ウイグル可汗国
(ビザンツの中枢移転)
ブリテン系デーン人A3(ビ)
vsブリテン系デーン人F2(藤)
西(ビザンツ)と東(藤原氏)に分かれた突厥が崩壊、ビザンツ勢力が藤原氏を廃し、ウイグル人を支配
エフタルの残党(精神面・マニ教)、ソグド人(経済面)を召喚し、共同でウイグル汗国の中枢を成した
ウイグルを訪れたマニ教のソグド人は、エフタル(サドカイ派の末裔)だっただろう
744年 ランゴバルト王国
フランク王国が侵攻
ブリテン系デーン人A3(ア)
vs新デーン人
マスターであるアテネ人の指令によりフランク人がランゴバルドの首都、パヴィアを占領
※ランゴバルト人のマスターは新デーン人
762年 ウイグル可汗国
「マニ教」国教化
新デーン人
vsブリテン系デーン人A3
牟羽可汗が唐へ侵攻した際に、マニ教を受け入れたということが、後の第8代保義可汗が建てた
『カラ・バルガスン碑文』に書かれている、という
新デーン人がマニ教をウイグル人の頭脳とし、中国侵攻の戦力として起用を画策したのだろう
778年 ウイグル可汗国
頓莫賀達干の政変
ブリテン系デーン人A3
vs新デーン人
新デーン人はマニ教を使ってウイグルの支配を画策していたが、ビザンツの中枢がその阻止を試みた
789年 ヴァイキング侵攻
(ブリテン島)
新デーン人
ノルマン人
vsブリテン系デーン人
vsダーナ神族
ノルマン人は同士である新デーン人の要請に応え、ヴァイキングとしてブリテン島に侵攻
同士であるはずのダーナ神族が、聖コルンバを使いアイオナ修道院を建てたり、
アングル人(ブリトン人)と結んでリンディスファーン修道院を建てて、独自の動きを見せたため襲来
830年頃 ペチェネグ人
レベディアに居住
エフタル
vsブリテン系デーン人A3
vs旧デーン人B2
エフタルの中枢がペチェネグ人を指揮、ヴォルガ川下流域からドナウ川河口までの広大な
草原地帯を占めることとなり、キエフ大公国、ブルガリア(芝居)、マジャールにとって大きな脅威となった
840年 ウイグル可汗国滅亡
(マジャール人発生)
新デーン人
vsブリテン系デーン人A3(マ)
新デーン人の介入によりウイグルが内部から崩壊したのではないか、ブリテン系デーン人A3を擁する中枢は
各地に離散し、亡命政権を建てたり、一部はマジャール人としてハンガリーに侵攻
843年 ケネス1世
スコットランド統一
ダーナ神族
古代デーン人E
vsブリテン系デーン人
vsルシタニア分家
ブリトン人配下のダルリアダ王国を支配下に置き、スコットランドを統一した
その後も、代々の王座にはピクト人が就いた
845年 唐王朝
会昌の廃仏
ブリテン系デーン人F1(雲)
vsブリテン系デーン人F2(天)
vs新デーン人
vs漢民族
武宗は、道教を保護する一方で教団が肥大化していた仏教や、景教、マニ教、拝火教などの外来宗教に
対する弾圧を行なう、寺院4600ヶ所余り、招提・蘭若40000ヶ所余りが廃止され、
還俗させられた僧尼は260500人、没収寺田は数千万頃、寺の奴婢を民に編入した数が十五万人という
896年 マジャール人が
パンノニアに侵入
新デーン人
vsブリテン系デーン人A3(マ)
vsブリテン系デーン人A3(ビ)
第一次ブルガリア帝国のシメオン1世は南のビザンツと敵対し、それと組んでいる
北のマジャルとも敵対していた、そこでシメオン1世はマジャルの東に位置するペチェネグと同盟を組んで
マジャルの脅威に対処した、ブルガリアの要請を受けたペチェネグはマジャルを攻撃し、
マジャルを南ルーシからパンオニア平原にまで追い出した
結果、ウイグルの中枢を成していた人々がウイグル人を従え、パンノニアに侵入、ハンガリーの基礎を築く
1000年代 ラージプート 新デーン人 5〜6世紀頃、中央アジアから繰り返し侵入してきた、新デーン人(絹道系)の中央アジア勢力、エフタル
(中国名白匈奴)などの外来の諸民族が、在地の旧支配層と融合し、徐々にヒンドゥー教の教義を信奉しつつ
その社会体制に組み込まれたものではないかという



























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