ブリテン系デーン人F2の帝国A T 

隋・唐・平安京・柔然・渤海・契丹・西夏・高麗・金王朝







◆古代デーン人◆



第一次大航海時代(北極海ルート)

バルト海・ジーラント・スカンジナビア半島東岸(古代デーン人Z1/旧デーン人の先祖)
スカンジナビア半島西岸北岸・古代フィンランド・古代ロシア地方(古代デーン人Z2)=サーミ人、フィン人、スラブ人
中央アジア・シベリア(古代デーン人Z3)=アンドロノヴォ文化、エヴェンキ族、ブリヤート族、モヨロ人


第二次大航海時代(大西洋ルート)

ブリテン島・アイルランド島(古代デーン人Y1/海の民の先祖)
古代フリース地方(古代デーン人Y2a)
古代バスク地方(古代デーン人Y2b)
古代ルシタニア地方(古代デーン人Y2c)
カナリア諸島(古代デーン人Y3)


第三次大航海時代(大西洋・地中海・紅海・ペルシア湾・インド洋・太平洋ルート)

エーゲ海(古代デーン人Aグループ)=地中海・サルディーニャ島・クレタ文明・ヌビア地方・バンツー族
エジプト(古代デーン人Bグループ/地中海ルート)=サハラ帝国・エジプト王朝・テーベ神官国家
アフリカ(古代デーン人Bグループ/アフリカ就航・紅海ルート)=紅海・プント王国・エチオピア帝国・アラビア半島・ベドウィン族
メソポタミア/シュメール人・ヘブライ人(古代デーン人Cグループ/紅海ルート)=ペルシア湾・ウバイド人
インド・東南アジア(古代デーン人Dグループ)=カッチ・ハラッパー・マレー半島・セレベス島
東アジア(古代デーン人Eグループ)=日本東北地方・出雲系:古代出雲、百済、任那日本府・沖縄・朝鮮半島
南北アメリカ(古代デーン人Fグループ)=南北アメリカ大陸


古代デーン人A(サルディーニャ人、シチリア人、クレタ人、ロードス島、キプロス島、キクラデス諸島、ヌビア人)
古代デーン人B(B1/エジプト王朝、テーベ、B2/ベドウィン・プント王国・エチオピア帝国)
古代デーン人C1(シュメール神官団A/ヘブライ人)=(ユダ王国/C1a、イスラエル王国/C1b、ヒッタイト帝国)
古代デーン人C2(シュメール神官団B)=(カッシート人/C2a、アッシリア帝国/C2b)
古代デーン人D(ダーサ人、パニ人、カッチ人、チャンダーラ、デミアル人、ワナ人、タアネ神/ポリネシア人)
古代デーン人E(東北・北海道縄文人、蝦夷・アイヌの先祖)
古代デーン人F(ディネ族/ナバホ族・アパッチ族、イサパ文明、アパラチー族他)


※古代デーン人はピクト人として故国に帰還、新デーン人と対立し、敗北、配下となる





◆旧デーン人◆



・旧デーン人Aグループ・

メソポタミア侵攻第一波(旧デーン人A1/アッカド人)
第二波(旧デーン人A1/アムル人「バビロニア帝国」、フルリ人「ミタンニ王国」)

シルクロード侵攻第一波(バクトリア・マルギアナ文明、大月氏/旧デーン人A2)

ギリシア侵攻第一波(イオニア人/ケルト人、アケーア人/旧デーン人A3)
第二波(テッサリア人、エオリア人/ケルト人)

エジプト侵攻第一波(ヒクソス人/旧デーン人A4)


・旧デーン人Bグループ・

ギリシア侵攻第三波(ドーリス人/旧デーン人B)

ドーリス人の第一後裔、スパルタ人(旧デーン人B1)
ドーリス人の第二後裔、コリントス人(旧デーン人B2)

シルクロード侵攻第二波(キンメリア人、スキタイ人、サカ人/旧デーン人B3)



・アケーア系デーン人(Aグループ)勢力圏=(テーベ市、アルゴス市/ギリシア、サムニテ王国、カンパニア王国/イタリア南部)


・スパルタ系デーン人(B1)勢力圏=(スパルタ市、クレタ島、ロードス島、リビア、サイス朝エジプト王国)


*コリントス系デーン人(B2)の派閥*

コリントス市・シュラクサ(旧デーン人B2a)
アンチゴノス朝マケドニア(旧デーン人B2b)
セレウコス朝シリア(旧デーン人B2c)
プトレマイオス朝エジプト(旧デーン人B2d)
マウリア朝マガダ(旧デーン人B2e)

※コリントス人中枢移転先(アルメニア王国、キエフ公国、ロシア帝国)





◆ブリテン系デーン人(旧デーン人)◆



ギリシア(ブリテン系デーン人Aグループ)
シリア・メソポタミア(ブリテン系デーン人Bグループ)
エジプト(ブリテン系デーン人Cグループ)
アフリカ(ブリテン系デーン人Dグループ)
インド・東南アジア(ブリテン系デーン人Eグループ)
東アジア(ブリテン系デーン人Fグループ)
大西洋岸南北アメリカ(ブリテン系デーン人Gグループ)


ブリテン系デーン人A=(A1/エトルリア人、A2/ローマ帝国、A3/アテネ市、ビザンツ帝国、突厥帝国、ヴェネツィア共和国、ハザール帝国)

※古代アテネ人勢力圏(キリキア、マッシリア、コルシカ島、サルディーニャ北部、シチリア東部、ポントス王国、ボスポロス王国)
※西ローマ帝国の中枢移転先(モラヴィア王国、ノヴゴロド公国、ポーランド王国、ハプスブルグ家)
※ビザンツ帝国の中枢移転先(突厥帝国、ハザール帝国、ウイグル汗国、ハンガリー王国、ヴェネツィア共和国、モスクワ公国)
※ハザール帝国の中枢移転先(リトアニア公国、アシュケナージ)

ブリテン系デーン人B=(B1/フェニキア人・ペリシテ人・ダン族、B2/新アラム人、B3/新ヒッタイト人)
ブリテン系デーン人C=(C1/エジプト王朝、C2/テーベ・アメン神官団)
ブリテン系デーン人D=(西アフリカ、ヨルバ人、マダガスカル島)
ブリテン系デーン人E=(セイロン島、インド南部)

ブリテン系デーン人F1=(長江系/ミャオ族、楚、太平道、黄巾族、大理国、白蓮教、広東系/華僑、九州系/邪馬台国、新羅、倭寇)

ブリテン系デーン人F2=大和を本拠地に北アジア(粛慎)、モンゴル高原(東胡)、朝鮮半島(扶余)、中国南部(呉越)に拠点が築かれた

呉越系(広東):呉、越、南越(ベトナム)、南詔国
東胡系(皇族):鮮卑、柔然、北魏(吉備氏)、大和朝廷(中大兄皇子、中臣氏)
粛慎系(藤原氏):渤海、西夏、女真族、金王朝、清王朝
契丹系(平氏):契丹、モンゴル帝国、タタール
扶余系(蘇我氏):高句麗、大和朝廷(蘇我氏、聖徳太子)、高麗、李氏朝鮮


ブリテン系デーン人G=(オルメカ人/ユカタン半島)








古代デーン人

東北と長江に拠点があった、か
まず東北系が出雲を制し、次に長江系が出雲を制した
八岐大蛇(東北系)・8人の諜報員の精鋭が神官を司り人民を支配していた、か
須佐王命(長江系)・大国主神
猿田彦命

ブリテン系デーン人(海の民の直系・天孫族)

饒速日命・物部氏

邇邇芸命・神武天皇
天児屋命・中臣氏(藤原氏)
天太玉命・忌部氏(九州・紀伊半島・四国・房総半島)
天忍日命・大伴氏
天久米命・久米氏

ブリテン系デーン人F2(天孫族の後裔)

吉備津彦命(考霊天皇第三皇子)・吉備氏(岡山・出雲・紀伊・近江・大和)
大彦命(考元天皇第一皇子)・安倍氏
彦太忍信命(考元天皇皇子)・蘇我氏
日本武尊(景行天皇皇子)・応神天皇

桓武天皇・平氏
清和天皇・源氏

















年代


できごと 勢力 内実
531年 安閑天皇即位 ブリテン系デーン人F2(大)
vsブリテン系デーン人F2(蘇)
鮮卑は天孫が中枢を担っていたが、柔然は大伴氏が中枢を成し、天孫の支配勢力は柔然以降は
無力化していたかもしれない、これに対し、中臣氏・物部氏はトルコ人を支配、突厥帝国をビザンツ人と
共に組織、突厥に敗れた柔然は大伴氏と蘇我氏に分化、それぞれが支持する天皇を推した
蘇我氏は、高句麗・アヴァールの中枢として機能していただろう(聖徳太子=蘇我氏配下)
534年〜
550年
東魏 ブリテン系デーン人F2(吉)
vsブリテン系デーン人F2(天)
鮮卑の高歓が東魏の背後に控え、考静帝を立てた
もともと魏は天孫の後裔でありながら反天孫勢力だった吉備氏の大陸勢力だった、と考えられる
535年〜
556年
西魏 新デーン人
vs漢民族
新デーン人勢力(匈奴の後裔)が、反吉備氏勢力に蜂起を打診、北魏を分裂させ、
中国北部に独自の勢力を建てた
535年 宣化天皇即位 ブリテン系デーン人F2(大)
vsブリテン系デーン人F2(蘇)
柔然の内部で力を付けた蘇我氏と大伴氏が対立していた
539年 欽明天皇即位 ブリテン系デーン人F2(蘇)
vsブリテン系デーン人F2(大)
蘇我氏が大伴氏を上回る、この当時はまだモンゴル高原が舞台だったのではないか
550年〜
577年
北斉 ブリテン系デーン人F2(吉)
vsブリテン系デーン人F2(天)
国祖の高歓は鮮卑であり、天孫系の後裔吉備氏勢力だった、北周・突厥と対立していたが北周は新デーン人
突厥はもともと高車時代から中臣氏勢力であり、反天孫として同盟を組んだビザンツ系に貸与
552年
(欽明)
柔然
突厥帝国に敗北、滅亡
(天孫の中枢、本土帰還)
ブリテン系デーン人A3(ビ)
ブリテン系デーン人F2(中)
ブリテン系デーン人F2(物)
vsブリテン系デーン人F2(大)
vsブリテン系デーン人F2(蘇)
突厥は、同胞のブリテン系デーン人A3(ビザンツ系)に支配されていたが、天孫勢力に反発する
中臣氏・物部氏系勢力はA3勢力と結び、高車(トルコ系)を貸与、A3勢力と中臣氏・物部氏勢力が大陸の
天孫中枢(大伴氏・蘇我氏)を撃破、敗北した柔然勢力は、モンゴル高原で漢民族や新デーン人と戦ってきた
が、一部を残し本国に帰還、本格的に日本を支配することを考え、このとき、好調だった柔然の諜報員、
蘇我氏が欽明天皇を伴って来日、大伴氏は安閑天皇・宣化天皇を伴って来日、対立した
大陸に残った一派はアヴァール人となって欧州にまで赴いた、その時の陰陽師(諜報員)が日本に戻り
聖徳太子となった、のではないか
552年 突厥帝国建つ ブリテン系デーン人A3(ビ)
ブリテン系デーン人F2(中)
ブリテン系デーン人F2(物)
vsブリテン系デーン人F2(大)
vsブリテン系デーン人F2(蘇)
ビザンツは、フン族の脅威を研究するために中央・東アジアに調査員を派遣していたが、そこでトルコ人を
代々支配する中臣・物部氏に遭遇、祖を同じくする者として同盟関係になり、共同でモンゴル高原・
シルクロードを支配・管理することになった
556年〜
581年
北周 新デーン人
vs漢民族
北周を建てた宇文氏はもともと匈奴系で鮮卑族に帰化したことから、北周は新デーン人勢力といえる
561年 アヴァール人
ドナウ川下流に到達
ブリテン系デーン人F2(蘇) 西進しつつ周辺のウティグル、クトリグル、サビルなどの諸族、およびベッサラビアのアントを服属させた、さらに
アヴァールはドナウ川を渡り、ドブルジャに定住したいとビザンツ帝国に要求したが、無視されてしまう
(それも当然だろう、ビザンツは反天孫の中臣氏・物部氏と組んで突厥帝国の中枢を成していたからだ)
562年 アヴァール人
チューリンゲンの会戦
ブリテン系デーン人F2(蘇)
vs
一方でアヴァールはフランク人のメロヴィングj朝とも接触しており、アウストラシア王ジギベルト1世
との戦い(チューリンゲンの会戦)で敗北したが、中部ヨーロッパで着々と地盤を築いていった
567年 アヴァール人
ハンガリー全域支配
ブリテン系デーン人F2(蘇)
vs
アヴァールは新デーン人をマスターとするランゴバルド人と組み、ダキア・トランシルヴァニア・東パンノニアに
割拠していたゲピタエ人を滅ぼし、その地を奪った、翌年、ランゴバルドがイタリア半島に向かうと、
アヴァールはそれに代わってハンガリー盆地全域を支配した、という
580年 アヴァール人
トラキア・ギリシアに侵入
ブリテン系デーン人F2(蘇)
vsブリテン系デーン人A3(ビ)
ビザンツは、スラヴ人の帝国侵入を食い止めようとしてアヴァール人にその旨依頼したが逆にアヴァールは
スラヴ人と共にトラキア・イリリア・ギリシアに侵入、略奪を繰り返したという
581年〜
618年
隋王朝 ブリテン系デーン人F2(蘇)
vs漢民族
隋を建てた楊堅は柔然の後裔だというが、アヴァール人(蘇我氏)かもしれないだろう
隋・高句麗・聖徳太子はアヴァール人と呼ばれた蘇我氏の支配下にあった??
593年
(推古)
聖徳太子、摂生に
(アヴァール勢力)
ブリテン系デーン人F2(蘇)
vsブリテン系デーン人F2(大)
聖徳太子は侵略者だった… 彼は分裂した柔然を構成していた諜報員の末裔であり、アヴァール人として
欧州に接触してキリストを知り、キリスト教ではなく、キリスト個人を気に入り、自分に準えていたのだろう
その関係で、聖徳太子一行が日本に侵入した折、周囲のスタッフに厩戸皇子と呼ばれていたのではないか
聖徳太子が仏教に肩入れした要因は旧勢力の神道勢力駆逐が目的だっただろう
ある意味、古代日本に於ける宗教革命だ、奈良仏教は中臣・物部・大伴氏勢力に反逆した蘇我氏などの
反体制連合勢力だった
598年〜
614年
麗隋戦争 ブリテン系デーン人F2(大)
vsブリテン系デーン人F2(蘇)
アヴァール人(蘇我氏)勢力同士の対立
618年〜
唐王朝 ブリテン系デーン人F2(天)
vs漢民族
唐を興した李淵は漢化した鮮卑族ということで、中枢はブリテン系デーン人F2の天孫系だったのではないか
623年 アヴァール人
コンスタンチノープル攻撃
ブリテン系デーン人F2(蘇)
アーリア人
vsブリテン系デーン人A3(ビ)
アヴァールとスラヴ、サーサーン朝の軍勢がコンスタンティノープルを海と陸から攻撃、しかし、
東ローマ帝国軍の防御は固く、陥落を免れた
625年 高句麗の僧、慧灌
「三論宗」
ブリテン系デーン人F2(蘇)
vsブリテン系デーン人F2(大)
vsブリテン系デーン人F2(物)
vsブリテン系デーン人F2(中)
天孫が、物部・大伴・中臣氏と蘇我氏に分化して時が経ったが、力をつけた蘇我氏が本国日本を
支配下に置くことを画策、それが蘇我氏と仏教の日本での台頭だったのではないか
627年 百済
新羅に侵攻
ブリテン系デーン人F2(扶)
vsブリテン系デーン人F1(倭)
vsブリテン系デーン人F2(天)
任那と百済を支配していた蒙古天孫勢力が、倭寇勢力の新羅に侵攻、新羅が唐に救援を要請、
百済と任那は唐(中原天孫)に破れ、滅ぶことになる
644年〜
668年
麗唐戦争 ブリテン系デーン人F2(天)
vsブリテン系デーン人F2(蘇)
正統な天孫勢力(鮮卑)は中原(唐)に生き残ったのか
645年
(考徳)
大化の改新、蘇我氏滅亡
(宗教革命)
ブリテン系デーン人F2(中)
ブリテン系デーン人F2(物)
ブリテン系デーン人F2(天)
vsブリテン系デーン人F2(蘇)
百済で高官をしていた高句麗出自の蘇我氏は、もともと天孫の末裔だが、突厥に敗北後、彼らはアヴァール人
として東欧を、そして高句麗として朝鮮半島を支配していたため、ある種、日本に於いては侵略者だった
その蘇我氏が日本で力を持ち始めたので暗殺されたのだろう、対立勢力は大陸でトルコ人を指揮していた
物部・中臣氏連合である、中臣氏率いるトルコ人は柔然(蘇我氏・大伴氏)と敵対していた、それが日本に
於いても反映されていたということだろう、のちに中臣氏が藤原氏として日本で台頭をはじめる
蘇我氏の中枢は一部を残して朝鮮半島に帰還したが、反天孫勢力として仏教寺院の背後で勢力を温存した
と考えられる、蘇我氏との対立、それが平安京遷都・最澄の天台宗成立につながっていた
660年 「法相宗」
(道昭・行基/天孫派)
ブリテン系デーン人F2(出) 行基は出雲系であり、当初は反皇族派の態度を取り、弾圧も受けたが、のちに大仏建立に協力
聖武天皇に守られていたのか、勅令により各地に寺院を建設、生口島にも建てた
663年 白村江の戦闘 ブリテン系デーン人F2(天)
vsブリテン系デーン人F1(倭)
vsブリテン系デーン人F2(扶)
松浦半島の倭寇が百済に加勢したが撃破された
668年 高句麗滅亡 ブリテン系デーン人F2(天)
ブリテン系デーン人F1(倭)
vsブリテン系デーン人F2(蘇)
新羅を支配していた倭寇勢力が唐(天孫・鮮卑勢力)と組み、高句麗(蘇我氏勢力)を滅ぼした
670年〜
676年
羅唐戦争 ブリテン系デーン人F1(倭)
vsブリテン系デーン人F2(天)
旧百済領をめぐって唐と新羅が対立、羅唐戦争が起きる、のちに新羅が唐を半島から駆逐
旧高句麗領の南半分と合わせて朝鮮半島をほぼ統一することに成功した
698年
(文武)
渤海国建つ
(藤原氏の大陸拠点)
ブリテン系デーン人F2(藤) 現満州があった地域は古来から天孫の領土だったが、本国での藤原氏台頭に呼応し、天孫勢力が排除され
藤原氏に取って代わった、渤海は藤原氏の血統が建て、モンゴル軍台頭、満州、清王朝建国まで続く
699年
(文武)
役小角、流刑 ブリテン系デーン人F2(物)
vs修験道(諜報員育成機関)
役小角は修験道の祖として、諜報員を目指す貴族階級、神官階級の子弟を集め、日本の各地霊峰にて
厳しい修行を課し、主に大陸に於ける騎馬民族の指揮官として従事するための精鋭を育成した
当時、渤海を建てた諜報員の精鋭たちもみな役小角の教え子だろう
数々の諜報員を育てた役小角の力に危惧を覚えた勢力が彼を伊豆に流刑したという
その勢力とは、物部氏だったかもしれない、彼を密告した弟子が韓国連(物部氏)であるから
702年 新羅、聖徳王
(倭寇勢力)
ブリテン系デーン人F1(倭)
古代デーン人E(熊・隼)
倭寇勢力が朝鮮人の王を立てた、この後、朝鮮半島では200年間、比較的穏やかな時代が続く
720年 隼人の反乱 ブリテン系デーン人F1(倭)
古代デーン人E(熊・隼)
vsブリテン系デーン人F2(天)
新羅が半島を統一し、朝鮮半島で九州勢力が攻勢なのを受けて、彼らは九州本土・日本本土でも勢力を
拡大しようと画策した可能性がある、が、反乱は失敗した
732年
(聖武)
渤海国、唐と紛争 ブリテン系デーン人F2(藤)
vsブリテン系デーン人F2(天)
藤原氏が配下(陰陽師大陸部隊)を駆使し、早速唐(正統天孫勢力)に侵攻
740年 「華厳宗」
(良弁・審祥/反天孫派)
ブリテン系デーン人F1(倭) 審祥は新羅に留学していたという、ということで華厳宗は倭寇勢力の宗教と言える
審祥は中央に進出、奈良大安寺に拠点を構えたという、もちろん、目的は宗教で中央を制することだ
しかし、日蓮同様、出自については不詳だという点が、いかにも倭寇勢力っぽい
753年 「律宗」
(鑑真/天孫派)
ブリテン系デーン人F2(呉) 鑑真は、日本勢力下にあった広東地方(現・江蘇省)から来日
彼は呉越の諜報員だったのだろう、同胞の地、日本でも勢力圏を得ようとしたのか
759年
(淳仁)
日本
新羅討伐の議
ブリテン系デーン人F2(天)
ブリテン系デーン人F2(藤)
vsブリテン系デーン人F1(倭)
九州を拠点にする倭寇(長江系)勢力が朝鮮半島に進出してきたため、藤原氏は対策を講じた
その対策は、いかにもデーン人の血統らしく、貧民・貴族の反乱という形で現れる
768年
(称徳)
新羅
貴族の反乱の初め
ブリテン系デーン人F2(天)
ブリテン系デーン人F2(藤)
vsブリテン系デーン人F1(倭)
「日本、新羅討伐の議」とはこのことであったか?だとすればデーン人のやり方は立派に継承されている
この後も、定期的に王を自称する貴族の反乱が起きている
藤原氏の意を受けた陰陽師の大陸部隊などが新羅に潜入し、宗教を利用して貴族を指揮、蜂起させただろう
791年 アヴァール可汗国滅亡 ブリテン系デーン人A3(ア)
vsブリテン系デーン人F2(蘇)
シャルルマーニュ大帝の遠征によってアヴァールが滅亡
794年
(桓武)
平安京遷都 ブリテン系デーン人F2(天)
ブリテン系デーン人F2(藤)
vsブリテン系デーン人F2(蘇)
奈良仏教(蘇我氏勢力)の支配下から逃れることが出来なかった天孫・藤原氏勢力は遷都を決定、
同時に最澄を唐に派遣し、精神的支配からの脱却も謀る
806年 「天台宗」
(最澄/天孫派)
ブリテン系デーン人F2(藤)
ブリテン系デーン人F2(呉)
天台宗はある意味、中世ヨーロッパの宗教革命と同じ意義が核に宿っていた
広東地方は日本勢力下にあったと考えられる、その日本勢力圏の中(現・湖南省)で智が天台宗を始めた
最澄は父方が東漢氏(渡来人)であり、母方が藤原北家であった
東漢氏は応神天皇の命令で日本へ渡ってきたという、藤原北家とも関わりがあるし、正統な天孫宗教といえる
最澄はもともと藤原氏の諜報員部隊、陰陽師のメンバーであり、反天孫連合勢力と利害を異にするために
唐(日本勢力の現・湖南省)に渡り、呉越の諜報員と交流し、人民支配の秘儀を伝授したのだろう
809年 「真言宗」
(空海/反天孫派)
ブリテン系デーン人F2(大伴氏) 空海は佐伯氏の家系であり、佐伯氏は大伴氏の血統だという、つまり真言宗は天孫とも、反天孫勢力とも
利害を異にしていた、ということで、真言宗は反皇族系の宗教といえる、空海は大伴勢力を盛り上げるために
修験道に身を投じ、厳しい修行に耐えて諜報員の精鋭として最澄を追い、唐に渡っただろう
長安の寺院で世話になったのは重要だろう、なぜなら吉備氏が支配していた北魏の勢力圏でもあるからだ
815年
(嵯峨)
新羅
農民暴動頻発
ブリテン系デーン人F2(藤)
vsブリテン系デーン人F1(倭)
貴族の乱と共に農民の乱の裏には日本の意志があっただろう、シチリア奴隷戦争などの方法を踏襲している
藤原氏の意を受けた陰陽師の大陸部隊などが新羅に潜入し、宗教を利用して民衆を指揮、蜂起させただろう
894年 菅原道真
遣唐使を停止
ブリテン系デーン人F2(出)
vsブリテン系デーン人F2(藤)
vsブリテン系デーン人F2(天)
出雲の野見宿禰を祖とし、土師氏を経由している菅原氏は出雲勢力(反天孫)だろう、それがゆえに
天孫の大陸勢力との結びつきを良しとしなかった
901年 菅原道真
大宰府に左遷
ブリテン系デーン人F2(藤)
ブリテン系デーン人F2(天)
vsブリテン系デーン人F2(出)
遣唐使を廃止したため、反天孫勢力として道真は大宰府に流された
916年
(醍醐)
契丹
(平氏の中枢移転)
ブリテン系デーン人F2(平氏) 耶律阿保機が帝を称す、実際には平氏の諜報員か彼の背後に控えていたと考えられるが、
大陸に赴く平氏はみな日本の山界で修験道に身を投じ、厳しい修行に耐えた精鋭だっただろう
そして、有能な指揮官として騎馬民族を率いた
918年 高麗
(蘇我氏の中枢移転)
ブリテン系デーン人F2(蘇)
vsブリテン系デーン人F1(倭)
『高麗史』には、彼の先祖である虎景は白頭山を越えて南側(開城)へ移住して来た昔の高句麗の大族
だったと記録しているという、つまり高麗は天孫の後裔
919年
(醍醐)
渤海
日本に使節派遣
ブリテン系デーン人F2(藤) 折りしも、大陸系平氏勢力である契丹が台頭、916年に建国したが実際には、女真族を指揮し、渤海を建てた
藤原氏配下の諜報員軍団(陰陽師の式神)が本国の司令塔、藤原氏の指令を直接享受に来たと考えられる
921年
(醍醐)
陰陽師
安倍清明生誕
ブリテン系デーン人F2(藤)
ブリテン系デーン人F2(平)
vsブリテン系デーン人F2(天)
陰陽師はシビュラの神託に似た古代諜報機関のひとつであり、またフリーメイスンのように企業秘密的な
あらゆる分野に渡る技術、技術者、情報伝達手段、専門知識を独占的に取り扱う権利を有し、
式神という諜報員(忍者の祖?)の軍団を従えていた
そして、神秘的な神官を演じる陰陽師を、無知な民衆はみな畏怖した、式神(諜報員)はみな修験道に身を投じ
厳しい修行に耐え、諜報員の精鋭として影から藤原氏、皇族の手足となった、安倍清明はその式神と
呼ばれた諜報員軍団の首領だった、安倍家、後継の土御門家はみなそういう首領の家系だろう
修行中の諜報員はみな顔を隠す(山伏、キリスト教修道僧など)
924年
(醍醐)
渤海、契丹に侵攻
返り討ちにあう
ブリテン系デーン人F2(藤)
vsブリテン系デーン人F2(平)
本国藤原氏が陰陽師大陸部隊に平氏勢力、契丹を攻撃しろと指示、しかし、渤海は返り討ちに合い
滅亡してしまった、藤原氏の大陸勢力は一時消滅
936年 高麗、新羅を滅ぼす
後百済を滅ぼし、朝鮮半島統一
ブリテン系デーン人F2(蘇)
vsブリテン系デーン人F1(倭)
高句麗の残党が復活、ブリテン系デーン人F1(倭寇)勢力の新羅と百済を滅ぼした、高麗の前身、高句麗
は日本勢力だったが、高麗の頃から日本勢力でありながら基本的には独自に発展を遂げただろう
939年
(朱雀)
平将門の乱 ブリテン系デーン人F2(平)
vsブリテン系デーン人F2(藤)
平氏の大陸勢力、契丹が藤原氏勢力の渤海を滅ぼしたり好調なことを受け、
将門はその勢いで日本でも王になろうとしたが、失敗
997年
(一条)
高麗
九州に侵攻
ブリテン系デーン人F2(蘇)
vsブリテン系デーン人F1(倭)
当時、九州は日本ではなかった、長江系のブリテン系デーン人F1に支配さていたのだ
天孫(F2)は同士の高麗(F2)に指示し、九州を攻めさせた
1015年
(三条)
契丹
高麗に侵攻
ブリテン系デーン人F2(平)
vsブリテン系デーン人F2(蘇)
日本での対立を想起させるが如く、大陸に於いても平氏と高麗(日本皇族の後継)は対立した
1016年
(三条・後一条)
藤原道長、摂生に ブリテン系デーン人F2(藤)
vsブリテン系デーン人F2(平)
藤原氏の大陸勢力、渤海は滅亡し、配下の女真族も低調だったが代わりに藤原氏は日本で成功を収め、
軍資金を溜め込み、その後の大陸勢力育成につぎ込んだ、その成果が金王朝の成立だっただろう
1019年
(後一条)
女真
九州に侵攻
ブリテン系デーン人F2(藤)
vsブリテン系デーン人F1(倭)
当時から九州は日本ではなかった、中国系デーン人(ブリテン系デーン人F1)に支配さていたのだ、
日本(F2)は同士の女真(F2)に指示し、九州を攻めさせたのだろう
1037年
(後朱雀)
契丹の水軍、高麗侵攻 ブリテン系デーン人F2(平)
vsブリテン系デーン人F2(蘇)
この時に日本勢力であった高麗が契丹勢力に下がったと考えられる、のちに同じ日本勢力である女真を
高麗が攻撃するのだ
1038年 西夏
(藤原氏四家の残党移転)
ブリテン系デーン人F2(藤) 北家の勢いに、藤原氏四家の残党が大陸いきを決めたのか?
藤原氏の大陸拠点が渤海にあったが、彼らの協力の下に西夏を建てたかもしれない
1051年〜
1062年
前九年の役 ブリテン系デーン人F2(藤)
vsブリテン系デーン人F2(平)
蝦夷であったとされる安倍氏(古代デーン人?)の勢力が清原氏(中央勢力)によって駆逐された
1083年
(白河)
後三年の役
奥州藤原氏のはじめ
ブリテン系デーン人F2(藤)
vsブリテン系デーン人F2(平)
清原氏を掃討、奥州藤原氏が台頭する、清衡は藤原秀郷の後継であり、清衡と父親、経清は修験道に触れ
山界で厳しい修行を積んだ諜報員と考えられる、目的は東北征圧だろう、平氏の諜報員も入り込んでいた
経清と同じく、安倍氏の娘を娶り、養子となっていたのだ
1107年 高麗
女真に侵攻
ブリテン系デーン人F2(蘇)
vsブリテン系デーン人F2(藤)
契丹配下に下がった高麗が女真を攻撃、新羅が滅び、高麗が朝鮮半島を統一してからは、久しく
農民の暴動は影を潜めていたがこれ以降、日本が主導し、再度、農民の反乱が頻発するようになる
1115年〜
1234年
(鳥羽)
金王朝 ブリテン系デーン人F2(藤)
vsブリテン系デーン人F2(平)
渤海消滅以来、藤原氏大陸勢力は絶えていたが、日本で天下を取り、軍資金も蓄えられ
機が満ちたのか藤原氏の意を受けた陰陽師大陸部隊が女真族を指揮、金王朝を建てた
1117年 「融通念仏宗」
(良忍/出雲系・反天孫派)
ブリテン系デーン人F2(出) 良忍は秦氏(百済系渡来人)の家系だった
1125年
(崇徳)
金王朝(女真族)
契丹を滅ぼす
ブリテン系デーン人F2(藤)
vsブリテン系デーン人F2(平)
藤原氏勢力が平氏勢力の契丹を破り、渤海滅亡の雪辱を晴らした
契丹の背後にいた平氏の諜報員は7歳の清盛を連れて日本に帰還、日本本国に於いて勢力奪還を謀る
藤原氏、皇族に対する報復、それが、清盛が日本の王になりたかった動機だろう
1127年 金王朝
大楚国を創らせる
ブリテン系デーン人F1(雲)
ブリテン系デーン人F2(藤)
vs漢民族
中国北方を支配下に置いたブリテン系デーン人F2勢力(藤原氏)が、中国全土を手中に治めんと
南方のブリテン系デーン人F1を助けて楚を復活させるが35日で消滅
1156年
(後白河)
保元の乱 ブリテン系デーン人F2(平)
vsブリテン系デーン人F2(藤)
藤原氏勢力と対立していた平氏勢力の勝利、これは、藤原勢力である女真が、平氏の大陸勢力である
契丹を破ったことと連動しているだろう、つまり、平氏は大陸での雪辱を日本で晴らしたのだ
1159年
(二条)
平治の乱 ブリテン系デーン人F2(平)
vsブリテン系デーン人F2(藤)
平氏の契丹が藤原氏の渤海に敗れると、平氏の大陸中枢が当時7歳の清盛を連れて日本に帰国、清盛を
反日本勢力として育てた、もちろん、報復が目的だが清盛は太政大臣にまで登り詰め、日本を征圧した
1161年
(二条)
金王朝
契丹人の反乱
ブリテン系デーン人F2(平)
vsブリテン系デーン人F2(藤)
日本本土で平氏が権力を握ったことに呼応し、大陸の平氏勢力、契丹の残党が藤原氏勢力の金王朝に
対して反乱を起こした、平氏は日本に続き、大陸でも覇権を唱えたというところだろう
1162年
(二条)
高麗、農民暴動 ブリテン系デーン人F2(藤)
vsブリテン系デーン人F2(蘇)
古来から皇族勢力であったはずの高麗が平氏勢力の契丹に寝返ったことが契機になり、
これに制裁を加えるべく藤原氏陰陽師部隊が裏で朝鮮人農民を扇動した、モロにデーン人伝統の戦法だ
1167年
(六条)
平清盛、太政大臣となる
(契丹滅亡の雪辱)
ブリテン系デーン人F2(平)
vsブリテン系デーン人F2(藤)
平氏の契丹が藤原氏の渤海に敗れると、当時7歳の清盛を連れて平氏の大陸中枢が日本に帰国、清盛を
反日本勢力として育てた、もちろん、報復が目的だが清盛は太政大臣にまで登り詰め、日本を征圧した
これに呼応し、源氏(関東平氏勢力)が挙兵、直後に、壇ノ浦の合戦で平氏が滅亡、同時に奥州藤原氏が
滅亡したが、その源氏の敵たちは瀬戸内海海賊の船によって大陸に赴き、黒竜江を遡り、もともとの拠点、
モンゴル草原に戻ったのではないか
1175年 「浄土宗」
(法然/天孫派)
ブリテン系デーン人F2(藤) 法然の父方は漆間氏で母方は秦氏(百済系渡来人)だったというが、
浄土宗は藤原氏系の宗教といえる
1185年 壇ノ浦の戦い
(平氏、モンゴル高原に帰還)
ブリテン系デーン人F2(平・東)
vsブリテン系デーン人F2(平・西)
平氏はこのとき、瀬戸内海賊の手を借り、古巣のモンゴル草原に帰還したと考えられる
自身の権威、その後の反対勢力台頭阻止にも関わるので源氏は平氏皆殺しを宣言したが、源氏の目的は
平氏勢力排除なので実際には安徳天皇など、平氏一族の大部分は見逃したと考えられる
そして、同じように落ち延びた義経、奥州藤原氏などと共に平氏はモンゴル帝国を作ることになる
1188年 「全真教」 ブリテン系デーン人F2(藤)
vsモンゴル人
大陸勢力の金王朝を破壊された藤原氏は道教を基にした全真教を作り、モンゴル人に接近
モンゴル人を操っていたのは平氏であったが、平氏、藤原氏大陸連合は危機的状況にあった欧州の同志、
ビザンツと連絡を取り、ビザンツの敵、ノルマン人、ロシア、イスラム圏を撃破、破壊の限りを尽くした
1189年
(後鳥羽)
奥州藤原氏、滅亡 ブリテン系デーン人F2(平・東)
vsブリテン系デーン人F2(藤)
9年前に源氏が挙兵、1185年に壇ノ浦の合戦で平氏を滅ぼした、次の一手が奥州藤原氏だったが、奥州に
攻め入る口実のために頼朝は工作員として義経を派遣した、が、藤原氏に見破られ、義経は自害させられる
しかし、実際には、奥州藤原氏は義経を大陸行きに動向させ、モンゴル軍の指揮官として登用した可能性もある
この頃、藤原氏の中枢は大陸に移動し、全真教の中枢を担い、教団として存続し、チベット仏教などにも
参入したと考えられる、もとより、中臣氏の古来から神官の職務に就いていた藤原氏ならあり得る
1191年 「臨済宗(建仁寺派)」
(栄西/吉備系・反天孫派)
ブリテン系デーン人F2(吉) 栄西の祖先は吉備氏、考霊天皇と関係があった、つまり、反天孫主義だった
ということで、吉備氏の後裔勢力は臨済宗の背後に隠れながら派閥を全国に広げ、蜂起の機会を
随時狙っていた、だがあるとき、勢力内で対立が起きた、その暴発が応仁の乱だった
応仁の乱(臨済宗勢力内の内乱)を契機に、天孫の後裔でありながら反天孫であるという吉備氏、大伴氏
などの全国の反天孫勢力が決起した、それが戦国時代だった
1192年
(後鳥羽)
源頼朝、鎌倉幕府を開く ブリテン系デーン人F2(平・東)
vsブリテン系デーン人F2(平・西)
実際には、頼朝は年上の土肥実朝(F2)を頼っており、実朝がいなければ鎌倉幕府も実現しなかったという
また、実朝の本名は平であり、関東の平氏であった、つまり、平氏のブリテン系デーン人に対する
日本人の反乱ということができる、この後、実朝は広島地方に赴き、小早川氏を名乗ることになる
その小早川氏が瀬戸内海の海賊、村上水軍などと関連し、自身も小早川水軍を保持していたが、彼が
広島に赴いた目的は、九州倭寇(長江系F1勢力)の情勢監視のためだったと考えられる
1199年 十三人の合議制 ブリテン系デーン人F2(平・東)
ブリテン系デーン人F2(藤)
vsブリテン系デーン人F2(天)
関東平氏と、藤原北家以外の藤原氏勢力で構成されている
1205年 「浄土真宗」
(親鸞/天孫派)
ブリテン系デーン人F2(藤) 親鸞はもともと日野氏であり、日野氏は藤原北家の血統だという
ということで、浄土真宗は藤原氏の宗教といえる
1206年
(土御門)
チンギス・ハーン
クリルタイ最高権力者に
ブリテン系デーン人F2(平・藤・源)
vs漢民族
vs新デーン人
大陸に逃げた平氏の残党、奥州藤原氏の残党、義経などがモンゴル人を指揮し、チンギス・ハーンもその
支配下にあったか、またはチンギス自身が平氏だった可能性がある
モンゴル軍は藤原氏が背後にいる女真族を敵視し、金王朝を倒したことからモンゴルの裏には藤原氏は
いなかったかもしれない、ただ、道教を下地にした全真教の裏には藤原氏がいた可能性がある
1216年 契丹人
高麗侵攻
ブリテン系デーン人F2(平)
vsブリテン系デーン人F2(高)
契丹の国を滅ぼしたものの、契丹民族は依然平氏の支配下にあり、高麗などの朝鮮勢力に侵攻した
1219年
(順徳)
チンギス・ハーン西征 ブリテン系デーン人F2(平・藤・源)
vs各地反デーン勢力
同胞であるビザンツを救うためにイスラム勢力、ロシア勢力の打倒のために出陣したが、チンギス・ハーンは
それを自覚していなかった、征西はあくまでもブリテン系デーン人F2(日系諜報員部隊)の意志であった
1220年 金王朝
南宋・西夏連合を敗る
ブリテン系デーン人F2(藤・北)
vsブリテン系デーン人F2(藤)
vs漢民族
北家の勃興により、大陸に逃亡し勢力圏を築いていた藤原氏四家のうちの三家が支配していた西夏と
中国人王朝の南宋が金王朝に一時的に敗北
1221年 承久の乱 ブリテン系デーン人F2(平)
vsブリテン系デーン人F2(天)
鎌倉幕府成立以降は朝廷と幕府の2勢力が対立していたが、これを機に幕府が天皇継承権を握った
関西の平氏はモンゴル高原に逃亡したが、本土に残った関東の平氏が本土で天下を取ったというところか
北条軍が後鳥羽上皇軍を破った
1224年 西夏
金王朝と和す
ブリテン系デーン人F2(藤) 藤原氏の大陸勢力が、モンゴル軍(平氏勢力)台頭に懸念を示し、連合を組んだといえるが
西夏は1227年にモンゴル軍によって滅亡する
1225年 認定衆 ブリテン系デーン人F2(平・東)
ブリテン系デーン人F2(藤)
vsブリテン系デーン人F2(天)
将軍に皇族を迎えようと画策したり、明らかに旧勢力駆逐を狙っていただろう
関東平氏と、藤原北家以外の藤原氏勢力で構成されている
1233年 「曹洞宗」
(道元/天孫派)
ブリテン系デーン人F2(藤) 道元の父方は村上源氏だが母方は藤原北家だった
1234年
(四条)
モンゴル軍侵攻
金王朝滅亡
ブリテン系デーン人F2(平)
vsブリテン系デーン人F2(藤)
藤原氏の大陸勢力が渤海に続き、再度、平氏勢力に敗北、女真族の管理は陰陽師大陸部隊に任せ
藤原氏みずからは全真教として宗教団体を模し、モンゴル軍に行軍
チベットではチベット仏教に介入、イスラム圏ではイスラム教に介入、独自の勢力圏を築いたと考えられる
1246年 両統迭立
(大伴氏の後裔勢力)
ブリテン系デーン人F2(大伴氏)
vsブリテン系デーン人F2(藤)
vsブリテン系デーン人F2(平)
南朝(大覚寺統)は真言宗が関連していたことから大伴氏の勢力、北朝(持明院統)は藤原氏勢力と考えられる
皇族、藤原氏以外の古来からの天孫勢力も支配者階級から完全に消滅してはいなかっただろう
関東平氏勢力と考えられる鎌倉幕府は南北交互に皇位に就くことを提案した
1254年 「日蓮宗」
(日蓮/平氏系・反天孫派)
ブリテン系デーン人F2(平) 房総半島の端に生まれた日蓮だが、父親は遠江(袋井)出身であった、当時の遠江は平氏の勢力圏である
遠江にいた平氏勢力が鎌倉幕府に近い千葉に移動し、そこで神官を兼務する諜報員の精鋭を何人も
育てた、その中にもちろん日蓮がいたのだが、その後、源氏・関東平氏と対立する勢力に援助を受けた
平氏は、打倒鎌倉幕府(関東平氏)・旧仏教勢力(藤原氏)排除を目的に日蓮宗を築いたと考えられる
日蓮宗から分化し、平氏の血が濃いと思われる日蓮正宗大石寺の拠点は、怪しくも平氏が源氏に敗北した
富士川の戦いで有名な富士川の近辺にある
ところで、ぼくは平氏がモンゴル軍を操ってモンゴル帝国を築いたと考えている
そして、日蓮は平氏の傘下にあった、つまり日蓮は元寇を知っていたのだ
さらにこの日蓮宗には、安倍氏と対立する陰陽師の一勢力、賀茂氏も関わっていると考えられる
1274年 文永の役 ブリテン系デーン人F2連合
vsブリテン系デーン人F1(倭)
vsブリテン系デーン人F2(大)
当時の九州は日本ではなかった、長江上流に拠点を置くF1勢力の日本拠点だった、天孫勢力の流れを組む
蒙古軍は日本征伐というよりは九州征伐のつもりだったに違いない、だが神風により失敗
1279年 「時宗」
(一遍/天孫派)
ブリテン系デーン人F2(源) 古代埼玉から西方、伊予に移住した別府氏の家系、河野氏、越智氏とも関係があった
1281年 弘安の役 ブリテン系デーン人F2連合
vsブリテン系デーン人F1(倭)
vsブリテン系デーン人F2(大)
当時の九州は日本ではなかった、長江上流に拠点を置くF1勢力の日本拠点だった、本州勢力の流れを組む
蒙古軍は日本征伐というよりは九州征伐のつもりだったに違いない、だが神風により再度失敗
F1勢力である日蓮は元寇を利用し、本州に多くの信者を獲得した
1291年 「臨済宗(南禅寺派)」
(無関普門/信濃系・反天孫派)
古代デーン人E(蝦・長) 出雲を支配した古代デーン人E蝦夷勢力や長江勢力が信濃を根城にしていたが、宗教で人民を支配し、
自分の意志を神の意志と称して悪意を正当化するすべを知っていたため、
日本制覇の機会を狙っていたのだろう
1324年 正中の変
(大伴氏の後裔勢力)
ブリテン系デーン人F2(大)
vsブリテン系デーン人F2(藤)
vsブリテン系デーン人F2(平)
大伴氏の後裔勢力が後醍醐天皇の背後に控え、関東平氏勢力である鎌倉幕府に反逆したと考えられる
1333年 元弘の乱
鎌倉幕府滅亡
ブリテン系デーン人F2(大)
vsブリテン系デーン人F2(藤)
vsブリテン系デーン人F2(平)
後醍醐天皇が再度反乱、当時の足利尊氏は幕府軍を率いて後醍醐天皇を討ちに行ったが
鎌倉幕府に対する離反を提起され、逆に幕府への叛乱を宣言
1333年 建武の親政 ブリテン系デーン人F2(大・後)
vsブリテン系デーン人F2(大・足)
後醍醐天皇(大伴氏後裔勢力)が武士勢力に親政を強制、独裁を開始、そのために足利氏が離反した
1335年 中先代の乱 古代デーン人E(長江・諏訪)
vsブリテン系デーン人F2
北条高時(鎌倉幕府第14代執権)の遺児時行が、信濃の諏訪頼重らに擁立され、鎌倉幕府復興のため
挙兵した、先代(北条氏)と後代(足利氏)との間にあって、一時的に鎌倉を支配したことから
中先代の乱と呼ばれているという、諏訪は東北を拠点にする古代デーン人E勢力の勢力圏だったが、
大国主神の国譲り以来、出雲を支配していた古代デーン人E(長江系)の人々が逃れてきた
この事象は、古代デーン人E(長江系・諏訪系)のブリテン系デーン人F2(天孫族)に対する反逆だった
1336年 足利尊氏、室町幕府を開く ブリテン系デーン人F2(藤)
vsブリテン系デーン人F2(大)
鎌倉幕府滅亡後に京都に成立した後醍醐天皇の建武政権から離反した足利尊氏は、持明院統の光厳上皇
の院宣を受け、建武3年(1336年)6月に京都を確保すると光厳上皇を奉じて入京、尊氏は武家政権の
構築に着手するが、後醍醐天皇は叡山に逃れて抵抗していたという
1336年〜
1392年
南北朝時代 ブリテン系デーン人F2(大)
vsブリテン系デーン人F2(藤)
1336年 懐良親王、征西大将軍任命
(大伴氏の後裔勢力)
ブリテン系デーン人F2(大)
vsブリテン系デーン人F2(藤)
後醍醐天皇は、各地に自分の皇子を派遣し、味方の勢力を築こうと考え、建武3年(1336年)にまだ
幼い懐良親王を征西大将軍に任命し、九州に向かわせることにした、親王は五条頼元らに補佐
されて四国伊予国(現・松山市)へ渡り、当地の宇都宮貞秦や瀬戸内海の海賊衆である熊野水軍の
援助を得て数年間滞在したという、ある意味、大伴氏後裔勢力の九州攻略というところか























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