ブリテン系デーン人F2の帝国@ T
東胡・扶余・呉越・鮮卑・古代出雲・高句麗・大和朝廷
◆古代デーン人◆
第一次大航海時代(北極海ルート)
バルト海・ジーラント・スカンジナビア半島東岸(古代デーン人Z1/旧デーン人の先祖)
スカンジナビア半島西岸北岸・古代フィンランド・古代ロシア地方(古代デーン人Z2)=サーミ人、フィン人、スラブ人
中央アジア・シベリア(古代デーン人Z3)=アンドロノヴォ文化、エヴェンキ族、ブリヤート族、モヨロ人
第二次大航海時代(大西洋ルート)
ブリテン島・アイルランド島(古代デーン人Y1/海の民の先祖)
古代フリース地方(古代デーン人Y2a)
古代バスク地方(古代デーン人Y2b)
古代ルシタニア地方(古代デーン人Y2c)
カナリア諸島(古代デーン人Y3)
第三次大航海時代(大西洋・地中海・紅海・ペルシア湾・インド洋・太平洋ルート)
エーゲ海(古代デーン人Aグループ)=地中海・サルディーニャ島・クレタ文明・ヌビア地方・バンツー族
エジプト(古代デーン人Bグループ/地中海ルート)=サハラ帝国・エジプト王朝・テーベ神官国家
アフリカ(古代デーン人Bグループ/アフリカ就航・紅海ルート)=紅海・プント王国・エチオピア帝国・アラビア半島・ベドウィン族
メソポタミア/シュメール人・ヘブライ人(古代デーン人Cグループ/紅海ルート)=ペルシア湾・ウバイド人
インド・東南アジア(古代デーン人Dグループ)=カッチ・ハラッパー・マレー半島・セレベス島
東アジア(古代デーン人Eグループ)=日本東北地方・出雲系:古代出雲、百済、任那日本府・沖縄・朝鮮半島
南北アメリカ(古代デーン人Fグループ)=南北アメリカ大陸
古代デーン人A(サルディーニャ人、シチリア人、クレタ人、ロードス島、キプロス島、キクラデス諸島、ヌビア人)
古代デーン人B(B1/エジプト王朝、テーベ、B2/ベドウィン・プント王国・エチオピア帝国)
古代デーン人C1(シュメール神官団A/ヘブライ人)=(ユダ王国/C1a、イスラエル王国/C1b、ヒッタイト帝国)
古代デーン人C2(シュメール神官団B)=(カッシート人/C2a、アッシリア帝国/C2b)
古代デーン人D(ダーサ人、パニ人、カッチ人、チャンダーラ、デミアル人、ワナ人、タアネ神/ポリネシア人)
古代デーン人E(東北・北海道縄文人、蝦夷・アイヌの先祖)
古代デーン人F(ディネ族/ナバホ族・アパッチ族、イサパ文明、アパラチー族他)
※古代デーン人はピクト人として故国に帰還、新デーン人と対立し、敗北、配下となる
◆旧デーン人◆
・旧デーン人Aグループ・
メソポタミア侵攻第一波(旧デーン人A1/アッカド人)
第二波(旧デーン人A1/アムル人「バビロニア帝国」、フルリ人「ミタンニ王国」)
シルクロード侵攻第一波(バクトリア・マルギアナ文明、大月氏/旧デーン人A2)
ギリシア侵攻第一波(イオニア人/ケルト人、アケーア人/旧デーン人A3)
第二波(テッサリア人、エオリア人/ケルト人)
エジプト侵攻第一波(ヒクソス人/旧デーン人A4)
・旧デーン人Bグループ・
ギリシア侵攻第三波(ドーリス人/旧デーン人B)
ドーリス人の第一後裔、スパルタ人(旧デーン人B1)
ドーリス人の第二後裔、コリントス人(旧デーン人B2)
シルクロード侵攻第二波(キンメリア人、スキタイ人、サカ人/旧デーン人B3)
・アケーア系デーン人(Aグループ)勢力圏=(テーベ市、アルゴス市/ギリシア、サムニテ王国、カンパニア王国/イタリア南部)
・スパルタ系デーン人(B1)勢力圏=(スパルタ市、クレタ島、ロードス島、リビア、サイス朝エジプト王国)
*コリントス系デーン人(B2)の派閥*
コリントス市・シュラクサ(旧デーン人B2a)
アンチゴノス朝マケドニア(旧デーン人B2b)
セレウコス朝シリア(旧デーン人B2c)
プトレマイオス朝エジプト(旧デーン人B2d)
マウリア朝マガダ(旧デーン人B2e)
※コリントス人中枢移転先(アルメニア王国、キエフ公国、ロシア帝国)
◆ブリテン系デーン人(旧デーン人)◆
ギリシア(ブリテン系デーン人Aグループ)
シリア・メソポタミア(ブリテン系デーン人Bグループ)
エジプト(ブリテン系デーン人Cグループ)
アフリカ(ブリテン系デーン人Dグループ)
インド・東南アジア(ブリテン系デーン人Eグループ)
東アジア(ブリテン系デーン人Fグループ)
大西洋岸南北アメリカ(ブリテン系デーン人Gグループ)
ブリテン系デーン人A=(A1/エトルリア人、A2/ローマ帝国、A3/アテネ市、ビザンツ帝国、突厥帝国、ヴェネツィア共和国、ハザール帝国)
※古代アテネ人勢力圏(キリキア、マッシリア、コルシカ島、サルディーニャ北部、シチリア東部、ポントス王国、ボスポロス王国)
※西ローマ帝国の中枢移転先(モラヴィア王国、ノヴゴロド公国、ポーランド王国、ハプスブルグ家)
※ビザンツ帝国の中枢移転先(突厥帝国、ハザール帝国、ウイグル汗国、ハンガリー王国、ヴェネツィア共和国、モスクワ公国)
※ハザール帝国の中枢移転先(リトアニア公国、アシュケナージ)
ブリテン系デーン人B=(B1/フェニキア人・ペリシテ人・ダン族、B2/新アラム人、B3/新ヒッタイト人)
ブリテン系デーン人C=(C1/エジプト王朝、C2/テーベ・アメン神官団)
ブリテン系デーン人D=(西アフリカ、ヨルバ人、マダガスカル島)
ブリテン系デーン人E=(セイロン島、インド南部)
ブリテン系デーン人F1=(長江系/ミャオ族、楚、太平道、黄巾族、大理国、白蓮教、広東系/華僑、九州系/邪馬台国、新羅、倭寇)
ブリテン系デーン人F2=大和を本拠地に北アジア(粛慎)、モンゴル高原(東胡)、朝鮮半島(扶余)、中国南部(呉越)に拠点が築かれた
呉越系(広東):呉、越、南越(ベトナム)、南詔国
東胡系(皇族):鮮卑、柔然、北魏(吉備氏)、大和朝廷(中大兄皇子、中臣氏)
粛慎系(藤原氏):渤海、西夏、女真族、金王朝、清王朝
契丹系(平氏):契丹、モンゴル帝国、タタール
扶余系(蘇我氏):高句麗、大和朝廷(蘇我氏、聖徳太子)、高麗、李氏朝鮮
ブリテン系デーン人G=(オルメカ人/ユカタン半島)
古代デーン人
東北と長江に拠点があった、か
まず東北系が出雲を制し、次に長江系が出雲を制した
八岐大蛇(東北系)・8人の諜報員の精鋭が神官を司り人民を支配していた、か
須佐王命(長江系)・大国主神=SUSA=eram
猿田彦命=SULTANA・SOLTAN・SOLDAN=turk/arab
ブリテン系デーン人(海の民の直系)
饒速日命・物部氏=MONO・NOBLE=britain/italy/poland/finland
邇邇芸命・神武天皇
天児屋命・中臣氏(藤原氏)=CHUSIN=england
天太玉命・忌部氏(九州・紀伊半島・四国・房総半島)=IBE=nigeria
天忍日命・大伴氏=DIVAN=england
天久米命・久米氏=KUME=germany/hungary/estonia
ブリテン系デーン人F2
吉備津彦命(考霊天皇第三皇子)・吉備氏(岡山・出雲・紀伊・近江・大和)
大彦命(考元天皇第一皇子)・安倍氏
彦太忍信命(考元天皇皇子)・蘇我氏
日本武尊(景行天皇皇子)・応神天皇
桓武天皇・平氏
清和天皇・源氏
年代 |
できごと | 勢力 | 内実 |
---|---|---|---|
BC1200年〜 | 天孫邇邇藝命降臨命令 (高天原=ブリテン島) |
ブリテン系デーン人 | 下界に降臨とは、海の民の第一次大航海時代のことを示唆しているかもしれない |
BC1200年〜 | 海の民、ブリテン島を出発 海の民、エトルリアに入植 海の民、古代ローマに入植 |
ブリテン系デーン人 | 後に、ブリテン系デーン人Aグループが旧デーン人グループを退け、地中海覇権を手中にする |
BC1122年〜 | 箕子朝鮮 | 旧デーン人(絹道系) | 欧州から陸路でやって来た旧デーン人勢力が建てた国の可能性がある 彼らは、旧勢力である古代デーン人を排除した |
BC800年代 | 海の民、九州に入植 松浦半島を拠点とする |
ブリテン系デーン人F | 海の民が九州を占領、後に九州を拠点に2手に別れ、神武東征と長江上流勢力に勢力が分化 |
? | 海の民、出雲に侵攻 (大国主神の国譲り) |
ブリテン系デーン人F vs古代デーン人E(長江系) |
海の民が、長江流域・出雲を支配していた長江系デーン人の大陸・日本拠点に同時侵攻したかもしれない |
? | 出雲族 諏訪に侵攻 |
古代デーン人E(出雲系) vs古代デーン人E(諏訪系) |
海の民の侵攻により、蝦夷系の出雲族が諏訪に逃亡したと考えられる、つまり、国譲りが原因か?? 出雲と諏訪はもともと蝦夷系デーン人に支配されていたため、同族だが、出雲族が諏訪のモレヤ族を 打ち負かし、新たに建御名方の神を持ち込んだ、という |
BC771年 | 海の民 長江流域・雲南に侵攻 |
ブリテン系デーン人F1 vs古代デーン人E(長江系) |
ブリテン系デーン人F1が、古代デーン人Eの勢力圏、長江流域、雲南省に侵攻、古代デーン人Eの配下である ミャオ族を乗っ取り、長江上流に拠点を築く、現地人のミャオ族を支配、楚などの国家、 宗教団体を築き、随時、中国人に挑戦する、雲は天を意味する、つまり、神々の種族を自称するデーン人を デーン人の国と言う意味を込めて雲南と名付けられたのだろう ブリテン系デーン人に敗れた古代デーン人Eは彼らの勢力に取り込まれ、のちに、独自にテン国を建てたりする |
BC700年代 | 海の民 日向に拠点を築く (邇邇藝命、天孫降臨) |
ブリテン系デーン人F2(天孫系) | 海の民がブリテン島を出発してアフリカ経由で数百年かけて東アジアに到達、その頃には金髪・碧眼の デーン人はアフリカ人、インド人、東南アジア人との混血により、白人とは違う姿に変貌を遂げていただろう |
BC700年代 | 海の民(饒速日命) 河内国に侵攻 |
ブリテン系デーン人F2(天) | 饒速日命がおともの神32神を従えて天の磐船に乗り、河内国河上の斑鳩峰に天降ったという これは、海の民の司令官が32人の諜報員を従え、河内の国に侵攻したと読むことが出来、る? |
BC660年 (神武) |
神武天皇東征 (古代日本諜報機関) |
ブリテン系デーン人F2(天) vs縄文人 |
天皇とは、デーンの王ということか?神武天皇東征の頃に日本勢力は大陸に勢力圏を築いているが、 この時に古代日本諜報機関(仮称)が結成されたのではないか?内訳は神事を任された忌部氏、中臣氏、 軍事面を任された物部氏、大伴氏、海上移動を任されていた瀬戸内海賊の祖であり、 頭領は天皇、皇族だったと考えられる、皇族以外は大陸系、本国系に分派しただろう |
?(神武) | 東胡 (天孫の中枢移転) |
ブリテン系デーン人F2(天) vs中国人 |
将来、蘇我氏、藤原氏、平氏、源氏の祖となる皇族(諜報員軍団)集団が大陸に拠点を築いた それらは東胡、扶余、粛慎などだったが、彼らは黒竜江を遡り、モンゴル草原の奥地にまで赴いたのだ 彼らの目的は新デーン人、中国人を打倒し、大陸に覇を唱え、広大な領土を得ることだった この時、大陸へ赴く手段として船が用いられたが、それが瀬戸内海賊の祖となっただろう 瀬戸内海は大陸へ赴く玄関口だった、生口島が神の島と呼ばれ皇族と関係が深かったのもそれだろう |
?(神武) | テイ (チベット高原) |
ブリテン系デーン人F2(天) | 神武天皇の東征伝説を生んだ部隊が九州から出雲に拠点を築き、そこから更に黄河を遡り チベット高原に拠点を築いたのだろう |
BC600年〜 BC334年 (神武) |
越 (出雲の中枢帰還) |
古代デーン人E(出雲系) vs中国人 vsブリテン系デーン人F1 |
出雲は一度では平定されず、絶えず反体制勢力が生まれたのではないか 越も、出雲の皇族諜報機関が中国大陸の利権を狙い、長江河口域に拠点を置いたと考えられるが、 近隣に拠点を築いた同族一派(呉)と対立することになる、ブリテン系デーン人F1(長江系)とは祖が 同じなので当初は共同で漢民族と戦うことになっていたが、楚とも対立し、のちに滅ぼされてしまったらしい 一説では、越の残党が南方に逃れてベトナムの祖となったという |
BC585年〜 BC473年 (綏靖) |
呉 (天孫の中枢移転) |
ブリテン系デーン人F2(天) vs中国人 vsブリテン系デーン人F1 |
出雲は一度では平定されず、絶えず反体制勢力が生まれたのではないか 呉も、出雲の皇族諜報機関が中国大陸の利権を狙い、長江河口域に拠点を置いたと考えられるが、 最初に拠点を築いた越と対立する形で呉が出現、ブリテン系デーン人F1(長江系)とは祖が同じなので 当初は共同で漢民族と戦うことになっていたが、楚とも対立し、のちに滅ぼされてしまったらしい |
BC400年代 (懿徳・考昭) |
粛慎 (天孫の中枢移転) |
ブリテン系デーン人F2(天) vs中国人 |
ブリテン系デーン人F2から分化した人々が当地の原住民(古代デーン人系)を支配したと考えられる 古代北東アジアのヴァイキングと呼ばれていた、生活ぶりも確かにそうであり、ルールも何も無かったという 彼らの子孫がその後、藤原氏の指揮下で渤海を建設、どうりで日本と関係が深い |
BC400年代 (懿徳・考昭) |
羌・チベット高原 (天孫の中枢移転) |
ブリテン系デーン人F2(天) | 神武天皇の東征伝説を生んだ部隊が九州から出雲に拠点を築き、数百年後、そこから更に黄河を遡り テイの次にチベット高原に拠点を築いたのだろう |
BC300年代 | 匈奴 | 新デーン人(北亜系) vsブリテン系デーン人F2(天) |
新デーン人(北亜系)が陸路で到来、旧デーン人(大月氏など)を駆逐し、北アジアに登場 |
BC330年〜 BC110年 (考安) |
ビン越 (越の中枢移転) |
古代デーン人E(出雲系) vs中国人 vsブリテン系デーン人F1 |
との戦いに敗れて殺害され、ここに越は滅亡した。越の王族は海路ビンに入り、越の国人も遷山 (現在の福建省長楽市)に至った、このようにして越人が福建北部に定住し、当地の原住民である 百越族と融合、やがてビン越を建国することとなったという BC202年前後の半世紀は国力が充実し、当時の中国東南部最大の国家勢力となった |
BC290年〜 BC215年 |
考霊天皇即位 | ブリテン系デーン人F2(天) | |
?(考霊) | 稚武彦命(考霊天皇皇子) 吉備氏の祖 |
ブリテン系デーン人F2(天) | 出雲に侵攻している、岡山県に拠点を築いた吉備氏の祖、ある時は天孫系と利害をいつにし、 またある時は異にしていたのではないか |
BC223年 | 楚滅亡 | 中国人 vsブリテン系デーン人F1(長江系) vsブリテン系デーン人F2(出) |
BC11世紀から続いた楚が滅亡、中枢は残存しており、のちに何度も復活する |
BC214年〜 BC158年 |
考元天皇即位 | ブリテン系デーン人F2(天) | |
?(考元) | 大彦命(考元天皇第一皇子) 安倍氏の祖 |
ブリテン系デーン人F2(天) | 安倍氏は本土に帰還し、のちに陰陽師を構成したと考えられる、天孫系と利害をいつにしていた |
?(考元) | 彦太忍信命(考元天皇皇子) 蘇我氏の祖 |
ブリテン系デーン人F2(天) | 蘇我氏は大陸に残り、高句麗の中枢を担ったと考えられる、天孫系と利害を異にしていた |
BC209年 | 東胡滅亡 | 新デーン人(北亜系) vsブリテン系デーン人F2(天) |
東胡が匈奴に滅ぼされた際、烏桓と鮮卑に分化したという |
BC203年〜 BC111年 |
南越国 (越の中枢移転) |
古代デーン人E(出雲系) | 古代デーン人E(出雲系)には長い歴史がある、古代デーン人の大航海時代により長江・東北に拠点を築き 最初に東北の古代デーン人Eが出雲を攻略、のちに長江の古代デーン人Eが出雲を攻略、海の民(天孫系) が出雲を制圧してからは長江系が大陸に帰還、越を建設した、その越の中枢も南下、ベトナムの基礎を 成した |
BC195年〜 BC108年 |
衛氏朝鮮 | 中国人 vs旧デーン人(絹道系) |
漢民族が建てた国家 |
BC100年代 | ワイ・貊 (天孫の中枢移転) |
ブリテン系デーン人F2(天) vs朝鮮人 |
当時、天孫勢力からいろいろな勢力が分化していたので、そのいずれかがワイ・貊の後裔、ワイ、貊、沃沮 高句麗、扶余の背後に控えていただろう、朝鮮半島の天孫勢力は半島から中国人勢力を駆逐するために 根を張ったのだろう、当時の新規天孫勢力には、蘇我氏、安倍氏、吉備氏がいた |
BC100年代 | 三韓(馬韓・辰韓・弁韓) | 古代デーン人E(蝦夷) | BC2000年頃に日本東北・中国北部・樺太にかけて存在したと推測される蝦夷の帝国の人々が 朝鮮半島に進出した時の後裔だと考えられる、古代出雲・長江周辺地域とも交流があったのではないか |
BC154年 | 漢王朝 呉楚七国の乱 |
ブリテン系デーン人F2(出) ブリテン系デーン人F1(長) vs中国人 |
ブリテン系デーン人が合同で漢の反乱分子、劉氏を立て、背後で操作しながら漢王朝に対して反乱を企画演出 |
BC97年 BC30年 |
崇神天皇即位 (高句麗の司令官) |
ブリテン系デーン人F2(天) | 崇神天皇ははじめて国家統一を果たしたという、この頃は高句麗が成立しているが、朝鮮半島統一のことか? |
BC86年 | 扶余 (天孫の中枢移転) |
ブリテン系デーン人F2(天) vs朝鮮人 |
扶余の中枢はのちに移転、百済を成す |
BC50年 | 倭人 朝鮮辺境に侵攻 |
ブリテン系デーン人F1(倭寇) 古代デーン人E(熊・隼) vs朝鮮人 |
九州は容易に平定されず、倭寇の祖、古代デーン人の末裔、熊襲・隼人などの反体制勢力が跋扈していた 倭人が新羅に侵攻したというが、この時の倭人とは対馬、壱岐、松浦半島の倭寇だろう |
BC37年 (崇神) |
高句麗 (天孫の中枢移転) |
ブリテン系デーン人F2(天) vs朝鮮人 |
天孫の中枢を成していた諜報機関は日本本土ではなく、当時は高句麗や北アジアに拠点を置いていた この後、高句麗の中枢は蘇我氏として台頭、大陸・日本本国に於いて、皇族勢力ことごとく対立する |
71年〜 130年 |
景行天皇即位、クマソ討伐 (東胡の司令官) |
ブリテン系デーン人F2(天) vsブリテン系デーン人F1(倭) vs古代デーン人E(熊・隼) |
クマソとは、ブリテン系デーン人F1(倭寇の祖)と連携していた古代デーン人Eの末裔だった この時、景行天皇は九州へ熊襲討伐に出かけたという、が、当時の皇族はモンゴル高原に拠点があった と考えられるので、景行天皇・日本武尊も当然、モンゴル高原を出発し、海を渡り九州に侵攻しただろう 大陸から日本への航海には瀬戸内海賊が関わっているため、容易だっただろう 彼らは黒竜江を下り、陸伝いで九州に達した、時期的に言うと、景行天皇が新デーン人勢力(匈奴)を駆逐し 新たな騎馬民族国家、鮮卑を建てた |
93年 (景行) |
鮮卑 (天孫の中枢移転) |
ブリテン系デーン人F2(天) vs新デーン人(北亜系) |
皇族の中枢は高句麗を有能な司令官、蘇我氏に一任し、みずからはモンゴル高原に出陣 騎馬民族、鮮卑を指揮し、ユーラシアの新デーン人勢力(匈奴など)や中国人と争った |
100年代〜 200年代 |
吉備国 | ブリテン系デーン人F2(天・吉) | 吉備は古代、畿内や出雲国と並んで勢力を持っていたといわれ、巨大古墳文化を有していた また、優れた製鉄技術があり、それが強国となる原動力であったとされるという |
156年 (成務) |
鮮卑 匈奴を撃破、モンゴル高原統一 |
ブリテン系デーン人F2(天) vs新デーン人(北亜系) |
これまで、1000年来、デーン人が支配していたモンゴル高原を日本人が東アジア人の手に奪還 |
173年 | 新羅 卑弥呼が使いを派遣 |
ブリテン系デーン人F1(倭) vs朝鮮人 |
卑弥呼はドルイド教の巫女だったのか?邪馬台国とは倭寇の本拠地、対馬、壱岐、松浦半島にあった のではないか、邪馬台国は、デーン人が影からドルイド教の巫女を使って支配した古代倭寇の国だった しかも、F1グループ(長江系)が倭寇を支配していたので、邪馬台国は「天皇が治める日本」とは異種の 「もうひとつの日本」と言えるかもしれない |
193年 | 倭国に大飢饉 | ブリテン系デーン人F1(倭) vs朝鮮人 |
食を求めて千余人の倭人が新羅に侵入、いかにもなデーン的戦略です 倭人の朝鮮人に対する発言力の拡充政策といえる |
232年 | 新羅 倭人が都を包囲 |
ブリテン系デーン人F1(倭) ブリテン系デーン人F2(出) vs朝鮮人 |
この倭とは、出雲の人々と松浦半島の倭寇のことである、この頃の新羅はまだ朝鮮人が納める土地だった |
266年〜 413年 |
空白の4世紀 (北アジアに拠点を移転していた) |
ブリテン系デーン人F2(天) | 西暦266年から413年にかけて中国の歴史文献における倭国の記述がなく詳細を把握できないため、 この間は「空白の4世紀」と呼ばれているが、実際には、日本の中枢は大陸に拠点を置き、東胡・鮮卑として 中国人や新デーン人と戦っていた、九州以外の日本列島は平民のみで王朝は留守の状態だった |
270年〜 310年 |
応神天皇即位 (鮮卑の司令官) |
ブリテン系デーン人F2(天・鮮) vs中国人 vsブリテン系デーン人F2(天・高) |
応神天皇は諜報員リーダー、司令官として鮮卑を操っていたと考えられる、この後、応神天皇は 八幡大菩薩として平氏、源氏、瀬戸内海賊に軍神として崇拝されるが、その関係からも契丹などは平氏が 支配していたことがわかる、応神とはオーディンのことか?匈奴(新デーン人)と接触があった大陸皇族は 新デーン人(のちのヴァイキング)の神、オーディンのことを知っていたかもしれない |
293年頃 | 宇文部 | 新デーン人(北亜系) vsブリテン系デーン人F2(天) |
匈奴系鮮卑族ということで新デーン人勢力だろう |
300年代〜 700年代 |
吐谷渾 (チベット高原) |
ブリテン系デーン人F2(天・鮮) | 中国に於ける春秋戦国時代に皇族の諜報部隊が黄河を遡り、チベット高原にテイ、羌という勢力を 育てたが、吐谷渾(鮮卑出自)はそれら勢力の後裔だろう |
315年〜 376年 |
代(五胡十六国) | ブリテン系デーン人F2(天) vsブリテン系デーン人F2(天) |
匈奴(新デーン人)を駆逐した鮮卑(天孫系)の一部族が代国を建てる この勢力は、天皇の大陸制覇に随行していた吉備氏、蘇我氏、安倍氏、中臣氏、忌部氏、大伴氏、 物部氏のいずれかではないかと推測される、が、本土で吉備氏が槍玉に挙げられた経緯から 吉備氏が有力と考えられる |
319年 (仁徳) |
高句麗、鮮卑を討つ (大化の改新の遠因) |
ブリテン系デーン人F2(天・鮮) vsブリテン系デーン人F2(天・高) |
ある意味、中国・朝鮮半島利権をかけた日本中枢大陸拠点同士の内乱でもあった このブリテン系デーン人F2(皇族vs蘇我氏)の大陸に於ける内乱がのちの大化の改新につながっている |
337年 | 前燕 | ブリテン系デーン人F2(天) | 鮮卑族が建てた国、この頃、反天孫系勢力が建てた国が乱立した |
346年 | 百済 (扶余の中枢移転) |
ブリテン系デーン人F2(天) vsブリテン系デーン人F2(天・高) |
反天孫勢力となった高句麗に対抗するために天孫勢力である扶余が百済を建てた |
356年 | 新羅 | 古代デーン人E(蝦夷) | 新羅の基礎を成した三韓は古代デーン人E(蝦夷)の後裔と考えられる、そのため、同じ古代デーン人Eの 影響下にあった松浦半島の倭人と交流があったのではないか |
363年 | 代国 高車を討ち、撃破 |
ブリテン系デーン人F2(天) vsブリテン系デーン人F2(天・中) |
天孫系勢力が反天孫である高車を討つ、高車の背後には中臣氏がいたと考えられる |
369年〜 562年 |
任那日本府 (出雲の中枢移転) |
ブリテン系デーン人F2(出) 古代デーン人E(出) vs朝鮮人 |
朝鮮支配、ゆくゆくは中国全土支配を目論み、ブリテン系デーン人F2(出雲)が創った拠点、本拠地の 出雲は蝦夷系や長江系の古代デーン人Eに支配されたが、一部勢力が残り、F2勢力に力を貸した そのため、出雲は一度では平定されず、絶えず反体制勢力が生まれたのではないか |
386年〜 534年 |
北魏 (吉備氏大陸拠点) |
ブリテン系デーン人F2(天・吉) vsブリテン系デーン人F2(天) |
鮮卑の後裔が建て、鮮卑と対立していた国ということで、中枢は反天孫系勢力と考えられる この場合、考えられる勢力は蘇我氏か吉備氏だが、蘇我氏は高句麗の中枢として機能していたので 北魏の場合、同時期に本土でも吉備国を繁栄させていた吉備氏が中枢にいたと推測される |
391年 | 倭 百済、新羅を破る |
ブリテン系デーン人F1(倭) ブリテン系デーン人F2(天・出) 古代デーン人E(出・熊・隼) vs古代デーン人E(蝦) vsブリテン系デーン人F2(天・百) |
楚、黄巾族の戦力としての起用を断念したブリテン系デーン人F1が影で指揮する倭寇が朝鮮半島に侵攻 倭寇は出雲の人々と組んだ可能性がある、一口に倭国と言っても、大陸に中枢を移転した、後の大和朝廷を 建てる一派、出雲に拠点を置く一派、九州・松浦半島に拠点を置く三者がいたと思われる 今回の倭とは、このうちの松浦勢力と出雲勢力が組んだ、考えてみれば薩長同盟も同じ地域の同盟だった このときに百済・新羅は九州・出雲勢力下に入ったと考えられる |
400年〜 450年 |
倭軍、高句麗と戦う 高句麗、新羅を討つ |
ブリテン系デーン人F1(倭) ブリテン系デーン人F2(天・出) 古代デーン人E(出・熊・隼) vsブリテン系デーン人F2(天・高) |
朝鮮半島をめぐる九州系デーン人連合(倭寇)、反天孫(高句麗)の戦いと言える この頃、高句麗系朝鮮人、満州人の祖が渡来人として日本に来訪したと考えられる 高句麗は天孫系が支配し、九州のデーン人勢力も侵攻していたので日本と朝鮮の縁が深いのも当然だ |
402年〜 555年 (履中) |
柔然 (天孫の中枢移転) |
ブリテン系デーン人F2(天) vs新デーン人(北亜系) |
柔然の頃は、履中天皇から始まり、継体天皇の代まで大陸で司令官として騎馬民族を指揮していた 鮮卑の頃はまだ匈奴の勢力も残存し、北魏を建てた反天孫系勢力も抱えていたため、天孫系純粋化を 謀るべく、柔然を建てたと推測される |
463年 (雄略) |
吉備下道臣前津屋の乱 | ブリテン系デーン人F2(天) vsブリテン系デーン人F2(天・吉) |
雄略天皇は、地域国家連合体であった国家をヤマト王権に臣従させて中央集権を進めるために、 最大の地域政権の一つ、吉備に対して「反乱鎮圧」の名目で屈服を迫り、「反乱鎮圧」を成功させて ヤマト王権の優位を決定づけた、という |
463年 (雄略) |
吉備上道臣田狭の乱 | ブリテン系デーン人F2(天) vsブリテン系デーン人F2(天・吉) |
本土での吉備氏の平定が、大陸に於ける北魏の弱体化・滅亡に反映されていたと推測される このとき、一部の吉備氏勢力は大陸に逃亡したのではないか |
523年 | 六鎮の乱 (武川鎮軍閥) |
ブリテン系デーン人F2(天) 新デーン人(北亜系) vsブリテン系デーン人F2(天・吉) |
北魏が柔然の侵攻を防ぐために匈奴、鮮卑の有力豪族を選抜、六鎮を設置して北方警備に当たらせた 当初は優遇もされていたが、遷都が原因で六鎮の乱が発生、この反乱に参加した鎮の中でも、懐朔鎮出身 で東魏の実権を掌握し北斉を建てた高歓、また、武川鎮出身の有力者は、武川鎮軍閥と呼ばれ、西魏、 北周、隋から唐に至る変遷の中で、各王朝の中核となる権力集団として君臨した、北周の宇文泰、隋の 楊堅、唐の李淵といった各王朝の創始者はいずれも武川鎮の有力者一族の出身である、という |
532年 | 新羅 伽耶の金官国を取る |
ブリテン系デーン人F1(倭) 古代デーン人E(熊・隼) vsブリテン系デーン人F2(出) vs古代デーン人E(出) |
九州勢力が同士であったはずの出雲勢力を新羅から追放、朝鮮半島の独り占めを企んだ そのため、出雲勢力圏であった伽耶に侵攻した |
534年〜 550年 |
東魏 | ブリテン系デーン人F2(天・吉) vsブリテン系デーン人F2(天) |
鮮卑の高歓が東魏の背後に控え、考静帝を立てた もともと魏は天孫の後裔でありながら反天孫勢力だった吉備氏の大陸勢力だった |
535年〜 556年 |
西魏 | 新デーン人(北亜系) vs中国人 |
新デーン人勢力(匈奴の後裔)が、反吉備氏勢力に蜂起を打診、北魏を分裂させ、 中国北部に独自の勢力を建てた |
539年〜 571年 |
欽明天皇即位 (高句麗の中枢、本土移転) |
ブリテン系デーン人F2(天・本) vsブリテン系デーン人F2(天・高) |
大伴氏と物部氏の本土勢力一派は、欽明天皇を推して近畿地方に拠点を築こうとしていた高句麗勢力の 蘇我氏と対立していた、この頃、同時期に大伴氏(本土勢力)は安閑天皇、宣化天皇を推していた 大陸での動きも見事に反映されているが、この頃、本土に於いても本土vs高句麗勢力の大きな闘争が あったことを示している 当時、大伴氏、物部氏は大陸と本土勢力に分化していたと考えられる、天皇を中心とし、大陸に行っている 天孫中枢が不在なのをいいことに高句麗勢力が本土に覇を唱えたが、本土天孫勢力が善戦、また 大陸天孫勢力の一部は本土に帰還しただろう |
550年〜 577年 |
北斉 | ブリテン系デーン人F2(天・吉) vsブリテン系デーン人F2(天) |
国祖の高歓は鮮卑であり、天孫系の後裔吉備氏勢力だった、北周・突厥と対立していたが北周は新デーン人 突厥はもともと高車時代から中臣氏勢力であり、反天孫として同盟を組んだビザンツ系に貸与 |
551年 | 新羅 高句麗の10郡を割譲 |
ブリテン系デーン人F1(倭) 古代デーン人E(熊・隼) vsブリテン系デーン人F2(天・高) |
倭寇勢力優勢だが、高句麗の中枢が日本本土に移動していたため朝鮮半島では劣勢にまわった |