古代デーン人第三次大航海時代〜アフリカ航路
エラム人の帝国 「バアル信仰」「イスラム教」
ハフィート文明・プント王国・ベドウィン族・ワッハーブ派
◆古代デーン人◆
第一次大航海時代(北極海ルート)
バルト海・ジーラント・スカンジナビア半島東岸(古代デーン人Z1/旧デーン人の先祖)
スカンジナビア半島西岸北岸・古代フィンランド・古代ロシア地方(古代デーン人Z2)=サーミ人、フィン人、スラブ人
シベリア(古代デーン人Z3)=エヴェンキ族、ブリヤート族、モヨロ人
第二次大航海時代(大西洋ルート)
ブリテン島・アイルランド島(古代デーン人Y1/海の民の先祖)
古代フリース地方(古代デーン人Y2a)
古代バスク地方(古代デーン人Y2b)
古代ルシタニア地方(古代デーン人Y2c)
カナリア諸島(古代デーン人Y3)
第三次大航海時代(大西洋・地中海・紅海・ペルシア湾・インド洋・太平洋ルート)
エーゲ海(古代デーン人Aグループ)=地中海・サルディーニャ島・クレタ文明・ヌビア地方・バンツー族
エジプト(古代デーン人Bグループ/地中海ルート)=サハラ帝国・エジプト王朝・テーベ神官国家
アフリカ(古代デーン人Bグループ/アフリカ就航・紅海ルート)=紅海・プント王国・エチオピア帝国・アラビア半島・ベドウィン族
メソポタミア/シュメール人・ヘブライ人(古代デーン人Cグループ/紅海ルート)=ペルシア湾・ウバイド人
インド・東南アジア(古代デーン人Dグループ)=カッチ・ハラッパー・マレー半島・セレベス島
東アジア(古代デーン人Eグループ)=日本東北地方・沖縄・朝鮮半島
南北アメリカ(古代デーン人Fグループ)=南北アメリカ大陸
古代デーン人A(サルディーニャ人、シチリア人、クレタ人、ロードス島、キプロス島、キクラデス諸島、ヌビア人)
古代デーン人B(B1/エジプト王朝、テーベ、B2/ベドウィン・プント王国・エチオピア帝国)
古代デーン人C1(シュメール神官団A/ヘブライ人)=(ユダ王国/C1a、イスラエル王国/C1b、ヒッタイト帝国)
古代デーン人C2(シュメール神官団B)=(カッシート人/C2a、アッシリア帝国/C2b)
古代デーン人D(ダーサ人、パニ人、カッチ人、チャンダーラ、デミアル人、ワナ人、タアネ神/ポリネシア人)
古代デーン人E(東北・北海道縄文人、蝦夷・アイヌの先祖)
古代デーン人F(ディネ族/ナバホ族・アパッチ族、イサパ文明、アパラチー族他)
※古代デーン人はピクト人として故国に帰還、新デーン人と対立し、敗北、配下となる
◆旧デーン人◆
・旧デーン人Aグループ・
メソポタミア侵攻第一波(旧デーン人A1/旧アラム人、アッカド人)
第二波(旧デーン人A1/アムル人「バビロニア帝国」、フルリ人「ミタンニ王国」)
シルクロード侵攻第一波(バクトリア・マルギアナ文明、大月氏/旧デーン人A2)
ギリシア侵攻第一波(イオニア人/ケルト人、アケーア人/旧デーン人A3)
第二波(テッサリア人、エオリア人/ケルト人)
エジプト侵攻第一波(ヒクソス人/旧デーン人A4)
・旧デーン人Bグループ・
ギリシア侵攻第三波(ドーリス人/旧デーン人B)
ドーリス人の第一後裔、スパルタ人(旧デーン人B1)
ドーリス人の第二後裔、コリントス人(旧デーン人B2)
シルクロード侵攻第二波(キンメリア人、スキタイ人、サカ人/旧デーン人B3)
・アケーア系デーン人(Aグループ)勢力圏=(テーベ市、アルゴス市/ギリシア、サムニテ王国、カンパニア王国/イタリア南部)
・スパルタ系デーン人(B1)勢力圏=(スパルタ市、クレタ島、ロードス島、リビア、サイス朝エジプト王国)
*コリントス系デーン人(B2)の派閥*
コリントス市・シュラクサ(旧デーン人B2a)
アンチゴノス朝マケドニア(旧デーン人B2b)
セレウコス朝シリア(旧デーン人B2c)
プトレマイオス朝エジプト(旧デーン人B2d)
マウリア朝マガダ(旧デーン人B2e)
※コリントス人中枢移転先(アルメニア王国、キエフ公国、ロシア帝国)
年代 |
できごと | 勢力 | 内実 |
---|---|---|---|
BC5000年頃 | マラワフ島に住民が存在 | 現生人類 | |
BC4000年頃? | 第三次古代デーン人大航海時代 地中海ルート サルディーニャ島発見、植民開始 |
古代デーン人 | 古代デーン人が第三次大航海時代に出発、地中海、アフリカ方面に分岐、地中海方面に進出した 一派はひとつの島を発見、南方デーン拠点という意味を込めサルディーニャと名付けた サルディーニャも後に英国諜報機関のいち勢力としてイタリア統一の先鋒となった |
BC4000年? | 古代デーン人 サルディーニャを拠点に 地中海制覇、北アフリカに植民 |
古代デーン人A | 古代のサハラには湖沼が存在し、緑豊かな土地だったと考えられるが、薪として森林が伐採され、 砂漠化が促進したと考えられる、つまり、サハラ砂漠はデーン人による環境破壊だった 一方で、ノアの箱舟の原型になったかもしれない、ノアと考えられる諜報機関・宗教組織の司令官は サルディーニャ、クレタ島など地中海を支配し、ハムは北アフリカ、セムは紅海、アラビア半島、 ヤペテはインダス地方の支配を任されたのだろう |
BC3800年? | 古代デーン人 幻の北アフリカ帝国建国 |
古代デーン人B | サハラの砂漠化にデーン人が関与している可能性がある、当時、燃料は薪なので森が伐採され 砂漠化の要因になったのかもしれない 当時、北アフリカ帝国は近隣のエジプト人と対立していただろう |
BC3650年頃 | クレタ文明(地中海ルート) | 古代デーン人A | メソポタミア、インダスに進出するには拠点が必要だったはずだが、それがクレタ島ではなかったか クレタ文明は古代デーン人が現地人、同行させたケルト人に作らせた文明だったか? |
? | クレタ島に入植したデーン人が ナイル河上流へ遡る |
古代デーン人A | エジプト人勢力圏を迂回し、ナイル河を遡り、テーベ辺りに拠点を築き、アメン神官国家の元型を築く 更にナイルを上昇し、ドルイド教を布教、ヌビア人を支配する |
? | シナイ半島に入植 | ||
? | 紅海の離れ島に入植 (地中海ルート) |
古代デーン人B | エジプト追撃を謀り、紅海側にも勢力圏を置く、ここからアラビア半島に赴き、ベドウィン族をドルイド教で支配し 自身の勢力として育成したと考えられる |
? | ペルシア湾、バーレーン島 クウェート河口の島に入植 (地中海ルート) |
古代デーン人C vs現生人類 |
メソポタミア進出を謀り、古代デーン人は離れ島で進出計画の一環として神と神話を製作していた |
BC3500年頃 | 古代デーン人 シュメール人として出現 (アフリカ就航ルート) |
古代デーン人C | 地中海ルートでアラビア半島に拠点を築き、一足先にメソポタミアに到達したデーン人が文明を築いていたが アフリカ就航ルートで遅れてきたデーン人がシュメール人としてメソポタミアに上陸したと考えられる |
BC3000年〜 | ハフィート文明 (古代アラビア半島) |
古代デーン人B (地中海ルート) |
古代アラビア半島には湖沼が存在し、緑豊かな土地だったと考えられるが、薪として森林が伐採され、 砂漠化が促進したと考えられる、つまり、砂漠はデーン人による環境破壊だった 砂漠のある所には大きな古代文明都市があると推定されるが、ハフィート文明を担った人々、或いは 彼らの後裔がセム族の祖となったと考えられるという ※ハフィート文明は、クレタ島からメソポタミアに向かう途中で居ついた人々かもしれない |
BC2500年〜 BC2000年 |
ウム・アルナール時代 | 古代デーン人B | 円形の大きな砦を中心とした最初のオアシスの街の時代、メソポタミア、イラン、インダス文明、バルチスタン、 バクトリア(アフガニスタン)と広く交易、ハジャール山地の銅資源を使用したという |
BC2000年〜 BC1300年 |
ワディ・スク時代 | 古代デーン人B | 青銅器時代後期ディルムン(バハレーン)と密接な関係 |
BC1300年〜 BC300年 |
鉄器時代 | 古代デーン人B | 山の帯水層から低地のオアシスに水を引くファラジとよばれる新しい灌漑技術を導入、定住地が広がる 鉄器を使用、南アラビア文字を使用、アッシリア帝国、ペルシャ帝国と交流 |
BC300年〜 | ムレイハ時代 | 古代デーン人B | 前イスラム時代前期、ムレイハの街が繁栄。地域貨幣のはじまり。遠く離れたギリシャ、 南アラビアから輸入、馬の使用 |
紀元後〜 250年 |
エッドゥール時代 | 古代デーン人B | 前イスラム時代後期 エッドゥールとムレイハの街が繁栄。アラビア湾岸から地中海、シリア、メソポタミア、インドまで広範な交易 首長アビエル(Abi'el)による大規模な貨幣鋳造。碑文にアラム語を使用 |
? | 無明時代 | 古代デーン人B (地中海ルート) |
カアバ神殿信仰があった、この神官の家系の人々がムハンマドと対立し、ウマイヤ朝を建てたという ※無明時代は、クレタ島からメソポタミアに向かう途中で居ついた人々が築いたかもしれない |
240年 | ササン朝ペルシア帝国 | イラン系アーリア人 | |
500年代〜 | 「サー・バニヤス修道院」設立 | ブリテン系デーン人A3(ア) vs古代デーン人B |
イラン南西・メソポタミア南部との交流を通じてキリスト教が伝わる。ネストリウス派キリスト教団により サー・バニヤス(Sir Bani Yas)に修道院設立。オマーンにササン朝の駐屯地があり、UAEとも関係 |
630年 | 「イスラム教」 イスラム軍アラビア半島統一 |
古代デーン人B (アフリカ航路・エラム人) vs古代デーン人B (地中海ルート) |
預言者ムハンマドの使節が到着、人々がイスラムに改宗 ※イスラム教はアフリカ航路で到着したエラム人の末裔が創ったものかもしれない |
632年 | マホメット死去 | 古代デーン人B(エ) | 預言者ムハンマド死去。イスラムの教えに背くリッダ(ridda)の動きが起こる。ディッバ(Dibba)で反乱軍と カリフ、アブー・バクルの派遣軍との戦いが起こり、反乱軍敗れる |
637年 | イラン侵攻の拠点確保 | 古代デーン人B(エ) vsイラン系アーリア人 |
ジュルファー(Julfar)がイスラムのイラン侵攻の拠点となる |
661年 | ウマイヤ朝成立 | 古代デーン人B(地) vs古代デーン人B(エ) |
ウマイヤ家のシリア総督ムアーウィヤが第4代正統カリフ・アリーからカリフ位を奪い、ウマイヤ成立 帝国の首都はマッカからウマイヤ家の本拠地ダマスカスに遷都 |
750年 | 「アッバース革命」 アッバス朝成立 |
イラン系アーリア人 古代デーン人B(エ) vs古代デーン人B(地) |
イスラームの預言者ムハンマドの叔父、アッバースの子孫がウマイヤ朝を打倒し、750年にアッバス朝を 建てた事件、これは単なる王朝交替ではなく、イスラーム世界における反体制諸勢力やウマイヤ朝の支配に 不満を抱く人々を広く巻き込んだ運動であり、アッバース朝の成立によってイスラム世界のあり方が大きく 変化したことから革命と呼ばれる |
892年 | オマーン侵攻の拠点確保 | 古代デーン人B | ジュルファーがアッバース朝のオマーン侵攻の拠点となる |
909年 | ファーティマ朝成立 | エフタル vs古代デーン人B |
その君主はイスマーイール派が他のシーア派からの分裂時に奉じたイマーム、イスマーイールの子孫を 称し、イスラム世界の多数派であるスンナ派の指導者であるアッバス朝のカリフに対抗してカリフを称した イスマイール派は、グノーシス的な神秘主義的教説を特徴とする ※グノーシス=エフタル? |
963年 | ブワイフ朝成立 | イラン系アーリア人 vs古代デーン人B |
ブワイフ朝がアラビア南東を征服 |
1171年 | アイユーブ朝成立 | 旧デーン人(クルド) vsブリテン系デーン人F2(中) |
サラディンが、ファティマ朝の軍最高司令官と宰相の地位を兼任し、年内までにエジプトにおける 全権を掌握して、アイユーブ朝を創設した |
1250年 | マムルーク朝成立 | ブリテン系デーン人F2(中) | そのスルタンが、マムルーク(奴隷身分の騎兵)を出自とする軍人と、その子孫から出たため マムルーク朝と呼ばれる、一貫した王朝ではあるが、いくつかの例外を除き王位の世襲は行われず、 マムルーク軍人中の有力者がスルターンに就いた |
1299年 | オスマントルコ帝国成立 | ブリテン系デーン人A3(ビ) ブリテン系デーン人F2(藤) vsブリテン系デーン人F2(中) |
小アジアの片隅に生まれた小君候国から発展したイスラム王朝であるオスマン朝は、やがて ビザンツ帝国などの東欧キリスト教諸国、マムルーク朝などの西アジア・北アフリカの イスラム教諸国を征服して地中海世界の過半を覆い尽くす世界帝国たるオスマン帝国へと発展した |
1744年 | ワッハーブ王国 (第一次サウード王国) |
古代デーン人B(サ) | ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブが唱えるワッハーブ派の運動の普及のために、ナジュドの 豪族出身であるムハンマド・イブン・サウードが軍事的・宗教的にキャンペーンを起こした、王国の性格 からワッハーブ王国ということもある |
1818年 | ワッハーブ王国滅亡 | 英国諜報機関 ブリテン系デーン人A3(ビ) ブリテン系デーン人F2(藤) ブリテン系デーン人A2(ヴ) vs古代デーン人B(サ) |
ムハマンド・アリーは個人的に英国諜報機関の配下にあったと考えられるが、このときはオスマントルコの 命令でワッハーブ王国に侵攻した |
1824年 | 第二次サウード王国 | 古代デーン人B(サ) | |
1891年 | 第二次サウード王国滅亡 | 古代デーン人B vs古代デーン人B(サ) |
最後の王であるアブドゥルラハマーン・イブン・ファイサル・アル・サウードがラシ−ド家からの 実権回復に失敗してリヤドを追われたために滅亡した |
1902年 | サウード王国復興 | 古代デーン人B(サ) vs古代デーン人B |
サウード家がリヤド奪還 |
1916年 | アラブ反乱 | 英国諜報機関 ブリテン系デーン人A3(ビ) 古代デーン人B(ヒ) vsブリテン系デーン人A3(ビ) vsブリテン系デーン人F2(藤) |
第一次世界大戦中に、オスマン帝国からのアラブ人独立と、南はアデンから北はアレッポに至る統一 アラブ国家の樹立を目指して、メッカ(マッカ)の太守(シャリーフ)フサイン・イブン・アリーが起こした戦い |
1916年 | ヒジャーズ王国 | ブリテン系デーン人A3(ビ) 古代デーン人B(ヒ) vs英国諜報機関 |
ヒジャーズ王国の創始者はフサイン・ビン・アリーであり、彼はイスラム教の創始者であるムハンマドの 子孫に当たり、13世紀からヒジャーズ地域をエジプトやオスマン帝国の属国として支配してきた ハーシム家の一族である |
1920年 | セーブル条約 フランスの委任統治下 |
ブルターニュ分家 vs古代デーン人B(サ) |
|
1921年 | ヨルダン・ハシミテ王国 イラク王国成立 |
英国諜報機関 vs古代デーン人B(ヒ) |
旧オスマン領から、ヒジャーズ王の息子たちを王とするトランスヨルダンとイラク王国が成立、ただし、 これら2王国は、イギリスの委任統治下に置かれた、半島中部ではサウード家がラシード家を滅ぼして 勢力を拡大する |
1925年 | ヒジャーズ王国滅亡 | 英国諜報機関 古代デーン人B(サ) vsブリテン系デーン人A3(ビ) vs古代デーン人B(ヒ) |
|
1932年 | サウジアラビア王国成立 | 英国諜報機関 古代デーン人B(サ) |
同年、イラク王国がイギリスから独立、初代イラク国王は、滅亡したヒジャーズ王国の初代王の 三男であったファイサル1世 |