エフタルの帝国@ T
「ボゴミル派」「カタリ派」〜
第一次+第二次ブルガリア帝国・ペチェネグ人
◆ブリテン系デーン人(旧デーン人)◆
ギリシア(ブリテン系デーン人Aグループ)
シリア・メソポタミア(ブリテン系デーン人Bグループ)
エジプト(ブリテン系デーン人Cグループ)
アフリカ(ブリテン系デーン人Dグループ)
インド・東南アジア(ブリテン系デーン人Eグループ)
東アジア(ブリテン系デーン人Fグループ)
太平洋ポリネシア・大西洋岸南北アメリカ(ブリテン系デーン人Gグループ)
ブリテン系デーン人A=(A1/エトルリア人、A2/ローマ帝国、A3/アテネ市、ビザンツ帝国、突厥帝国、ヴェネツィア共和国、ハザール帝国)
※古代アテネ人勢力圏(キリキア、マッシリア、コルシカ島、サルディーニャ北部、シチリア東部、ポントス王国、ボスポロス王国)
※西ローマ帝国の中枢移転先(モラヴィア王国、ノヴゴロド公国、ポーランド王国、ハプスブルグ家)
※ビザンツ帝国の中枢移転先(突厥帝国、ハザール帝国、ウイグル汗国、ハンガリー王国、ヴェネツィア共和国、モスクワ公国)
※ハザール帝国の中枢移転先(リトアニア公国、アシュケナージ)
ブリテン系デーン人B=(B1/フェニキア人・ペリシテ人・ダン族、B2/新アラム人、B3/新ヒッタイト人)
ブリテン系デーン人C=(C1/エジプト王朝、C2/テーベ・アメン神官団)
ブリテン系デーン人D=(ヨルバ人、マダガスカル島)
ブリテン系デーン人E=(セイロン島、インド南部)
ブリテン系デーン人F1=(F1aA/ミャオ族、楚、太平道、黄巾族、呉、南詔、大理国、白蓮教、F1aB/華僑、F1b/邪馬台国、倭寇)
ブリテン系デーン人F2=(F2aA/皇族、F2aB1/奥州藤原氏・全真教、F2aB2/藤原氏、F2bA/関西平氏、F2bB/関東平氏、
F2cA/粛慎・渤海、女真人・満州人、F2cB/モンゴル人、F2cB1/タタール人、F2cB2/オイラート人、F2d/高句麗・高麗人)
ブリテン系デーン人G=(ポリネシア人/タアネ神、オルメカ人/ユカタン半島)
◆新デーン人◆
新デーン人A1a/スカンジナビア系デーン人(ケルト人、ドルイド教ローマ人奴隷、ダキア人)、新デーン人A1b(キンブリ人、テウトニ人)
新デーン人A2/中央アジア系デーン人(A2a/エフタル・ヒョーン人、マッサゲタイ人、パルティア人、A2b/チャガタイ汗国、オゴタイ汗国、チムール帝国)
新デーン人A3/東アジア系デーン人=匈奴(A3a)、フン族(A3b)、鮮卑(A3c)、柔然(B)、吐藩(C1)、唐/天台宗(C2)、契丹/遼(D1)、西夏(D2)
新デーン人A4/アルバ系デーン人(スコットランド・アイルランド系カトリック・アイオナ修道院、ティオティワカン帝国)
新デーン人B1/ゴート人(西ゴート王国)
新デーン人B2/フランク人(フランク王国、ノーサンブリア王国、イースト・アングリア王国、マーシア王国、
エセックス王国、ウェセックス王国、サセックス王国、神聖ローマ帝国、エデッサ王国、エルサレム王国)
新デーン人B3/ロンバルディア人(北イタリア地方、ラテン帝国、ジェノヴァ共和国)
新デーン人A1a/デーンロー系デーン人(ジュート王国・カンタベリー大司教座・デーンロー)
新デーン人A1c/スウェード人(バルト三国、キエフ公国、ロシア、ウクライナ)
新デーン人A1d/ノルウェー人(アイスランド共和国、グリーンランド、トルテカ人)
新デーン人A5/デンマーク人(デンマーク王国・カルマル同盟)
ノルマン人A1/フランス系ノルマン人(ノルマンディー公国、フランス王国、外ヨルダン領、ゼンギ朝シリア、カスティーリャ王国、レオン王国、スイス連邦)
ノルマン人A2/イングランド系ノルマン人+新デーン人A1aA(ノルマン朝、ピサ共和国、ナバラ王国、アラゴン王国)
ノルマン人A3/イタリア系ノルマン人(シチリア・ナポリ王国、アンチオキア王国、トリポリ王国、ラテン帝国)
新デーン人A1aB/反逆派、後にルター派を創設(アルモラヴィド帝国、アルモハード帝国、モロッコ王国、ガーナ王国、ブルガリア帝国)
年代 |
できごと | 勢力 | 内実 |
---|---|---|---|
558年 | エフタル滅亡 | イラン系アーリア人 ブリテン系デーン人A3(ビ) ブリテン系デーン人F2(藤) vsエフタル |
ササン朝ペルシアと突厥帝国が挟み撃ち、新デーン人の中央アジア勢力、エフタルを滅ぼした エフタルの中枢は後にブルガリアに逃亡、ブルガリア帝国を建てて、新デーン人の東欧勢力とする また、一部はペチェネグ人を指揮、新規・新デーン人勢力として重用 ブルガリア帝国・ペチェネグ人・ボゴミリ派・カタリ派・マニ教が滅亡して以後、エフタルの中枢は ドイツ・イベリア半島に移転、一方はドイツ騎士団、一方はベルベル人を操り、アルモハード帝国を築く ドイツ騎士団は北欧にドイツ騎士団領を設け、エフタル旧支配地域からエフタルの後裔を呼び寄せ ドイツ人として北欧各地に入植、ドイツ人の祖となる、つまり、ナチス・ドイツの ゲルマン人アーリア人起源説は一時期中央アジアを支配していたエフタルの存在が基盤となっている ドイツ騎士団が滅亡してからは、ルター派を作った仲間と合流、ロシアに移民を行ったりし、ロシアの サラトフにヴォルガ・ドイツ人のコミュニティが発生した、古巣の旧エフタル支配地域は、カスピ海を隔てて 目と鼻の先だ エフタルは興味深い、彼らはスコーネを出て中央アジアに拠点を築き、そこからインド・ペルシアに攻撃を しかけ、中央アジアの拠点を喪失してからは、北アフリカ・イベリア半島支配を経、欧州に戻ってきたのだから |
500年代〜 600年代 |
ダルディニア(コソボ) | エフタル vs旧デーン人 |
darは付近の言葉で贈り物を意味する、そしてディニアは御馴染み、デーン人、またはデーン人の土地を 意味する、ダルディニアは「神からデーン人への贈り物」という意味なのだ もともとは、ギリシャに侵攻したアケーア人、ドーリス人の拠点だったがエフタルが占拠 ダルディニアは、後にブルガリア人(エフタル)の重要な拠点となる |
635年 | ブルガール国 突厥帝国から独立 |
エフタル vsブリテン系デーン人A3(ビ) vsブリテン系デーン人F2(藤) |
エフタルの中枢が突厥の反体制勢力であるブルガリア人に接触、裏切りを打診、蜂起させたと思われる |
653年 | ハザール帝国 ブルガール国破壊 |
ブリテン系デーン人A3 vsエフタル |
ハザール帝国がエフタル勢力であるブルガール国を滅ぼす |
681年 | 第一次ブルガリア帝国 | エフタル vsブリテン系デーン人A3 |
ビザンツと講和を結んでこの地域の支配権を認められ、第一次ブルガリア帝国を建国する |
700年代 | 第一次ブルガリア帝国 ビザンツとの抗争 |
エフタル vsブリテン系デーン人A3 |
|
700年代 | 第一次ブルガリア帝国 アヴァール人の旧領奪取 |
エフタル連合 | 神聖ローマ帝国に敗れて衰退したアヴァール人の旧領を奪取、東ヨーロッパ随一の大国に成長した |
800年代 | クルム・ハーン 神聖ローマ帝国に勝利 |
エフタル vsアテネ人 |
トラキア地方に勢力を拡大し、のちの首都となるソフィアを奪った |
811年 | ビザンツ皇帝 ニケフォロス1世が侵攻 |
ブリテン系デーン人A3 vsエフタル |
ビザンツ軍がブルガリアに侵攻したが撃退 |
813年 | ブルガリア軍 コンスタンチノープル包囲 |
エフタル vsブリテン系デーン人A3 |
ブルガリア軍は、814年にはビザンツ軍に撃退された |
830年頃 | ペチェネグ人 レベディアに居住 |
エフタル vsブリテン系デーン人A3 vs旧デーン人B2 vsスウェード人 |
エフタルの中枢がペチェネグ人を指揮、ヴォルガ川下流域からドナウ川河口までの広大な 草原地帯を占めることとなり、キエフ大公国、ブルガリア(芝居)、マジャールにとって大きな脅威となった |
864年 | ブルガリア王、ボリス1世 キリスト教に改宗 |
エフタル vsブリテン系デーン人A3 |
キリスト教への改宗は、異教の信仰を堅持する貴族たちの反抗にあったがハーンはこれを鎮圧 |
893年 | 「ブルガリア正教会」 | エフタル vsブリテン系デーン人A3 |
コンスタンチノポリス総主教から独立 |
896年 | 第一次ブルガリア帝国 ペチェネグ人と同盟 |
エフタル連合 | ビザンツは同じ勢力であるマジャール人と結んでいたが、同様に、ペチェネグは同じ新デーン人勢力である ブルガリアと結び、マジャールを攻撃、パンノニア平原に追放した |
? | 第一次ブルガリア帝国 シメオン1世領土拡大 |
エフタル vsブリテン系デーン人A3 |
シメオン1世のとき、ブルガリア帝国の領土はマケドニア地方やギリシアのペロポネソス半島北部 にまで及び、第一次ブルガリア帝国は最盛期を実現した |
900年代 | 「ボゴミル派」 | エフタル vsブリテン系デーン人A3 |
ブルガリア司祭、ボゴミルにより開始、ブルガリアにおいてはビザンツへの抵抗運動と結びつき、 一部の地域では正統派をしのぐ勢いをもったが、帝国が衰え、ブルガリアがオスマン帝国領となり、 イスラム教が入ってくると、ボゴミル派からイスラムに改宗する者が多く現れ、廃れた つまり、新デーン人はイスラム教に乗り換えたということだろう |
915年〜 | ペチェネグ人 キエフ大公国に随時侵攻 |
エフタル vs旧デーン人B2 vsスウェード人 |
エフタルはキエフとビザンツを敵視していた |
970年 | 第一次ブルガリア帝国 キエフ大公軍侵攻 |
旧デーン人B2 スウェード人 vsエフタル |
ブルガリアがキエフ軍に占領された、この一件がキエフ勢力台頭の懸念につながり ボゴミル派(エフタル)のキエフ布教に結びついていく |
971年 | ビザンツ帝国 ペチェネグと同盟締結 キエフ軍を駆逐 |
ブリテン系デーン人A3 エフタル vs旧デーン人B2 vsスウェード人 |
ブルガリアを占領していたキエフ軍を、ビザンツ軍がペチェネグ人と組み、駆逐、ブルガリアが ビザンツ帝国に一時併合されたが976年に独立を回復、しかし尚、マジャール、ビザンツの侵攻に苦しんだ |
986年 | ビザンツ帝国 対ブルガリア30年戦争 |
ブリテン系デーン人A3 vsエフタル |
この当時、新デーン人はバルカン半島に見切りを付け、標的をフランスに切り替えたと思われる つまり、この頃にボゴミリ派の根幹を継承しつつカタリ派の基礎が作られ始めた |
1004年 | キエフ大公国 「ボゴミル派」布教 |
エフタル vs旧デーン人B2 vsスウェード人 |
キリスト教が普及しはじめてから25年後のキエフで神父エイドリアンがボゴミル派として布教を開始したが ロシア正教のレオンティウス司祭によって収監される |
1012年〜 1020年 |
フランス王国南部 「カタリ派」勢力拡大 |
エフタル vsフランス諜報機関 |
ブルガリアの中枢が拠点をバルカン半島から欧州に移転、ブリテン島の反逆派と合流 |
1014年 | キンバロングーの戦闘 | ブリテン系デーン人A3 vsエフタル |
この頃にはブルガリアの中枢がフランス南部に移転していたと考えられる |
1018年 | 第一次ブルガリア帝国 滅亡、ビザンツに併合 |
ブリテン系デーン人A3 vsエフタル |
ブルガリア帝国は滅亡したが、のちに第二次ブルガリア帝国が建つことになる、その70年の空白期間は 新デーン人勢力が、欧州でカタリ派として活動していたことに起因する、非常に興味深い |
1022年 | カタリ派信徒、最初の処刑 | フランス諜報機関 英国諜報機関 vsエフタル |
この頃、ブリテン島では新デーン人の一部が新規支配勢力、ノルマン人と結んだが、反逆派の一部は ブリテン島を離れ、大陸系新デーン人と合流、カタリ派を使って大陸に於ける勢力圏確保に尽力しただろう それがノルマン人勢力に懸念を起こさせた |
1028年 | シャルー教会会議 | フランス諜報機関 英国諜報機関 vsエフタル |
カタリ派は正式に異端であると宣言されたが、その勢いは強まる一方であった |
1036年 | キエフ大公国 ペチェネグ敗北、従属化 |
旧デーン人B2 スウェード人 vsエフタル |
ペチェネグは新デーン人勢力として随時、キエフに侵攻していたが、ここに来て撃退された |
1000年代 | ペチェネグ 旧ブルガリアに侵入 |
エフタル vsブリテン系デーン人A3 |
ペチェネグは同じ新デーン人勢力であるブルガリアを助けるためにビザンツ領となっていた旧ブルガリア地方に 侵入、ブルガリア人反乱勢力を支援したという |
1056年 | トゥールーズ教会会議 | フランス諜報機関 英国諜報機関 vsエフタル |
カタリ派は正式に異端であると宣言されたが、その勢いは強まる一方であった |
1085年 | ビザンツ帝国 「ボゴミル派」信徒 ノルマン討伐軍に参加 |
ブリテン系デーン人A3 エフタル vsノルマン人 |
1000人余りのボゴミル教徒が、ロベール・ギスカール率いるノルマン軍討伐のためのビザンツ軍に参加 しかし、皇帝を裏切ったため、投獄された |
1091年 | ペチェネグ滅亡 | ブリテン系デーン人A3 vsエフタル |
ペチェネグを煩わしいと思っていたビザンツがハザールの系統、キプチャクに命じてペチェネグを排除 |
1125年 | キエフ南部教会 「ボゴミル派」ディミトリ討伐 |
旧デーン人B2 スウェード人 vsエフタル |
ロシア南部の正教会がディミトリという名のボゴミル派神父を討伐、ブルガリア正教会も同様の対応に追われた |
1147年 | フランス王国 「カタリ派」改宗強制 |
フランス諜報機関 英国諜報機関 vsエフタル |
ノルマン人連合が新デーン人(反逆派)勢力に話を付けようとするが新デーン人(反逆派)勢力はまったく 耳を貸さず、のちにアルビジョワ十字軍が派遣されることになる 新デーン人(反逆派)勢力は5世紀からなじみであるロンバルディア人とイタリア系ノルマン人を組み 合わせ、ボゴミリ派教団を指揮させ、自分達はアルビジョワでカタリ(アルビ)派を結成する 新デーン人(反逆派)勢力の誇りをかけた異議の申し出をノルマン人勢力は聞かず、この闘争は のちに異端審問へとつながっていく |
1163年 | トゥール教会会議 | フランス諜報機関 英国諜報機関 vsエフタル |
カタリ派の禁止が正式に決定された、当初は教皇が南フランスへ特使を派遣してカタリ派信徒たちに カトリック教会への復帰を呼びかけるという方法がとられていた |
1179年 | 第三ラテラン公会議 | フランス諜報機関 英国諜報機関 vsエフタル |
カタリ派の禁止が正式に決定された、当初は教皇が南フランスへ特使を派遣してカタリ派信徒たちに カトリック教会への復帰を呼びかけるという方法がとられていた |
1187年 | 第二次ブルガリア帝国建つ | エフタル vsブリテン系デーン人A3 |
新デーン人(反逆派)がビザンツ帝国内の反乱分子、ブルガリア人を指揮、反乱を演出、再度 ブルガリア帝国を建設させる、ブルガリア人はもともと5世紀頃からデーン勢力であったが 70年の空白期間の間、彼らはカタリ派として欧州蹂躙を目指していた、 だが、ノルマン人連合の反抗に会い、断念、(絹道系)がブルガリアに戻ってきたのだった |
1200年代 | ロンバルディア都市同盟 「ボゴミリ派教団」伝道 |
エフタル ノルマン人 ロンバルディア人 vs英国諜報機関 |
エフタル勢力であったボゴミリ派をイタリア系ノルマン人が継承、対神聖ローマ帝国勢力として育成 |
1205年 | 第二次ブルガリア帝国 ラテン帝国に侵攻 |
エフタル ノルマン人 ロンバルディア人 vs英国諜報機関 |
第四回十字軍によってコンスタンティノポリスが征服されてビザンツ帝国が一時滅亡する1204年 までにトラキアの西北部まで勢力を拡大した、ビザンツ帝国が滅びるとトラキアの正教徒の 保護を名目にラテン帝国と戦い、1205年にはラテン帝国の初代皇帝ボードアン1世を破った |
1209年 | フランス王国 初期アルビジョワ十字軍 |
フランス諜報機関 vsエフタル vsノルマン人 |
旧フランス系ノルマン人勢力であるドミニコ修道会、新イングランド系ノルマン人勢力である シトー修道会、クレルモン修道会が動員され、旧デーン勢力駆逐が開始される 新規デーン勢力の攻撃は容赦のないモノであった |
1218年〜 1241年 |
イヴァン・アセン2世即位 | エフタル |
即位後は勢力拡大に乗り出しトラキア、アルバニア、マケドニアを奪って帝国の最大領土を形成した |
1229年 | 異端審問 | フランス諜報機関 vsエフタル |
南フランスにおける異端審問は13世紀を通じて行われた |
1235年 | 「ブルガリア正教会」復活 | エフタル | 第1次ブルガリア帝国の滅亡以来失われていたブルガリア正教会の自治独立を回復した |
1241年 | 第二次ブルガリア帝国 モンゴル軍侵攻 |
ブリテン系デーン人F2(藤) ブリテン系デーン人F2(平) vsエフタル |
同胞のブリテン系デーン人A3国家、ビザンツを救うためにモンゴル軍(ブリテン系デーン人F2)が襲来 |
1244年 | カタリ派の砦 モンセギュール陥落 |
フランス諜報機関 英国諜報機関 vsエフタル |
カタリ派の中枢は既にブルガリアに帰還しており、残党が必死にノルマン人連合の猛攻に耐えていたが カタリ派最後の砦、モンセギュールの砦が陥落、残党はみな処刑された |
1236年 | ブルガリア・ニカイア同盟 | エフタル ブリテン系デーン人A3 vsフランス諜報機関 vsノルマン人 vsロンバルディア人 |
ブルガリアとニカイアが同盟し、コンスタンチノープルを陥落 |
1265年 | キプチャク汗国、ノガイ ブルガリア遠征 |
ブリテン系デーン人F2(藤) ブリテン系デーン人F2(平) vsエフタル |
当時、ブルガリアはイタリア系ノルマン勢力としてビザンツを攻撃していた、やはり元寇はビザンツ帝国援護の 性格も一方で備えていたといえる |
1321年 | 最後の完徳者 ギョーム・ベリパスト逮捕 |
フランス諜報機関 vsエフタル |
1330年を過ぎると異端審問所の資料からカタリ派の名前は消えていった、信徒たちは山中や森に逃れ、 各地へ離散していった |
1330年 | 第二次ブルガリア帝国 セルビア人に大敗 |
ブリテン系デーン人A2 vsエフタル |
ビザンツの中枢はモンゴル軍の支援により、モスクワに移転していたが、ロシア諜報機関に追放され セルビアに拠点を築いた、セルビアはローマ帝国の後継のひとつだ ブルガリアは、そのセルビアに大敗 |
1396年 | オスマントルコ帝国侵攻 第二次ブルガリア帝国滅亡 |
ブリテン系デーン人F2(藤) ブリテン系デーン人F2(平) ブリテン系デーン人A3(ビ) トルコ人 vsエフタル |
新興のオスマントルコ帝国が、ブルガリアのすぐ南方にあたるトラキア地方のアドリアノープルを 征服すると、ブルガリアはその直接の侵攻にさらされるようになり、オスマン帝国に服属を余儀なくされた オスマン帝国はさらにブルガリアの直轄地化を徐々に進め、1396年までに全ブルガリアは併合、 第二次ブルガリア帝国が滅亡した |