古代デーン人第三次大航海時代〜地中海ルート
「キリスト教」
シュメール文明・ユダヤ人を創った人々
メソポタミア文明A
年代 |
できごと | 勢力 | 内実 |
---|---|---|---|
BC113年 | キンブリ人、テウトニ人侵入 | ブリテン系デーン人A2 vs新デーン人 |
初期ゲルマン人(デーン人の分家)を使った新デーン人によるローマ侵略の一環 |
BC105年 | アラウジオの惨劇 | ブリテン系デーン人A2 vs新デーン人 |
初期ゲルマン人(デーン人の分家)を使った新デーン人によるローマ侵略の一環 |
BC102年 | アクェセクスティエの戦闘 ヴェルケレの戦闘 |
ブリテン系デーン人A2 vs新デーン人 |
ローマ軍、キンブリ人、テウトニ人を全滅させる |
BC95年 | アルメニア王国 (コリントスの中枢移転) シリア・レバノンを支配 |
旧デーン人B2 vsブリテン系デーン人A3 |
マケドニア人を支配して一時は世界帝国を築いたコリント人はアルメニア人を支配してレバノン、シリアという 過去の領土を奪還した |
BC87年 | ポセイドニオス旅行 | ブリテン系デーン人A3 旧デーン人B2 vsブリテン系デーン人A2 |
ストア派の哲学者ということで、アテネ系の諜報員だったと考えられる、彼が新デーン人の勢力圏をくまなく 調査して歩き、その成果がアテネ人によるフランク人の支配、コリント人によるゴート人支配に寄与した 折りしも、キンブリ人・テウトニ人のローマに対する脅威が解決した直後に旅行に出ているのが興味深い |
98年 | 「ゲルマニア」 タキトゥス著 |
ブリテン系デーン人A3 旧デーン人B2 vsブリテン系デーン人A2 |
この100年ほどでアテネ系の諜報員がゲルマン人勢力圏を調査・研究し、見えない帝国、新デーン人の 存在・勢力圏を発見、新デーン人を叩くべく、新デーン人配下のゲルマン人諸族に蜂起を打診、同時に ローマ帝国撃破を画策出自が明らかでないタキトゥスは明らかに諜報員だろう |
10年代 | ドルイド教禁止 | ブリテン系デーン人A2 vs新デーン人(本土系) |
初代皇帝アウグストゥスがローマ人に限定してドルイド教を禁止した、新デーン人の研究結果だろう これは、ブリテン系デーン人A2vs新デーン人(本土系)の戦いでもあった |
20年代 前半 |
イエス洗礼を受ける | 古代デーン人C(キ) vsブリテン系デーン人A2 vs古代デーン人C(ユ) |
キリスト教はユダヤ系の諜報員(ヨハネ、十二使徒)によって作られた、目的はローマ帝国制覇 諜報員がキリスト教の頭脳を司り、イエスがキリスト教の顔を司った |
20年代 | ドルイド教排斥 | ブリテン系デーン人A2 vs新デーン人(本土系) |
次代皇帝ティベリウスがドルイド、預言者、まじない師の輩を排斥した |
28年 | イエス・キリスト処刑 | 古代デーン人C(ユ) vs旧デーン人B2 vs古代デーン人C(キ) |
イエスは最初から殺されることになっていた、筋書きの方が先に出来ていたのだ ヨハネ、ペテロ、十二使徒の連中はすべて承知していたが、ただユダだけは 自分が裏切り者の役を与えられていたことを知らなかった |
30年〜 32年 |
ヘレニスト派迫害 | 旧デーン人B2 古代デーン人C vsブリテン系デーン人A3 |
ヘレニストとはギリシャ語を話すユダヤ人(ブリテン系デーン人A3、B連合)が核を成す キリスト教の一派である、彼らはユダヤ本家からのキリスト教強奪を謀った 当初は旧デーン人B2所属の諜報員であったパウロとしてはアテネ系デーン人連合勢力は 排除しなければならなかった |
35年 | ステファーノ処刑 | 旧デーン人B2 vsブリテン系デーン人A2 |
ヘレニスト(ブリテン系デーン人A3、B連合)のリーダー、ステファーノは石打の刑に処され、 パウロはそれを直に見届けた |
36年 | 洗礼者ヨハネ処刑 | 旧デーン人B2 vs古代デーン人C |
ユダヤ勢力内の勢力争いの結果だろう、ヘレニストの報復かもしれない |
40年代 | ドルイド教攻撃 | ブリテン系デーン人A2 vs新デーン人(本土系) |
4代皇帝クラウディウスはドルイド教を徹底攻撃、ケルト出身のローマ騎士が「ヘビの卵」 と呼ばれるドルイドの護符を懐に入れていたため処刑したという |
43年 | ローマ軍侵攻 | ブリテン系デーン人A2 vsブリテン系デーン人 vsダーナ神族 |
ブリテン島はブリテン系デーン人Aグループの故地であるが、BC220年頃に本家デーン人 の分家、ダーナ神族が侵攻していたため、故地奪還の意味もあった可能性がある |
51年〜 57年 |
パウロの伝道 (コリントスの中枢) |
旧デーン人B2 vs古代デーン人C vsブリテン系デーン人A2 vs新デーン人 |
パウロはアルメニアの勢力範囲であるキリキア出身であるが、その点を取ってみれば彼がコリント人 旧デーン人B2の諜報員だったと考えることが出来る、とにかく、ローマ帝国国民がみなキリスト教徒に なったならば、ローマ帝国はキリスト教を背後で操るコリント人のモノになるのだ 宗教の布教、それは侵略は起きていないということだ、侵略の悪意も行為も存在しないがローマ帝国は 隅々まで完全に蹂躙されるということである、つまり、この方法は被支配者の反逆を正当化しないのだ ところで、有能な諜報員パウロを殺されたコリント人はユダヤ人を放棄、ゴート人・スウェード人を使って キリスト教を広め、ローマ帝国制覇、新デーン人制覇をもくろむようになる |
58年 | モナ島侵攻 (ブリテン島) |
ブリテン系デーン人A2 vsダーナ神族 |
当時、ローマ帝国内のドルイド教も問題視されており、根を絶つ必要に迫られていた |
60年 | ブーディカの乱 (ブリテン島) |
ブリテン系デーン人A2 vsブリテン系デーン人 |
ブリテン島は、古来からブリテン系デーン人の支配下にあった、この時、デーン人支配下のイケニ族が ローマ軍に対して蜂起、ブーディカはドルイド教の巫女であったと考えられる もちろん、脇にはデーン直属の吟遊詩人(諜報員)たちが待機し、指揮系統を担っていた |
64年 | 第1回キリスト教徒迫害 | ブリテン系デーン人A2 新デーン人(本土系) vs古代デーン人C |
ローマ皇帝が新デーン人勢力であるドルイド教徒を排斥し始めたおり、さらにユダヤ勢力である キリスト教の拡大を懸念した新デーン人がゲルマン人の使徒をネロの下へ派遣、ネロを操る ドルイド教を使ってケルト人を支配していた新デーン人はキリスト教の拡大を懸念していたのだ ドルイド教の吟遊詩人(諜報員)は欧州中に散っており、新デーン人はヨーロッパ最大の 情報網を有していたと考えられる、逆にユダヤ人諜報員は新デーン人のことを把握していなかった |
64年 | ローマ大火 | キリスト教徒の迫害に対するユダヤ側の反応だと考えられる、ネロのせいにされた | |
65年 | ペテロ処刑、パウロ処刑 | ブリテン系デーン人A2 新デーン人(本土系) vs古代デーン人C |
キリスト教を操るユダヤ勢力の両巨頭が排除されたが、後続がキリスト教を継承 しかし、キリスト教はのちにデーン人に乗っ取られ、世界を席巻することになる |
66年〜 73年 |
ユダヤ戦争 | 古代デーン人C vsブリテン系デーン人A2 |
キリスト教作戦が失敗したユダヤ人がキレた、エッセネ派、パリサイ派、サドカイ派の3つの 勢力があったが、サドカイ派はデーン勢力だった可能性がある、イエスやヨハネが 属していたエッセネ派が消滅し、サドカイ派も消滅したが、本流のパリサイ派が生き残る |
68年 | ネロ自殺 | ネロは、デーンの使い(ゲルマン人)と共謀し、すべてを知っていたため 頭がおかしいことにされ、ゲルマン人に殺されたのだろう |
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80年 | カレドニア(スコットランド)侵攻 | ブリテン系デーン人A2 vsダーナ神族 |
ローマ軍がいよいよブリテン島に於けるデーン人の本拠地に侵攻 これは、デーン史始まって以来、初の本土(第二だが)侵攻という危機だっただろう |
84年 | モンス・グラウピウスの戦闘 (カレドニア) |
ブリテン系デーン人A2 vsダーナ神族 |
カレドニア人が敗北、ローマ人はブリテン島全土の平定を宣言、ヴォタディニー族(ケルト人) を介し、スコットランドを間接的に支配した、この頃、本家デーンは大陸における 対フランク人、ゴート人対策に追われ、ブリテン島は放置していたと考えられる |
85年 | 第1ダキア戦争 | 新デーン人(本土系) vsブリテン系デーン人A2 |
当然、バックには新デーン人の悪意がある |
97年 | 漢帝国遠征 (シルクロード) |
西域諸国支配のため中央アジアに遠征、将軍班超は部下、甘英をローマに遣わすが、 パルチアの商人に騙され、ローマ帝国を目の前にしながらたどり着けず |
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2世紀 | ゲルマン人大移動 | 反デーン系勢力 vs新デーン人(本土系) |
反デーン系ゲルマン人がドルイド教(デーン勢力)から逃れるためにローマ帝国領内に侵入 この当時はまだローマ帝国を乗っ取ろうという意図は無かっただろう、ただ、ローマ帝国に 救済して欲しいという気持ちだったのではないか |
104年 | 第3ダキア戦争 | 新デーン人(本土系) vsブリテン系デーン人A2 |
162年の第14ゲルマニア戦争に至るまでゲルマン勢力はなぜか沈静化する 多分、デーンは奴隷貿易に励み、次の侵攻まで力と財力を蓄えることに専念したのだろう |
120年代 | ハドリアヌスの長城建設 (カレドニア) |
ブリテン系デーン人A2 vsダーナ神族 |
対ローマ軍の戦闘に際しては本家デーンからの援軍もあったと考えられる |
135年 | ディアスポラ開始 | ユダヤ人の流浪生活が始まる、キリスト教を使った作戦は失敗したので エルサレムを出て欧州に散ることを考えたのだろう、例え、異国でもそこにユダヤ人 がいれば、そこはユダヤ人の土地になるのだ、キリスト教作戦の逆説的方法だ |
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140年代 | アントニヌスの城壁 (カレドニア) |
ブリテン系デーン人A2 vsダーナ神族 |
対ローマ軍の戦闘に際しては本家デーンからの援軍もあったと考えられる |
150年 | ゴート族移住 | ゴート人 vs新デーン人(本土系) |
反デーン系ゲルマン勢力の台頭を告げる一派、ゴート族が勢力を拡大 |
150年 | 「ミトラ教」 | イラン系アーリア人 vsブリテン系デーン人A2 |
ペルシア人がユダヤ人のキリスト教、新デーン人のドルイド教・シビュラの神託に対抗し ミトラ教を確立、ローマ帝国のテイキングオーバーを試みた |
160年代 | ローマ軍後退 (カレドニア) |
ブリテン系デーン人A2 vsダーナ神族 |
ローマ人はカレドニアの直接支配を断念、たぶん新デーン人が腕によりをかけた 陰謀を駆使したのだろう |
166年 | クァード人・マルコマン人侵攻 | 新デーン人(本土系) vsブリテン系デーン人A2 |
西欧、スラヴ圏での奴隷要員拉致とシルクロードを介した交易は引き続き行なわれていたと 思われるが、数百年かけて商売に集中し、かなりの財を成した結果、ローマ帝国を再度 攻略する機運が芽生えたのだろう、新デーン人の分家筋と考えられるクァード族とマルコマン族 がドナウ川を渡りアキレイアを一時攻囲、が、駆逐される |
177年 | キリスト教徒リンチ事件 (ガリア) |
新デーン人(本土系) vs古代デーン人C |
ドルイド教の中心地、ガリア、リヨンに於いてドルイド教徒によるキリスト教徒のリンチが発生 ドルイド教を使って影から欧州を統治していた新デーン人にとって、ユダヤ勢力である キリスト教は脅威であった、ただ、ローマの学者はこれらの動きを認識出来ていなかった |
202年 | セヴェルス帝のキリスト教対策 | 新デーン人(本土系) ブリテン系デーン人A2 vs古代デーン人C |
皇帝はゲルマン人諜報員、または神託(新デーン人の意志)などにより操作されているだろう |
212年 | カラカラ帝の布告 | 新デーン人(本土系) ブリテン系デーン人A2 vs古代デーン人C |
皇帝はゲルマン人諜報員、または神託(新デーン人の意志)などにより操作されているだろう |
224年〜 226年 |
ササン朝ペルシア アルメニア軍が侵攻 |
新デーン人(北亜系) 旧デーン人B2 vsイラン系アーリア人 |
フン族はアルメニア王コスロー1世の指揮の下、イベール人やアルバニア人と共に ササン朝ペルシア攻撃のために進撃した |
234年 | 「マニ教」 | 古代デーン人C vsイラン系アーリア人 |
ユダヤ人はキリスト教を作り、ローマ帝国のテイキングオーバーを試みたが、今度は マニ教を作り、ペルシアのテイキングオーバーを計画 ゾロアスター、シャカ、イエスを預言者として認めていた、ということで、のちに、仏教、 キリスト教、ゾロアスター教のテイキングオーバーをも画策していたフシが窺える |
242年 | フランク人侵攻 | フランク人 vsブリテン系デーン人A2 vs新デーン人 |
フランク族、ゴート族はローマ帝国を手中にし、新デーン人の帝国に対抗したかった ローマ攻略は彼らの目的ではなく、新デーン人に対抗する手段確保であった |
248年 | キリスト教徒リンチ事件 | 新デーン人(本土系) vs古代デーン人C |
アレクサンドリア(エジプト)も新デーン人(ドルイド教)の勢力圏であった証だ |
250年 | デキウス帝の迫害 | 新デーン人(本土系) vs古代デーン人C vsフランク人 |
皇帝はゲルマン人諜報員、または神託(新デーン人の意志)などにより操作されているだろう 勅令を持って全ローマ市民に神々(新デーン人)への供犠を要求したが、長続きせず、 251年にデキウスの死を持って除かれた、この頃には反新デーン人勢力であるフランク人が 対新デーン人、ドルイド教対策としてキリスト教を保護し始めたのではないか |
252年 | ササン朝ペルシア アルメニアに侵攻 |
イラン系アーリア人 vs旧デーン人B2 |
ギリシャ時代から、ペルシア人は天敵だったが、昔のように対等に敵対することが出来なかったのは コリント人にとってさぞ屈辱だっただろう |
253年 | フランク人侵攻 | フランク人 vsブリテン系デーン人A2 |
ガリア、イスパニア、ラヴェンナまでの北イタリア地方をアルマン族、フランク族が却掠 |
257年 | キリスト教詩人コモディアスの詩 | ゴート人 vsブリテン系デーン人A1a vs新デーン人 |
世の終わりに先立って出現するというローマ帝国の駆逐者としてのゴート人に言及した 何万の軍と共に襲来し、神の指令によってローマ人を打倒するであろう、と |
258年 | キリスト教迫害の勅令 | 新デーン人(本土系) ブリテン系デーン人A2 vs古代デーン人C |
新デーン人は反新デーン人勢力であるフランク人、ゴート人がキリスト教を保護していることを 突き止めたのだろう、勅令の内容は非常に厳しくなっている |
276年 | フランク人侵攻 | フランク人 vsブリテン系デーン人A2 |
ガリア、イスパニア、ラヴェンナまでの北イタリア地方をアルマン族、フランク族が却掠 |
287年 | ローマ帝国 アルメニア奪還 |
ブリテン系デーン人A2 vs旧デーン人B2 |
ギリシャ時代から、ローマ人は天敵だったが、昔のように対等に敵対することが出来なかったのは コリント人にとってさぞ屈辱だっただろう |
301年 | 「アルメニア正教」 | 旧デーン人B2 vsブリテン系デーン人A3 vs新デーン人 |
キリスト教を国教に定めた世界初の国となった、そこには領土を死守したいコリント人の強固な意志がある |
4世紀 | フランク人 軍の要職に就く |
フランク人 vsブリテン系デーン人A2 vs新デーン人 |
コンスタンティヌス1世の治世にフランク人が属州軍司令官や親衛隊長などの要職を得る 対ローマ帝国というよりは対新デーン人の帝国という決意がフランク人の躍進に見える |
4世紀 | フランク人 名誉コンスルの地位を得る |
フランク人 vsブリテン系デーン人A2 vs新デーン人 |
新デーン人の帝国はローマ帝国制覇と裏切り者のゲルマン諸族制覇の両方を夢見ていたが この件はフランク人の新デーン人に対する牽制となった |
303年 | キリスト教徒大迫害 | 新デーン人(本土系) ブリテン系デーン人A2 vs古代デーン人C vsフランク人 |
260年、ガリエヌス帝の頃にはフランク人がローマ軍の要職に就くことが多くなったためか 緩和政策が成されたが、ここにきて再度、新デーン人が勢いを盛り返したのだろう |
303年 | カルタゴ市 ドナトゥス派誕生 |
古代デーン人C vsフランク人 vsゴート人 |
キリスト教を乗っ取ったゲルマン人に対抗するため、本家本元のユダヤ人が作った組織 と見られる |
311年 | ガレリウスの寛容令 | フランク人 ゴート人 vs新デーン人(本土系) vsブリテン系デーン人A2 |
背後にはフランク人、ゴート人諜報員の暗躍があるだろう |
312年 | 対マクセンティウス戦 | フランク人 ゴート人 vs新デーン人(本土系) |
先のガレリウスの寛容令に触発され、東方ではキリスト教擁護派のリキウスが新デーン人勢力 であるマキシミヌス・ダヤと、西方ではキリスト教擁護派のコンスタンティヌスと新デーン人勢力 であるマクセンティウスが敵対、覇権争いが生じた シビュラの神託(新デーン人勢力)がマクセンティウスの勝利を高らかに予言したが、敗北 |
313年 | ミラノの勅令 | フランク人 ゴート人 ブリテン系デーン人A2 vs新デーン人(本土系) |
ついにフランク人、ゴート人が新デーン人に勝利、ドルイド教、シビュラの神託の影響力を 排除した |
315〜 336年 |
対異教政策 | フランク人 ブリテン系デーン人A2 vs古代デーン人C |
ユダヤ人にキリスト教改宗を要請 |
319年 | 対異教政策 | フランク人 ブリテン系デーン人A2 vs新デーン人(本土系) |
魔術(ドルイド教)、卜占(シビュラの神託)を禁じる、これに怒った新デーン人(本土系)は 東方にいる同胞に欧州蹂躙(ローマ帝国)・裏切り者(フランク人)の駆逐を打診した ※郵便制度はこの当時からあったのだろう、意志を同胞に正確に伝えるために |
325年 | アリウス派、異端認定 | フランク人 vsゴート人 |
ローマ帝国は単なる舞台であった、ユダヤ人、デーン人、フランク人、ゴート人、 時にはペルシア人が権力闘争をめぐって争われた舞台であった ゴート人はフランク人と利害を異にするためにわざわざ異端と認定されたアリウス派に改宗 |
332年〜 338年 |
アルメニア王国 マスクト族侵攻 |
新デーン人(本土系) vs旧デーン人B2 |
マスクト族の王、サネサンがアルメニアの王コスロー3世と戦争、その際、あらゆる種類の 部族から成る軍隊を率いた、その軍勢の中にフン族がホンクの名で登場する |
341年 | ゴート王国 アリウス派に帰依 |
ゴート人 vsフランク人 vs新デーン人(本土系) |
ドルイド教の勢力下から脱するためにキリスト教に帰依、また、フランク人と利害を異にする ためにアリウス派に帰依したと考えられる ゴート族の他にゲピード族、ヴァンダル族、アラマン族、ランゴバルド族も帰依したらしい |
341年 | 異教寺院閉鎖 | フランク人 ブリテン系デーン人A2 vs新デーン人(本土系) vsゴート人 |
ドルイド教、シビュラの神託の神殿など、新デーン人(本土系)の拠点が駆逐された ゴート人勢力であるアリウス派の教父も追放された |
350年頃 | ササン朝ペルシア アルメニア軍侵攻 |
新デーン人(北亜系) 新デーン人(絹道系) 旧デーン人B2 vsイラン系アーリア人 |
ついにフン族が、アラン族と共にアルメニア王アルシャーク2世の陣中に出現、 ササン朝ペルシアに進撃した |
370年 | フン族 アラン(アーリア)族を撃破 |
新デーン人(北亜系) vs新デーン人(絹道系) |
新デーン人は、東方にいる同胞に欧州蹂躙(ローマ帝国)・裏切り者(フランク人)の駆逐を打診 匈奴は、新デーン人(北亜系)の中枢に導かれ欧州に出現 途中でエフタルの中枢を成していた新デーン人(絹道系)と合流したが、いさかいがあったのか フン族がアラン人を撃破する事態となった |
371年 | 東ゴート王国 フン族侵攻 |
新デーン人(北亜系) 新デーン人(絹道系) vs東ゴート人 |
ゴート族の臣下の一部(サルマティア系ロソモン族)は王を捨ててフン族の下に投降した 打ち破られた東ゴート族はフン族により滅ぼされ、捕虜になった者は女・子供とも虐殺された 処刑の残酷さは限度を知らなかったという 新デーン人勢力による反デーン系ゲルマン勢力の制裁だ |
380年 | カトリック国教主義宣言 | フランク人 ブリテン系デーン人A2 vs新デーン人(本土系) vsゴート人 vs古代デーン人C |
フランク人は、背後からローマ皇帝を操り、ライバルのゴート人、ユダヤ人、 宿敵の新デーン人の権限行使を廃し、90%制したといえる |
381年 | 異教寺院への参拝禁止 | フランク人 ブリテン系デーン人A2 vs新デーン人(本土系) vsゴート人 vs古代デーン人C |
違反者は追放されることが決定、382年、385年、392年には更に厳しくなる |
383年 | 異端・分離派取締規定 | フランク人 ブリテン系デーン人A2 vs新デーン人(本土系) vsゴート人 vs古代デーン人C |
フランク人の諜報員は新デーン人がフン族という未知の野蛮人を操作して復讐を企てている 旨を察知したのだろう、これらは国民を固くカトリックに統一することで新デーン人の蹂躙、特に 国内異教徒の反体制勢力としての使用を未然に阻止した上で新デーン人に対抗しようという 下準備といえるだろう |
383年 | ローマ軍vsフン族 (パンノニア) |
フランク人 ブリテン系デーン人A2 vs新デーン人(北亜系) vs新デーン人(絹道系) |
ローマ軍の長、フランク人バウトはパンノニアにいたフン族、アラン族を攻撃し、ラエチア地方 に進軍するよう仕向けた、当時、ラエチアはアラマン族の部族連合に参加していた ユトゥング族に占領されていた |
389年 | マニ教迫害 | フランク人 ブリテン系デーン人A2 vs古代デーン人C |
テオドシウス大帝がマニ教信者に恥辱を加えた上で処刑 |
390年頃 | カルタゴ市 ペラギウス布教 |
ブリテン系デーン人 vsフランク人 vsブリテン系デーン人A2 vs古代デーン人C |
ブリテン島出身の修道士ペラギウスがカルタゴ市で布教、数十年前からドルイド教や神託を 行なう神官団がフランク勢力であるローマ皇帝により異端の決定を下され、迫害が徹底し 始めた頃であったが、そのためにブリテン系デーン人はドルイド教に見切りを付けたのだろう、 代わりに、フランク人に倣いキリスト教の乗っ取りを謀った、ペラギウスのカルタゴ布教は その一環だったと思われる、しかし、彼はゴート人が襲来すると真っ先に逃げ出したという |
394年 | マクシムス斬首刑 | 新デーン人(北亜系) 新デーン人(絹道系) ブリテン系デーン人A2 vsフランク人 |
ガリア地方出身の雄弁家、マクシムスはフランク族の将軍、アルボカストにより皇帝にされた が、テオドシウスによりミラノ近郊で敗戦、斬首された、テオドシウスはフン族の協力が あったため勝利した、反デーン系ゲルマン勢力撃退のためにローマ帝国側と共闘 |
395年頃 | フン族侵攻 (シリア) |
新デーン人(北亜系) 新デーン人(絹道系) vsブリテン系デーン人B |
フン族は町を破壊し掠奪しただけでなく住民をも連れ去った |
395年 | ローマ帝国が東西に分裂 | ブリテン系デーン人A3 vsブリテン系デーン人A2 |
東ゴート勢力が東ローマ帝国を、そして、西ローマ帝国は西ゴート勢力とフランク勢力に 二分されていた |
397年 | フン族侵攻 | 新デーン人(北亜系) 新デーン人(絹道系) vsブリテン系デーン人A vsブリテン系デーン人B |
シリアとカッパドキアを徹底的に破壊尽くしたため、住民は全滅、エルサレムとテュロスは 敵を迎える準備をし、他の中東諸国は恐怖のとりこになったという |
5世紀 | 西ローマ帝国 ホノリウス即位 |
フランク人 ブリテン系デーン人A2 |
テオドシウス1世の息子、ホノリウスはヴァンダル族出身の将軍、スティリコの娘と結婚 |
5世紀 | 東ローマ帝国 テオドシウス2世即位 |
フランク人 ブリテン系デーン人A2 |
テオドシウス2世は、フランク族出身のバウト将軍の娘を母に持つ |
5世紀頃 | アーサー王が欧州征服 | 新デーン人(北亜系) 新デーン人(絹道系) vsブリテン系デーン人A2 vsフランク人 |
アーサーとはじつはアッチラのことではないだろうか、この当時、欧州を制覇した人々と いえばフン族だからだ、時期的に言ってもアッチラは5世紀に王に即位している |
410年 | 西ローマ帝国 アラリック1世、ローマ占領 |
フランク人 ゴート人 vsブリテン系デーン人A2 |
ヴァンダル族・フランク族をローマ帝国の中枢に侵入させ、西ゴート族は外から武力で侵攻 反デーン系ゲルマン人連合の協力関係が見える、この時は対デーン戦略のために一致団結 していたが、彼らは後に、再度、敵対することになる |
410年 | ローマ軍撤退 (ブリテン島) |
ブリテン系デーン人 vsブリテン系デーン人A2 |
これを機にフランク人がアングル人、サクソン人を、新デーン人(本土系)がジュート人を派遣 ブリタニアに於けるポストローマの覇権をめぐり、凌ぎをけずりあうことになる それを見ておもしろくないのは、1000年近く前からブリテン島北部の支配を任されていた ダーナ神族と、古来からのブリテン島の主、ブリテン系デーン人であった |
411年 | カルタゴ市 ドナトゥス派批判 |
フランク人 古代デーン人C(反逆派) vs古代デーン人C |
マニ教を作ったユダヤ人諜報員の一味だったと思われる聖アウグスティヌスだが、彼は キリスト教(フランク勢力)に寝返り、かつての仲間が作ったドナトゥス派を非難 |
412年 | カルタゴ市 ドナティスト強制改宗 |
フランク人 古代デーン人C(反逆派) vs古代デーン人C |
ユダヤ勢力を、反体制勢力として新デーン人に使用されることを未然に阻止するために 行なったと思われる |
430年 | 東ローマ帝国 フン族と条約締結 |
新デーン人(北亜系) 新デーン人(絹道系) vsブリテン系デーン人A3 |
フン族の勢力は勢いを増したため、テオドシウス2世はフン族と条約を結ばざるを得なくなる 毎年金350ポンドを渡す約束をした |
430年 | カルタゴ市 ヴァンダル人襲来 |
ゴート人 vs古代デーン人C vsフランク人 |
ゴート人が、キリスト教を自分達のものにするためにドナトゥス派のユダヤ勢力、 アタナシウス派フランク人勢力を駆逐するためにアリウス派ヴァンダル人を投入 |
434年 | 東ローマ帝国vsフン族 | 新デーン人(北亜系) 新デーン人(絹道系) vsブリテン系デーン人A3 |
反デーン系ゲルマン勢力下にあった東ローマ帝国から口実をつけた上で金品横領 |
436年 | ササン朝ペルシア フン族侵攻 |
新デーン人(北亜系) 新デーン人(絹道系) vsイラン系アーリア人 |
新デーン人(本土系)の意向を受け、ローマ帝国、反デーン系ゲルマン人征伐を停止、 ペルシアに目を向けるが、フン族はペルシア軍に敗北、再び欧州に向かう |
445年 | アッティラが王に即位 | 新デーン人(本土系) 新デーン人(北亜系) 新デーン人(絹道系) vsフランク人 vsブリテン系デーン人A2 |
匈奴としてモンゴル高原で日本の天孫勢力と対立していた新デーン人(北亜系)は本家の危機を 耳にし、指揮官としてアッティラ等、騎馬民族を率い、途中でエフタルの中枢を形成していた 同胞の新デーン人(絹道系)と合流、故郷の欧州に帰還 新デーン人連合は、反旗を翻したゲルマン人たち、ローマ人を駆逐するべく、更に最高指揮系統 である新デーン人(本土系)と合流、欧州で戦闘を繰り広げる アッチラは、中央アジアから中央ヨーロッパ、バルカン半島に跨る大帝国を建設、 だが、それは同時に新デーン人の帝国ということでもあった |
450年〜 500年 |
アングル人、サクソン人 ジュート人の侵攻 (ブリテン島) |
フランク人 新デーン人(本土系) vsブリテン系デーン人 |
アングル族がイースト・アングリアを、ジュート族はケント地方、サクソン族がエセックス、 ウェセックス地方を占領、ジュート族は新デーン人勢力である |
450年〜 | ケント王国 (ブリテン島) |
新デーン人(本土系) vsブリテン系デーン人 vsフランク人 |
ドルイド教ケルト人勢力の戦力としての機能に見切りを付けた新デーン人は配下である ジュート人を、後にカンタベリー大主教、ロチェスター大司教の本拠地となる、 カンタベリーを含むケント地方に送り込みケント王国を建設させる ヴァイキング時代にはデーンローの新デーン人を受け入れ、カンタベリー大司教、 ロチェスター大司教は新デーン人勢力としてアルフレッド大王を操った |
450年〜 | ノーサンブリア王国 イースト・アングリア王国 マーシア王国 (ブリテン島) |
アングル人(フランク系) vs新デーン人(本土系) vsブリテン系デーン人 |
ローマ軍も手こずったドルイド教、ブリテン系デーン人の本拠地でフランク勢力のアングル人が健闘 だが、さすがにダーナ神族が棲むスコットランドには侵攻出来なかった |
450年〜 | エセックス王国 ウェセックス王国 サセックス王国 (ブリテン島) |
サクソン人(フランク系) vs新デーン人(本土系) vsブリテン系デーン人 |
ローマ軍も手こずったドルイド教、ブリテン系デーン人の本拠地でフランク勢力のサクソン人が健闘 だが、さすがにダーナ神族が棲むスコットランドには侵攻出来なかった |
450年〜 | ドゥムノニア王国 |
ブリテン系デーン人 vsアングル人(フランク系) vsサクソン人(フランク系) vs新デーン人(本土系) |
ドルイド教、古来からのブリテン島の主、ブリテン系デーン人勢力の国 |
451年 | 西ローマ帝国 カタラウヌムの戦闘 |
ゴート人 ブリテン系デーン人A2 vs新デーン人(本土系) vs新デーン人(北亜系) vs新デーン人(絹道系) |
西ローマ帝国と合同でフン族を撃退、新デーン人勢力は一時落胆する |
453年 | アッティラ暗殺 | ブリテン系デーン人 vs新デーン人(本土系) vs新デーン人(北亜系) vs新デーン人(絹道系) |
西ローマ帝国、反デーン系ゲルマン人連合に敗北したアッティラは制裁として新デーン人の 刺客に暗殺される、或いはブリテン系デーン人が本家の目を盗み、死んだことにして アッチラを拉致、豪傑を迎えることでブリテン系デーン人勢力圏の保護を任せたのではないか それがアーサー王の伝説のネタのモトになったのではないか、どっちにしても フランス語読みのアルチュールはアッチラに似ていなくもない |
476年 | 西ローマ帝国崩壊 | ゴート人 vsブリテン系デーン人A2 |
キリスト教でローマ市民の思考を奪ったあと、武力でローマ帝国の支配システムを強奪 新デーン人勢力に対抗する手立て、全てが完成 |
481年 | フランク人統一 | フランク人 vsゴート人 |
クロヴィスがガリア地方を本拠地にフランク族を統一 新デーン人にとってローマ帝国以外の初の脅威となる |
486年 | シャグリウス領 ソワソンの戦い |
ブリテン系デーン人A2 vsフランク人 |
ガリア北部を支配していた西ローマ系の軍閥、シャグリウスを撃退 |