ギリシャ文明の継承者・ビザンツの末裔
ブリテン系デーン人A3の帝国 V
モスクワ公国・ポーランド王国・リトアニア公国
アシュケナージ
◆古代デーン人◆
第一次大航海時代(北極海ルート)
バルト海・ジーラント・スカンジナビア半島東岸(古代デーン人Z1/旧デーン人の先祖)
スカンジナビア半島西岸北岸・古代フィンランド・古代ロシア地方(古代デーン人Z2)=サーミ人
シベリア(古代デーン人Z3)=エヴェンキ族、ブリヤート族
第二次大航海時代(大西洋ルート)
ブリテン島・アイルランド島(古代デーン人Y1/海の民の先祖)
古代フリース地方(古代デーン人Y2a)
古代バスク地方(古代デーン人Y2b)
古代ルシタニア地方(古代デーン人Y2c)
カナリア諸島(古代デーン人Y3)
第三次大航海時代(大西洋・地中海・紅海・ペルシア湾・インド洋・太平洋ルート)
エーゲ海(古代デーン人Aグループ)=地中海・サルディーニャ島・エーゲ海
エジプト・アフリカ(古代デーン人Bグループ)=エジプト・テーベ・ヌビア・アフリカ大陸・紅海・ベドウィン族
メソポタミア/シュメール人・ヘブライ人(古代デーン人Cグループ)=ペルシア湾・ウバイド人
インド・東南アジア(古代デーン人Dグループ)=カッチ・ハラッパー・マレー半島・セレベス島
東アジア(古代デーン人Eグループ)=日本東北地方・沖縄・朝鮮半島
南北アメリカ(古代デーン人Fグループ)=南北アメリカ大陸
古代デーン人A(サルディーニャ人、シチリア人、クレタ人、ロードス島、キプロス島、キクラデス諸島)
古代デーン人B(B1a/テーベ、B1b/ヌビア、B2/ベドウィン・プント王国、B3/エジプト王朝)
古代デーン人C1(シュメール神官団A/ヘブライ人)=(ユダヤ人/C1a、イスラエル人/C1b)
古代デーン人C2(シュメール神官団B)=(カッシート人/C2a、アッシリア人/C2b)
古代デーン人D(ダーサ人、パニ人、カッチ人、チャンダーラ、デミアル人、ワナ人、ポリネシア人)
古代デーン人E(東北・北海道縄文人、蝦夷・アイヌの先祖)
古代デーン人F(ディネ族/ナバホ族・アパッチ族、イサパ文明、アパラチー族他)
※古代デーン人はピクト人として故国に帰還、新デーン人と対立し、敗北、配下となる
◆旧デーン人◆
旧デーン人がメソポタミアに派遣した支配下勢力第一波(旧デーン人A1/旧アラム人、アッカド人)
第二波(旧デーン人A2/アモリ人「バビロニア帝国」、フルリ人「ミタンニ王国」)
旧デーン人がギリシアに派遣した勢力第一波(イオニア人、アケーア人/旧デーン人A3)
第二波(テッサリア人、エオリア人)
第三波(ドーリス人/旧デーン人B)
・アケーア系デーン人(Aグループ)勢力圏=(テーベ市、アルゴス市/ギリシア、サムニテ王国、カンパニア王国/イタリア南部)
※ギリシア系旧デーン人Bグループ(B1/スパルタ市、B2/コリント市、B3/ポカイア市)
・スパルタ系デーン人(B1)勢力圏=(スパルタ市、クレタ島、ロードス島、リビア、サイス朝エジプト王国)
*コリント系デーン人(B2)の派閥*
コリント・シュラクサ(旧デーン人B2a)
アンチゴノス朝マケドニア(旧デーン人B2b)
セレウコス朝シリア(旧デーン人B2c)
プトレマイオス朝エジプト(旧デーン人B2d)
マウリア朝マガダ(旧デーン人B2e)
旧デーン人がエジプトに派遣した支配下勢力(ヒクソス人/旧デーン人C1)
旧デーン人が東アジアに差し向けた勢力(旧デーン人C2/殷を建設、その後滅亡)
旧デーン人がアーリア人に差し向けた勢力(キンメリア人/D1、スキタイ人/D2)
のちにキンメリア人、スキタイ人のどちらかがネパール地方に赴きカピラバストゥ王国を建設、仏教を作り出した
旧デーン人支配下の中央アジア勢力:エナレエス(占い師)、アラン人、マゴス神官団
◆ブリテン系デーン人(旧デーン人)◆
ギリシア(ブリテン系デーン人Aグループ)
シリア・メソポタミア(ブリテン系デーン人Bグループ)
エジプト(ブリテン系デーン人Cグループ)
アフリカ(ブリテン系デーン人Dグループ)
インド・東南アジア(ブリテン系デーン人Eグループ)
東アジア(ブリテン系デーン人Fグループ)
大西洋岸南北アメリカ(ブリテン系デーン人Gグループ)
ブリテン系デーン人A=(A1/エトルリア人、A2/ローマ帝国、A3/アテネ市、A3a/ビザンツ帝国、
A3b/ヴェネツィア共和国、A3c/ハザール帝国(アシュケナージ)、A3d/突厥帝国、A3e/ウイグル、A3f/宋)
※アテネ人A3系勢力圏(キリキア、マッシリア、コルシカ島、サルディーニャ北部、シチリア東部、ポントス王国、ボスポロス王国)
ブリテン系デーン人B=(B1/フェニキア人・ペリシテ人・ダン族、B2/新アラム人、B3/新ヒッタイト人)
ブリテン系デーン人C=(C1/エジプト王朝、C2/テーベ・アメン神官団)
ブリテン系デーン人D=(ヨルバ人、マダガスカル島)
ブリテン系デーン人E=(セイロン島、インド南部)
ブリテン系デーン人F1=(F1aA/ミャオ族、楚、太平道、黄巾族、呉、南詔、大理国、白蓮教、F1aB/華僑、F1b/邪馬台国、倭寇)
ブリテン系デーン人F2=(F2aA/皇族、F2aB1/奥州藤原氏・全真教、F2aB2/藤原氏、F2bA/関西平氏、F2bB/関東平氏、
F2cA/粛慎・渤海、女真人・満州人、F2cB/モンゴル人、F2cB1/タタール人、F2cB2/オイラート人、F2d/高句麗・高麗人)
ブリテン系デーン人G=(オルメカ人/ユカタン半島)
◆新デーン人◆
新デーン人A1a/スカンジナビア系デーン人(ケルト人、ドルイド教ローマ人奴隷、ダキア人)、新デーン人A1b(キンブリ人、テウトニ人)
新デーン人A2/中央アジア系デーン人(A2a/エフタル・ヒョーン人、マッサゲタイ人、パルティア人、A2b/チャガタイ汗国、オゴタイ汗国、チムール帝国)
新デーン人A3/東アジア系デーン人=匈奴(A3a)、フン族(A3b)、鮮卑(A3c)、柔然(B)、吐藩(C1)、唐/天台宗(C2)、契丹/遼(D1)、西夏(D2)
新デーン人A4/アルバ系デーン人(スコットランド・アイルランド系カトリック・アイオナ修道院、ティオティワカン帝国)
新デーン人B1/ゴート人(西ゴート王国)
新デーン人B2/フランク人(フランク王国、ノーサンブリア王国、イースト・アングリア王国、マーシア王国、
エセックス王国、ウェセックス王国、サセックス王国、神聖ローマ帝国、エデッサ王国、エルサレム王国)
新デーン人B3/ロンバルディア人(北イタリア地方、ラテン帝国、ジェノヴァ共和国)
新デーン人A1a/デーンロー系デーン人(ジュート王国・カンタベリー大司教座・デーンロー)
新デーン人A1c/スウェード人(バルト三国、キエフ公国、ロシア、ウクライナ)
新デーン人A1d/ノルウェー人(アイスランド共和国、グリーンランド、トルテカ人)
新デーン人A5/デンマーク人(デンマーク王国・カルマル同盟)
ノルマン人A1/フランス系ノルマン人(ノルマンディー公国、フランス王国、外ヨルダン領、ゼンギ朝シリア、カスティーリャ王国、レオン王国、スイス連邦)
ノルマン人A2/イングランド系ノルマン人+新デーン人A1aA(ノルマン朝、ピサ共和国、ナバラ王国、アラゴン王国)
ノルマン人A3/イタリア系ノルマン人(シチリア・ナポリ王国、アンチオキア王国、トリポリ王国、ラテン帝国)
新デーン人A1aB/反逆派、後にルター派を創設(アルモラヴィド帝国、アルモハード帝国、モロッコ王国、ガーナ王国、ブルガリア帝国)
年代 |
できごと | 勢力 | 内実 |
---|---|---|---|
BC5000年以降 | 古代デーン人 第一次大航海時代 北極海ルート |
古代デーン人 | 古代デーン人はケルト人に高性能の船を作らせ、ユトランド半島から大航海時代へと出発した 第一次大航海時代ではデーン人はバルト海を北上し、スカンジナビア半島を発見、南部に植民 更にスカンジナビアを北上し、北部に植民、サーミ人の祖先となる、更に北上した一派は北極海を就航 ロシア北部の北ドビナ川、ペチョラ川、オビ川を遡り、奥地に侵入、フィン人、スラヴ人の祖となったと考えられる |
? | オロンテス朝 アルメニア王国 |
旧デーン人B2 vsイラン系アーリア人 |
アルメニアがマケドニアの手を借り、オロンテス朝としてアケメネス朝から独立した |
BC190年 | アルメニア王国建つ | 旧デーン人B2 vsブリテン系デーン人A3 |
ローマにコリントを破壊されたコリント人の中枢がアルメニアに移動したと考えられる |
BC146年 | コリントスの戦闘 (アルメニア移住の切欠) |
ブリテン系デーン人A2 vs旧デーン人B2 |
マケドニアの背後にコリント人がいることを知っていたローマ人はコリントスを完全に破壊したという コリント人は中枢に指揮され、その後、アルメニアに移動したと考えられる |
BC113年 | キンブリ人、テウトニ人侵入 | ブリテン系デーン人A2 vs新デーン人 |
初期ゲルマン人(デーン人の分家)を使った新デーン人によるローマ侵略の一環 |
BC105年 | アラウジオの惨劇 | ブリテン系デーン人A2 vs新デーン人 |
初期ゲルマン人(デーン人の分家)を使った新デーン人によるローマ侵略の一環 |
BC102年 | アクェセクスティエの戦闘 ヴェルケレの戦闘 |
旧デーン人B2 vsブリテン系デーン人A3 |
マケドニア人を支配して一時は世界帝国を築いたコリント人はアルメニア人を支配してレバノン、シリアという 過去の領土を奪還した |
BC95年 | アルメニア王国 (コリントスの中枢移転) シリア・レバノンを支配 |
旧デーン人B2 vsブリテン系デーン人A3 |
マケドニア人を支配して一時は世界帝国を築いたコリント人はアルメニア人を支配してレバノン、シリアという 過去の領土を奪還した |
252年 | ササン朝ペルシア アルメニアに侵攻 |
イラン系アーリア人 vs旧デーン人B2 |
ギリシャ時代から、ペルシア人は天敵だったが、昔のように対等に敵対することが出来なかったのは コリント人にとってさぞ屈辱だっただろう |
287年 | ローマ帝国 アルメニアを奪還 |
ブリテン系デーン人A2 vs旧デーン人B2 |
ギリシャ時代から、ローマ人は天敵だったが、昔のように対等に敵対することが出来なかったのは コリント人にとってさぞ屈辱だっただろう |
301年 | 「アルメニア正教」 | 旧デーン人B2 vsブリテン系デーン人A3 vs新デーン人 |
キリスト教を国教に定めた世界初の国となった、そこには領土を死守したいコリント人の強固な意志がある |
? | 旧デーン人B2の中枢 ロシア地域へ移動 |
旧デーン人B2 vsスラヴ人 |
この当時、旧デーン人B2の中枢はアルメニアに拠点を据えていたが、ローマ帝国、ササン朝ペルシアに 狙われていたため安住の地を求め、ロシア方面に調査隊を派遣、波状的に移動していたと考えられる |
476年 | 西ローマ帝国滅亡 (西ローマ人大移動) |
ブリテン系デーン人A2 (西ローマ系) |
この時にエトルリア、古代ローマの系譜を継ぐブリテン系デーン人A勢力の中枢が西と北スラヴ人の土地に 逃亡したと考えられる、ビザンツ系が南部、西ローマ系が西部・北部(ノヴゴロド・ポーランド地域)に拠点を築いた |
640年代頃 | ハザール帝国分離 | ブリテン系デーン人A3 vs新デーン人 vsスウェード人 |
ユーラシア・シルクロード地域を支配していた新デーン人勢力(匈奴・鮮卑・契丹)に対抗するために アジア系デーン人に対して突厥帝国、欧州系デーン人に対してハザール帝国が建てられたと考えられる ハザール帝国は、のちのヴァイキング時代にはロシア勢力(スウェード人)と対立 |
730年〜 | ハザール帝 ユダヤ教に改宗国 |
ブリテン系デーン人A3 vs新デーン人 vsイスラム勢力 |
突厥帝国から分化した別働隊的なビザンツの中枢が現地の遊牧民を従えて建てた帝国 |
800年代 | 東スラヴ民族 ハザール帝国に貢ぐ (リトアニア公国の前身) |
ブリテン系デーン人A3 vs古代デーン人 |
東スラヴ人はハザール帝国に貢物をしていた、後に東スラヴ人がリトアニア公国を建てるが、貢物をして支配下に あった以上、彼らの背後にはハザールを支配していたブリテン系デーン人Aの中枢が控えていたと考えて もおかしくない、つまり、ハザールの中枢がハザール滅亡後にリトアニアニ赴き、東スラヴ人を使いリトアニア公国 を建てたのだハザールの末裔、アシュケナージはリトアニア・ポーランドを拠点に勢力を拡大したのだろう |
830年 | モラヴィア王国 (西ローマの中枢移転) |
ブリテン系デーン人A2 (西ローマ系) |
西ローマ帝国が滅亡したあと、ローマ人の中枢がスラヴ人地域に移転、モラヴィア王国の下地を作った のではないか、つまり、「ゲルマン人大移動」でゲルマン人が地中海地方に侵入したが、代わりに 「ローマ人大移動」もあったのだ 彼らはここを拠点にし、更に波状的に北上、ポーランド、ノヴゴロドと勢力圏を確立したと考えられる モラヴィア王は当初、フランク人、デーン人と利害を異にし、同胞のビザンツと同調する目的で正教会を国内に 布教させたかったが謀反が起こり、カトリックが布教され、東フランク王国配下に下がった |
830年〜 | スウェード人植民 (ルス・カガン国) |
スウェード人 vsスラヴ人 |
新規デーン勢力であるスウェード人(ワリアギ)がレニングラードを流れるネヴァ河を通りラドガ湖に侵入、彼らは アルディギャボルィ(旧ラドガ)と呼ばれる植民地を建設 当初は、新デーン人の命により、スラヴ人を支配する旧デーン人B2勢力掃討のために去来したと考えられるが 協力を打診され、初期の頃は共同でスラヴ全域を共同支配する考えで同意していたと思われる ※ルスというのは民族の名称ではなく、スウェード人と旧デーン人B2による諜報機関の名称ではないか? |
862年 | スウェード人植民 ノヴゴロド公国建つ |
ブリテン系デーン人A2 vs旧デーン人B2 vsスウェード人 |
ロシアの建国者、リューリクがワリアギの傭兵を招いてノヴゴロドを支配、リューリクはスラヴ人と考えられるが 彼の背後には当然ブリテン系デーン人A2勢力(西ローマ系)が控えていただろう、彼らはスラヴ全域を支配下 に置くことを考え、スウェード人に協力を打診したものと考えられる |
800年代末 | サーマーン朝 マムルークの採用開始 |
ブリテン系デーン人A3 vsイスラム勢力 |
サーマーン朝がマムルークの採用を開始したが、マムルークのほとんどはハザールが飼いならした キプチャク出身であった、そのため、イスラム勢力中枢にブリテン系デーン人Aの勢力が 容易に侵入するようになった |
868年〜 905年 |
トゥールーン朝独立 | ブリテン系デーン人A3 vsイスラム勢力 |
ハザールの中枢勢力下にあったマムルークが建てた王朝、のちにシーア派が反乱を起こし、アッバス朝が トゥールーン朝を倒した |
900年代前半 | モラヴィア王国滅亡 | ブリテン系デーン人A3 vsブリテン系デーン人A2 |
ビザンツの系統であるマジャール人が西ローマの系統であるモラヴィア王国を破壊 ローマから逃げてきたローマの中枢は更にポーランドに逃亡する |
900年代 | アルメニア人の ディアスポラ |
旧デーン人B2 | セルジュークトルコ、モンゴル、チムールの侵攻により国土が荒廃、アルメニア人が故国を捨てる(ディアスポラ) ことになった、旧デーン人B2の中枢は今度はロシアに移動し、スラヴ人を支配したと考えられる |
955年 | ガズナ朝建つ | ブリテン系デーン人A3 vsイスラム勢力 |
ハザールの中枢勢力下にあったマムルークがサーマーン朝に変わってアフガニスタンを支配 後にサーマーン朝そのものを倒したという |
966年 | ハザール帝国滅亡 | スウェード人 旧デーン人B2 vsブリテン系デーン人A3 |
キエフは周辺の領域をも征服、当時最も大きいハザール汗国を撃退、キエフ公国となる スラヴ人の背後にいた旧デーン人B2とスウェード人は組んでいたのだろう 旧デーン人B2(コリント人)とブリテン系デーン人A(アテネ人、ローマ人)ギリシア時代からの敵同士だった その後、ハザール人はユダヤ教徒としてロシア、ポーランド、ドイツなどに流入、アシュケナージと呼ばれる |
980年 | キエフ公国 キリスト教に改宗 |
スウェード人 旧デーン人B2 |
ワリアギ(スウェード人・ルス人)がキリスト教に改宗、スウェード人の思惑はノルマン人の思惑と 一致していたのだろう |
1000年代 | キプチャク攻勢 (ハザールの中枢移転) |
ブリテン系デーン人A3 | ロシア人(旧デーン人B2・スウェード人)に滅ぼされたハザールの中枢は2手に別れ、キプチャク支配と リトアニア支配に勢力が分化した |
1025年 | ポーランド王国建つ (西ローマの中枢移転) |
ブリテン系デーン人A2 vs古代デーン人 |
マジャール人に第二の故郷(モラヴィア)を破壊された西ローマ人中枢は現ポーランド地方に逃亡 現地のスラヴ人(古代デーン人の末裔)を支配し、ポーランド王国の基礎を作った |
1054年 | 東西教会の分裂 | 新デーン人 ノルマン人 フランク人 vsスウェード人 vs旧デーン人B2 vsブリテン系デーン人A2 vsブリテン系デーン人A3 vs新デーン人(反逆派) |
ノルマン人・新デーン人・フランク人(イギリス・フランス・神聖ローマ帝国)とスウェード人 ブリテン系デーン人A(ロシア・ウクライナ・ビザンツ帝国)による縄張り争いの線引きだといえる |
1223年 | キプチャク勢力圏に モンゴル軍侵入 |
ブリテン系デーン人F2 ブリテン系デーン人A |
キプチャクの中枢を担っていたハザール系の人々は同じ祖を持つモンゴル軍と共謀 |
1237年 | キプチャク モンゴル軍の攻撃を受ける |
ブリテン系デーン人F2 ブリテン系デーン人A |
ハザール系の中枢がモンゴル軍と結び、反対派を排除、ロシア、欧州に進撃の準備をする 一部は奴隷としてエジプトに売られたが、中には奴隷を演じた諜報員が潜んでおり、後にマムルーク朝を建てる |
1240年 | ノヴゴロド公国 スウェーデン軍侵攻 |
ブリテン系デーン人A2 スウェード人 vsスウェーデン人 |
ブリテン系デーン人A3勢力であるアレクサンドル・ネフスキーがスウェーデン軍を壊滅させた |
1240年 | バトゥ、 キエフ公国占領 |
ブリテン系デーン人F2 vs旧デーン人B2 vsスウェード人 |
ブリテン系デーン人F2勢力であるモンゴル軍が、同胞の西ローマ系、ビザンツ系、ハザール系の敵である ロシア諜報機関(旧デーン人B2・スウェード人)勢力を壊滅させた、そのおかげでビザンツ本国は復活し、 更にビザンツ系はモスクワ、ハザールはリトアニア、西ローマ系はポーランド、キプチャク(ハザール別働隊) はエジプト(マムルーク朝)、ハンガリーを手中にした |
1241年 | ワールシュタットの戦闘 | ブリテン系デーン人F2 ブリテン系デーン人A2 ブリテン系デーン人A3 vsハンガリー軍 vsポーランド軍 |
蒙古軍はハンガリー軍・ポーランド軍を全滅させ、神聖ローマ帝国に侵攻するが、あまりのウンコの多さに驚き 引き返した、当時の欧州諸都市は下水設備が崩壊しており、市民はみな道路に排泄物を捨てていたのだ 当初の計画では、蒙古軍はブリテン系デーン人A勢力の手引きにより、敵勢力であるフランク人勢力 フランス、イングランドのノルマン人勢力、新デーン人勢力を掃討する手筈だったのではないか |
1243年 | キプチャク汗国建つ | ブリテン系デーン人F2 ブリテン系デーン人A vs旧デーン人B2 vsスウェード人 |
ハザール帝国を滅ぼした旧デーン人B2+スウェード人に危惧を抱いていたビザンツの援護と言える モンゴル軍はキプチャク(ハザール支配下)と共にロシア地域を支配 |
1200年代 | クン人(キプチャク) ハンガリー平原に侵入 |
ブリテン系デーン人F2 ブリテン系デーン人A vsハンガリー人 |
クン人と呼ばれたキプチャクはモンゴル軍に指揮され、計画的にハンガリーに移住したと考えられる ポーランド・ハンガリー侵攻はもともとそういう旧来勢力の一掃という意図があったのだろう |
1246年 | リトアニア公国建つ (ハザールの中枢移転) |
ブリテン系デーン人A vs古代デーン人 |
ハザールの中枢として機能していたブリテン系デーン人Aの勢力が東スラヴ人の背後に控えながらリトアニアを 建国、特にユダヤ人を保護したというが、アシュケナージを育てる土壌となっただろう リトアニアは旧デーン人B2がスウェード人と共同で統治していたロシア地方に侵攻、同胞のモスクワを援護 結局、モンゴル軍はギリシャ系勢力(アテネの血統)の残党を救援するために派遣されたのだ |
1250年 | マムルーク朝 エジプト王国建つ |
ブリテン系デーン人A ブリテン系デーン人F2 vsイスラム勢力 |
ハザールとモンゴル(藤原氏の血統を継ぐ日本人諜報員)の中枢が共同で策謀を繰り広げ、エジプト王国を掌握する |
1259年 | イル汗国、十字軍 ダマスクス攻略戦 |
ブリテン系デーン人F2 ブリテン系デーン人A3 vsフランス諜報機関 vs英国諜報機関 |
当時のダマスクスはマムルーク朝支配下にあった、つまり、ブリテン系デーン人A3支配下にあった 同胞のモンゴル軍はノルマン人勢力の味方を演じながらノルマン人の邪魔をし、 逆にマムルーク朝を援護していたと考えられる |
1261年 | ビザンツ帝国復活 | ブリテン系デーン人A ブリテン系デーン人F2 vsノルマン人連合 vs新デーン人(反逆派) vsイスラム勢力 vsロシア勢力※ |
祖を同じくするブリテン系デーン人F2勢力のモンゴル人がビザンツの敵を一掃することで間接的にビザンツ帝国 復活に寄与、西欧やイスラム勢力から逃れるためにロシア地域に国を建てることを企図していたと考えられる ブリテン系デーン人Aだがそれを証明するかのようにモスクワ大公国が時を同じくして成立しているのが興味深い ところだ ※ロシア勢力=旧デーン人B2+スウェード人 |
1263年 | モスクワ公国建つ (ビザンツの中枢移転) |
ブリテン系デーン人A vs旧デーン人B2 vsスウェード人 |
アレクサンドル・ネフスキーがブリテン系デーン人勢力である証として、同じブリテン系デーン人勢力である モンゴル人とは仲良くしていたという事実がある モスクワはもともと旧デーン人勢力下にある街だったが、そこをモンゴル軍が襲い、焼き尽くしたのだった しかし、すぐに再建された点を見るとブリテン系デーン人は最初からモスクワを狙っており、 同士のモンゴル人に要請して、旧モスクワの町を破壊したという可能性がある |
1318年 | モスクワ遷都 | 旧デーン人B2 スウェード人 vsブリテン系デーン人A |
この時にビザンツの末裔が排除され、旧デーン人B2とスウェード人の諜報機関がモスクワを遷都し ロシアの中枢となったかもしれない、なぜなら子の後は、モスクワ公国が同じビザンツ系のリトアニアと争うからだ |
1320年 | ポーランド王国統一 | ブリテン系デーン人A2 ブリテン系デーン人A3 |
モスクワ遷都でロシア諜報機関(※)に追い出されたブリテン系デーン人A3(ビザンツ系)はポーランドに逃亡 同胞のブリテン系デーン人A2(西ローマ系)と合流、ポーランドを統一したと考えられる ある意味、ローマ帝国の再来と言えるが、これもモンゴル軍がポーランドを建国した古代デーン人の血統をひく スラヴ人勢力を蹴散らしたおかげだといえる |
1386年 | リトアニア・ポーランド連合 | ブリテン系デーン人A2 ブリテン系デーン人A3 vsロシア諜報機関 |
|
1391年 | ビザンツ帝国滅亡 | イスラム勢力 vsブリテン系デーン人A3 |
その後、ビザンツの中枢であるブリテン系デーン人Aの残党は祖を同じくする同士としてヴェネツィア共和国、 同じく、祖を同じくするポーランド王国に逃れたと考えられる |
1410年 | タンネンベルクの戦闘 | リトアニアがドイツ騎士団を撃破 | |
1478年 | ノヴゴロド王国滅亡 | ロシア諜報機関 vsブリテン系デーン人A2 vsスウェード人 |
西ローマ系勢力とスウェード人の一部勢力が支配していたノヴゴロドがロシア諜報機関の支配下に下る |
1558年 | リヴォニア戦争 | ||
1569年 | ルブリン合同 ポーランド・リトアニア共和国 |