ブリテン系デーン人Gの帝国 マヤ文明
ピラミッドと山岳信仰
ダーナ神族 トルテカ人・イツァー人・アステカ人
年代 |
できごと | 勢力 | 内実 |
BC1200年 | 海の民、ブリテン島出発 地中海侵攻 |
ブリテン系デーン人 | 海の民が地中海に侵攻、ヒッタイト帝国を滅ぼし、シリアを破壊し、ラムセス朝エジプトに挑戦した このブリテン系デーン人Aグループとは別に、Gグループが南アメリカ大西洋岸に侵攻した |
BC1000年 | オルメカ文明の中心地 (サン・ロレンソ)崩壊 |
ブリテン系デーン人 vs現生人類 |
オルメカ文明が何者かによって破壊されたという、ちょうど、海の民(ブリテン系デーン人)が地中海.地方に侵攻した 時期(BC1200年代)と重なる |
BC1000年〜 BC700年頃 |
マヤ文明、スウェージー・ ブレーデン期 |
現生人類 | ポップコーン用のトウモロコシの小さな穂軸の他、ヤムイモ、ココヤム、マニオクなどの根茎類が含まれていた |
BC900年〜 BC400年頃 |
コパン、先古典期中期 ウィール期「オルメカ化」 |
ブリテン系デーン人 | 先古典期前期の終わり頃にオルメカ化していった、オルメカに似た刻文土器が製作されオルメカ的な石造モニュメント まで創られた、この擬似オルメカ現象はコパン谷にも波及していた |
BC750年頃 | 先古典期中期 マヤ文明の都市ナクベ |
ブリテン系デーン人 | 以前の村の建物を覆うようにして高さ18mに及ぶ大規模な基壇や建物が建てられた |
BC700年〜 BC400年頃 |
マヤ文明、マモム期 | ブリテン系デーン人 | マヤ低地では古い神殿を覆うようにその上に新しい神殿を築いていた |
? | 中期オルメカ文明の中心地 (ラ・ベンタ) |
ブリテン系デーン人 | サン・ロレンソに侵攻したブリテン系デーン人たちが支持者の現地人を連れてラ・ベンタに移ったのだろうか? |
BC300年〜 AD250年 |
先古典期後期マヤ文明 | ブリテン系デーン人 | マヤ低地の古典期文明は洗練された暦を持ち、独特の文字を使用していた、石灰岩の石組みで持ち送り式の 天井がある部屋を持つピラミッド神殿や宮殿を造った |
BC500年頃 | 古代デーン人大航海時代 中南米太平洋岸に到達 |
古代デーン人E | カナダ北西部を拠点とし、南下、北米太平洋岸を順に下り、デーン人の血統を継ぐ蝦夷で構成された 神官を兼務する諜報員部隊がシャーマン文化を残したと考えられる |
BC300年頃 | ナクベ遺跡、最大の建造物 | ブリテン系デーン人 | 先古典期後期のはじめに先古典期中期の基壇を覆って建てられたもの |
BC220年頃 | ダーナ神族、ブリテン島 アイルランド急襲 |
ダーナ神族 vsブリテン系デーン人 |
ブリテン系デーン人がブリテン島、アイルランドを支配していたが、新デーン人の一派、ダーナ神族が急襲 この時、ダーナ神族はユカタン半島のことを知ったに違いない、一方、ブリトン人はルシタニア人に救援を要請 ダーナ神族はアイルランド、現イングランド地方から駆逐され、影の国アルバ(スコットランド)に収まります そして興味深いことに、この20年後にダーナ神族によるティオティワカン帝国が建てられるが、 ブリテン島での情勢が、ユカタン半島に見事に反映されている |
BC200年〜 BC50年頃 |
イサパ文明(太平洋岸) | 古代デーン人E | イサパ様式を特徴付けるのは洗練された芸術様式であり、それはベラクルス州の海岸地帯にあるトレスサポテスから グアテマラの太平洋岸の平野部、更にはマヤ高地のグアテマラシティー周辺まで広い範囲に渡って分布する 石彫モニュメントに見出すことが出来るという、また表面に川原石を張った土盛りの神殿マウンドが80以上もある 土盛りの墓は日本の古墳を連想させるが、古代デーン人が陸伝いに1000年ほどかけて南米までたどり着いた のだろうか?それとも、ミクロネシア・ポリネシアの人々がたどり着いて造った文明だろうか? |
? | 古代デーン人大航海時代 フエゴ諸島に到達 |
古代デーン人E | ヤーガン族にシャーマン文化を残したと考えられる、この後、大西洋岸を北上しながらシャーマン文化を伝え続けた |
BC200年〜 600年頃 |
軍事大国ティオティワカン | ダーナ神族 vsブリテン系デーン人 |
マヤ低地がティオティワカンに侵略された、ティオティワカンは宗教都市であり、「神々の都市」という意味を持っていた 後にこの地を訪れたアステカ人が命名したという、白い神、ケツアルコアトルも崇拝されていた この時期にブリテン島に侵攻したダーナ神族がそのままユカタン半島にまで足を伸ばしたのだ |
? | 古代デーン人大航海時代 フロリダ半島に到達 |
古代デーン人E | BC4000年頃にブリテン島を出発し、アフリカ、紅海、ペルシア湾、インド洋、東南アジア、日本海、シベリア 南北アメリカ太平洋岸、フエゴ諸島、北上して南北アメリカ大西洋岸と旅してきた古代デーン人の最終到達地点か? 当時のフロリダ半島に住んでいたアパラチ族に古墳文化を伝授したと考えられるが、ブリテン系デーン人の 勢力圏と考えられるユカタン半島付近は迂回したのだろう |
200年頃 | 「羽毛ある蛇の神殿」建設 | ダーナ神族 vsブリテン系デーン人 |
200人もの生贄が捧げられたという、これはデーン人の発想である、つまり、生贄と称して反体制勢力・異分子 (ブリテン系デーン人勢力)などを故意に選択、強制的に排除したということだろう |
250年〜 900年 |
輝けるマヤ文明 古典期前期 |
現生人類 | |
378年 | 偉大なジャガーの足の死 シヤフ・カック到着 |
ダーナ神族 vsブリテン系デーン人 |
ティオティワカンによる征服王朝がはじまったという |
300年代 | コツマルワパ文明 | ピピル人はいつも謎の民族とされたという | |
400年頃 | マヤ文明、エスペランサ期 マヤ高地がティオティワカン の支配下に |
ダーナ神族 vsブリテン系デーン人 |
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435年 | コパン王朝 | ダーナ神族 vsブリテン系デーン人 |
王がティオティワカンと関係があったということでダーナ神族の系統だろう 現ホンジュラスに拠点があったことから、マヤを包囲する形になっているのが興味深い ダーナ神族に何か魂胆でもあったのは間違いがない |
600年頃 | ティオティワカンが破壊される | ブリテン系デーン人 ブルグント人 vsダーナ神族 |
この当時は、ブリトン人がブルグント族を支配してたため、彼等を率いてトルテカ勢力を掃討した可能性がある |
600年頃 | マヤ文明、ツアコル期終焉 | ブリテン系デーン人 | マヤ文明が開花し、石造神殿や宮殿が所狭しとひしめきあっていたという |
684年 | 「十字の神殿」 カン・バラム2世即位 |
ブリテン系デーン人 vsダーナ神族 |
ブリテン系デーン人はこの頃、ちょうどキリスト教にはまっていた、前世紀に聖コルンバがダーナ神族の拠点、 スコットランドに布教を行い、アイルランドカトリックが根付きつつあったのだ 「十字の神殿」創造ということで、この神殿の創造には、ブリテン系デーン人の関与が窺える |
735年 | ドス・ピラスが セイバルに侵攻 |
ダーナ神族 vsブリテン系デーン人 |
ダーナ神族がドス・ピラスの背後にいた可能性がある |
751年〜 790年 |
マヤ文明崩壊 | ダーナ神族 vsブリテン系デーン人 |
長期に渡り維持されてきた国家間の同盟は崩れ、相互の交易も衰退し、隣接する都市国家のあいだで抗争が増加 |
760年〜 830年 |
ドス・ピラス、アグアテカで 防御柵の遺構発見 |
ダーナ神族 vsブリテン系デーン人 |
この頃には多くの宮殿、神殿は防御施設を造るために石材を剥がされて瓦礫の山と化し、住民は防御柵内側の 粗末な萱葺きの家を密集させて敵襲に脅えながら暮らしていた、という とっくの昔に本土と連絡を断っていたブリテン系デーン人と違い、本土と連絡を取っていたアルバ系デーン人が ピクト人(古代デーン人の子孫)などを派遣させ、ブリテン系デーン人勢力を駆逐した、のではないか? |
815年 | ノルウェー人、 アイスランド到達 |
ノルウェー人 ブリテン系デーン人 |
アイスランドはもともとブリトン人が知っていた可能性がある、ノルウェー人ヴァイキングは彼らに先導され、 アイスランドに入植、ブリトン人がイロコイ連邦を支配していた、北アメリカの各拠点にも同行しただろう |
820年 | コパン王朝終焉 | ブリテン系デーン人 vsダーナ神族 |
ブリテン系デーン人が傭兵のノルウェー人と共にダーナ神族勢力を打倒したのだろう |
844年 | ノルウェー人 スペインに南下 |
ノルウェー人 ブリテン系デーン人 vs新デーン人 vsイスラム勢力 |
カディスとセビーリャを掠奪、ノルウェー人は更に北アフリカにまで南下した この時、彼らはルシタニアを死守したいブリテン系デーン人に操作され、イベリア半島勢力圏争いに参加したのだろう |
849年 | セイバル マヤ文明、古典期終末期 |
ノルウェー人 ブリテン系デーン人 vsダーナ神族 |
パシオン川流域の大規模都市であったセイバルは古典期後期に小規模な国家ドス・ピラスに敗戦していたが その痛手からは復興していた しかし、古典期終末期にどこか遠くからやって来た戦士(或いは武装交易者)によって支配されてしまったという 時期から言うと、欧州ではヴァイキング時代の真っ只中であったが、西方ルートに向かったノルウェー人が ブリテン系デーン人に先導され、傭兵として反体制勢力を駆逐したというところか、ドス・ピラスの背後に ダーナ神族がいたかどうかは定かではない |
900年代 | コツマルワパ文明崩壊 | ノルウェー人 | |
900年頃 | トルテカ人戦士集団が ユカタン半島を支配 |
ダーナ神族 vsブリテン系デーン人 |
トピルツィン王はケツァルコアトル「羽毛ある蛇」と呼ばれていたが、ケツァルコアトルは白い神と呼ばれている ということは、ダーナ神族のことだろう ※デーン人以上に好戦的な民族はいないという考えだけで、他に確証は無いのだが |
905年 | ユカタン半島古典期終末期 独特の建築様式発生 |
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982年 | ヴァイキングの首長エイリク グリーンランドに到達 |
ノルウェー人 ブリテン系デーン人 |
新デーン人の貪欲さを考慮、仲間にさえユカタン半島のことは何ひとつ語らなかったのではないか? この時に、25隻のうち、10隻は消えたと歴史に記されているが、その10隻はブリトン人に先導され ユカタン半島に向かったのではないか? |
987年 | ククルカンが西方から到来 チチェンイツアーに新都市建設 |
ダーナ神族 vsノルウェー人 vsブリテン系デーン人 |
このククルカンはユカタン半島を正統な支配者から奪い取りチチェンイツァーに新しい都を建設したという トルテカ人の戦い方は残虐であったというが、ヴァイキングを連想させる ※デーン人以上に好戦的な民族はいないという考えだけで、他に確証は無いのだが チャックモール像等はトルテカ人が創ったが彼らが行なった生贄の儀式もじつは異分子排除であった可能性がある |
992年 | エイリクの息子、赤毛のレイヴ グリーンランド出発 |
ノルウェー人 ブリテン系デーン人 |
マルクランド、ヴィーンランドを発見、帰還したレイヴはこの件を報告、弟のトールヴァルドが 探検に出発、インディアンと戦闘を演じたという、この時にしっかりユカタン半島攻略の拠点を築いたことだろう |
1020年 | トルフィン・カールフセニ アメリカ大陸へ向かう |
ノルウェー人 ブリテン系デーン人 |
目的は入植であったが、到着した冬に食料が不足しキリスト教徒と異教徒の間の対立が悪化 インディアンと交易をしていたが、争いが勃発、この地に定住することは危険と判断しグリーンランドへ引き返したという しかし、実際にはこの後も何度もユカタン半島へ赴いたのではないか |
1156年 | トルテカの首都 トゥーラ破壊 |
ノルウェー人 ブリテン系デーン人 vsダーナ神族 |
ダーナ神族が支配するトルテカ人が、ブリトン人が支配するノルウェー系ヴァイキングと一戦交えた可能性がある |
1200年頃 | イツァー人が移動 | ダーナ神族 vsノルウェー人 vsブリテン系デーン人 |
マヤ人に嫌われていたイツァー人はトルテカ人と同じデーン人の一派だった可能性がある イツァー人がマヤ人に嫌われていた理由はイツァー人が勢力圏争いに負け、トルテカ人が勝った、その上で マヤ人はトルテカ人の支配下にいたと考えられる |
1224年 | 首都チチェン・イツァー放棄 | ノルウェー人 ブリテン系デーン人 vsダーナ神族 |
トルテカ人はこの後、消えてしまったという |
1263年頃 | イツァー人が都市 マヤパンを建設 |
ダーナ神族 vsノルウェー人 vsブリテン系デーン人 |
イツァー人は異国人、ペテン師の無頼漢などと呼ばれ、イツァー人の軍事指導者であったカックパカル(火の楯)は 「われわれの言葉をデタラメに話す人」と呼ばれていたということからユカタン出身ではなかった、という そして、彼らを導いたのは偉大なトルテカ王と同じ、ククルカンという称号を持つ者だった、という |
1428年 | アステカ帝国建つ | ダーナ神族 vsノルウェー人 vsブリテン系デーン人 |
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1441年〜 1461年頃 |
マヤパン滅亡 | ノルウェー人 ブリテン系デーン人 vsダーナ神族 |
マヤパンのフナク・ケエル王が魔術でチチェン・イツァーの王、チャク・シブ・チャクをたぶらかされてイサマル王の 花嫁を誘拐した、という口実にイツァー人が報復を受け、チチェン・イツァーを逃げ出したという また、マヤパンのココム一族も皆殺しになり、栄光の都、マヤパンは破壊されたという イツァー人勢力が攻撃を受けたわけだが、イツァー人はダーナ神族勢力だったわけで、首謀者はブリテン系デーン人か 追放されたイツァー人はその後も命脈を保ち、ペテン・イツァー湖にタヤサルという都市を築いた |
1524年 | エルナン・コルテス タヤサル王に会う |
ルシタニア人(ポルトガル) vsダーナ神族 |
過去、アイスランドのヴァイキングが支配していたと考えられるイツァー人の一派、タヤサル王国のカネク王に コルテスが接触、丁重なもてなしを受けたという、スペインは、懐柔できないまま残った最後のマヤの国に対して 宣教師を差し向け、マヤ人を説得しようと試みたが無駄だったという |
1695年 | フランシスコ修道会 タヤサル王国に宣教 |
フランス諜報機関 vsダーナ神族 |
フランシスコ修道会の修道士、改宗したマヤ人キリスト教徒がカネクの王国を訪れたが、周囲の雰囲気は敵意に 満ちたものであり、カヌーの大船団が楔形の隊形を組んで出現したという、交渉は決裂したが 2年後にスペイン人が軍事的な成功を収めたという、自覚していたかしていなかったは分からないが、新旧デーン人 のユカタン半島に於ける勢力図の交替・刷新ということでもあっただろう |