ブリテン系デーン人Cの帝国
アメン神官団国家・エチオピア帝国・イスラム王朝











年代 できごと 勢力
内実

8000年前 原始農耕 現生人類
BC4000年 ネガデ文化 現生人類
BC4000年? 第三次古代デーン人大航海時代
地中海ルート
サルディーニャ島発見、植民開始
古代デーン人 古代デーン人が第三次大航海時代に出発、地中海、アフリカ方面に分岐、地中海方面に進出した
一派はひとつの島を発見、南方デーン拠点という意味を込めサルディーニャと名付けた
サルディーニャも後に英国諜報機関のいち勢力としてイタリア統一の先鋒となった
BC4000年? 古代デーン人
サルディーニャを拠点に
地中海制覇、北アフリカに植民
古代デーン人 古代のサハラには湖沼が存在し、緑豊かな土地だったと考えられる
BC3800年? 古代デーン人
幻の北アフリカ帝国建国
古代デーン人B サハラの砂漠化にデーン人が関与している可能性がある、当時、燃料は薪なので森が伐採され
砂漠化の要因になったのかもしれない
当時、北アフリカ帝国は近隣のエジプト人と対立していただろう
BC3650年〜
BC1900年
クレタ(ミノア)文明、前宮殿時代 古代デーン人A メソポタミア、インダスに進出するには拠点が必要だったはずだが、それがクレタ島ではなかったか
クレタ文明は古代デーン人が現地人、同行させたケルト人に作らせた文明だったか?
クレタ島に入植したデーン人が
ナイル河口から上流へ遡り
テーベ、ヌビアに入植
古代デーン人A エジプト人勢力圏を迂回し、ナイル河を遡り、テーベ辺りに拠点を築き、アメン神官国家の元型を築く
更にナイルを上昇し、ドルイド教を布教、ヌビア人を支配する
第三次古代デーン人大航海時代
(アフリカ周航ルート)
古代デーン人B フェルナンドポー島、マダガスカル島等を拠点にドルイド教を布教、シャーマン文化根付く
紅海の離れ島に入植
(アフリカ周航ルート)
古代デーン人B エジプト追撃を謀り、紅海側にも勢力圏を置く、ここからアラビア半島に赴き、ベドウィン族をドルイド教で支配し
自身の勢力として育成したと考えられる
BC3500年 マーディ文化 現生人類
BC3000年頃 古代デーン人、神を輸出
創造神トト、エジプトに出現
(地中海ルート)
古代デーン人B 海から来たトトはデーン人だったか?クレタに入植しドルイド教・強権政治によりモノ作りの本能に秀でた
現地人、同行させたケルト人に文明を創造させた、クレタ系デーン人はのちにエジプト進出を謀り、
クレタ島で進出計画の一環として神と神話を製作し、共にエジプト進出を狙っていた同胞、C1、C2勢力と対立する
BC3000年頃 エジプト第一王朝
上エジプト出身のナルメルが
初代ファラオに即位
古代デーン人B エジプト人、ナルメルが上下エジプトを統一し、王位に就けたのはデーン人のおかげだろう
神の意志とは、デーン人の意志なのだ
BC2900年 エジプト第一王朝
デン、ファラオに即位
古代デーン人B 前王ジェトの子かどうかも判然としないが、デンは人物ではなく、民族の名だった可能性がある
それが、クレタ島から侵攻した第三のクレタ系デーン人である
エジプト王国
デン、ベドウィンと戦闘
古代デーン人B(エ)
vs古代デーン人B(ベ)
アフリカ大陸を就航し、何年かかけて紅海に辿りついた勢力が紅海内の島に入植、そこを拠点に
対岸のエジプトの一部住民、アラビア半島住民を影響下に置いていたと考えられる
C2勢力もエジプト侵攻を虎視眈々と狙っていたにも拘らず、C3勢力が王国を建てたので、それが引き金となり
C2勢力がベドウィンを操り、エジプトに侵攻したと考えられる
エジプト第二王朝 ヘリオポリス、太陽信仰が盛んになる
エジプト王国
ホルス神派、セト神派の覇権争い
神の争い、それは諜報機関の争いだ
BC2620年 エジプト王国
サッカラに階段型ピラミッド造営
BC2600年 エジプト王国
神王として絶対的な王権確立
BC2550年 エジプト王国
ギザに大ピラミッド造営
BC2500年代 プント王国出現
(アフリカ周航ルート)
古代デーン人B アフリカを周って紅海の島に入植し、沿岸に勢力圏を築いた古代デーン人Bの国
BC2490年 エジプト王国
「太陽神ラーの息子」
王の称号に「太陽神ラーの息子」が用いられる
BC2100年 ヘラクレオポリス候(第十王朝)
テーベ候(第十一王朝)が共存
古代デーン人B(エ)
vs古代デーン人A(テ)
BC2040年 第十王朝滅亡、全国統一
(古代デーン人Aの中枢)
古代デーン人A(テ)
vs古代デーン人B(エ)
テーベに勢力を張っていたA(テーベ)勢力がB(エジプト)勢力を駆逐、エジプトを統一
BC2000年 エジプト王国
プント王国に遠征
古代デーン人A
vs古代デーン人B(プ)
紅海沿岸に勢力を張っていたB(アフリカ周航ルート)勢力駆逐の意味を込め、A(テーベ)勢力が軍隊を派遣
BC1990年 第12王朝起きる
(古代デーン人Bの中枢)
古代デーン人B
vs古代デーン人A
B(エジプト)勢力の復活、この時、古代デーン人AはヌビアのA勢力と合流しただろう
BC1850年 エジプト王国
ヌビア・パレスティナに遠征
古代デーン人B
vs古代デーン人C
vs古代デーン人A(ヌ)
二度と逆らわないようにAの拠点、ヌビアに侵攻、また小アジアに勢力を展開する古代デーン人C勢力、
新規の旧デーン人討伐のためパレスチナに侵攻
BC1720年 エジプト王国
ヒクソス人が侵攻
(旧デーン人A4の中枢)
旧デーン人A4
vs古代デーン人B
アケーア人、ドーリス人を出陣させた同じ時期に旧デーン人がヒクソスをエジプトに侵攻させた
BC1650年 第17王朝興す
(古代デーン人Bの中枢)
古代デーン人B
vs旧デーン人A4
テーベの豪族が第17王朝を興す
BC1565年 エジプト王国
ヒクソス人を追放
古代デーン人B
vs旧デーン人A4
BC1520年 エジプト王国
ユーフラテス上流まで軍事遠征
古代デーン人B
vs旧デーン人A4
BC1470年 エジプト王国
アメン神官団との確執
古代デーン人B
vs古代デーン人A
vs旧デーン人A4
アジア、ヌビアに盛んに軍事遠征
BC1353年 「唯一神アトン信仰」
アマルナ改革
古代デーン人C(ヘ)
vs古代デーン人B
アメンホテプ4世が多神教を廃止、世界初の一神教を始めた、自身もイクアトンと改名した
がイクアトンの死後、すぐにアトン信仰は廃止され、アモン神官団によりアモン信仰が復活
一神教ということでユダヤ人が背後にいてエジプトを精神的に乗っ取ろうとした可能性が
ある、これが発端となり、100年後にモーセらがエジプトを追放されたのではないか
BC1290年 エジプト王国
ヒッタイト帝国と戦闘
古代デーン人B
vs古代デーン人A
シリアのカデシュでヒッタイトと戦闘
モーセ、エジプト脱出
(古代デーン人Cの中枢移転)
古代デーン人C
vs古代デーン人B
BC1215年 エジプト王国
海の民が侵攻、撃退
ブリテン系デーン人C
vs古代デーン人B
リビア方面から海の民侵攻、撃退
BC1185年 ラムセス3世
海の民の挑戦を受ける
ブリテン系デーン人C
vs古代デーン人B
ラムセス3世に撃退され、シリア人に対する傭兵として現パレスチナに居住を許可され、ペリシテ人となる
エジプト王国
ハーレムの陰謀
ブリテン系デーン人C
vs古代デーン人B
ハーレムに忍び込んだデーン人諜報員がティイという側室をそそのかし、ラムセス3世の暗殺を謀る
「ハーレム陰謀パピルス」に記された裁判の記録によると解決までに4回も公判が行なわれ、
首謀者や加担した者、裁判を行なった判事までが刑罰を受けたという
この判事の部分は興味深い、多分、デーン人の息のかかった判事だったのだろう
新参者、ブリテン系デーン人Cが古代デーン人Bの牙城、デルタ地帯を乗っ取った形になった
BC1100年代 アメン主席神官アメンヘテプ攻勢 ブリテン系デーン人C
vs古代デーン人B
アメンヘテプの背後にいたブリテン系デーン人C勢力がテーベに於いて勢力を拡大
新参者が古代デーン人Bの牙城、アメン神官団を乗っ取った形になった
BC1100年代 テーベvsクシュ 古代デーン人A
vsブリテン系デーン人C
テーベではアメンヘテプ(ブリテン系デーン人C)を頂点にした神官集団とクシュ総督パネヘシ(古代デーン人A)
の率いる集団が一騎打ちの様相を呈したが、ラムセス11世が事態の収拾を図ろうとピアンキ将軍
(古代デーン人B)を派遣、現場はかえって混乱し、三つ巴の戦闘が繰り広げられた
その結果、アメンヘテプは失脚、つまりこの時にブリテン系デーン人C勢力は滅ぼされた
BC1100年代 ピアンキ将軍vsパネヘシ総督 古代デーン人B
vs古代デーン人A
軍人出身のヘリホルに神官職を与えた後、パヘネシ自身は南へ退却したが、その後も古代デーン人A
(テーベ)勢力と古代デーン人B(エジプト王朝)勢力は衝突、最終的に王朝に寄生していた
ブリテン系デーン人C勢力であるピアンキが神官職を得た
BC1080年 「アメン大司祭国家」または
「テーベ神権国家」
ブリテン系デーン人C
vs古代デーン人A
ヘリホルがラムセス11世治世に自らを王と宣言、ここにテーベに於いて主席神官が王として君臨する
自治国家が作られることになった、実際には、ヌビア牽制目的によるブリテン系デーン人Cによる独立国家と
いえる、この時、古代デーン人Aがヌビア、ブリテン系デーン人Cがテーベを支配
していたと考えられる、また、第20王朝末期にはアメン神殿がエジプト全土の神殿領の2/3を占め、
エジプト船舶の90%さまざまな生産工房の80%を所有していたといわれる
BC1070年頃 アメン大司祭国家vsフェニキア人 ブリテン系デーン人C
vsブリテン系デーン人B
レバノンはブリテン系デーン人Bグループが支配していたが、アメン大神殿に仕えるウェンアメンが
聖船アメン・ウセル・ヘを建造するための木材をフェニキア商人に求めたところ、港湾の主は
ウェンアメンの要求に対し「私はあなたの家来ではない」と退けたという
ここに、数百年前に共闘してオリエントに侵攻したブリテン系デーン人勢力同士の対立が見られる
BC1069年 スメンデスの第21王朝成立
(古代デーン人Bの中枢移転)
ブリテン系デーン人C
vs古代デーン人B
デルタ地帯では北の宰相であり、アメン主席神官の称号も持っていた豪商スメンデスが王位に就いた
スメンデスはブリテン系デーン人Cと考えていい、この時、古代デーン人Bは諸勢力に吸収されたと考えられる
BC985年 リビア人オソルコン王即位 古代デーン人B1
vsブリテン系デーン人C
旧デーン人が背後でケルト人を支配していたようにブリテン系デーン人C1も背後でリビア人を支配
元来、デーン人とは表に出るよりも裏に隠れて間接支配を行なうことを心がけた人々であった
BC967年 ソロモン王にエジプト王女が輿入れ ブリテン系デーン人C
vs古代デーン人B1
ユダヤ人国家と婚姻関係を持つことでブリテン系デーン人C1の人々が
イスラエルの支配を狙ったものと考えられる
BC950年 第22王朝
リビア人によるサイス朝
旧デーン人B1
vsブリテン系デーン人C
マアの首長であるオソルコンの甥、シェションク1世が王に即位
マアとはエジプトの警察組織の中で活躍したリビア人軍人のことである、彼らはラムセス朝に仕えながら国家の
敵と同盟を結ぶこともあり単に国家に奉仕するだけの集団ではなく独自の立場を有していた
ということで、リビア人は間違いなく、ドーリス系デーン人B1に支配されていただろう
つまり、ギリシア系デーン人によるエジプト支配体系が成立したということだ
BC900年年代 シェションク1世
エルサレム掠奪
旧デーン人B1
vs古代デーン人C
エルサレムへ攻め上り、ヤハウェの神殿と王宮の宝物を全て奪い取ったという
BC900年頃 ヌビア人
エジプトに侵攻
古代デーン人A
vs旧デーン人B1
vsブリテン系デーン人C
既に数千年前に古代デーン人Aはナイル河を遡り、ヌビア人を支配、エジプト侵攻の道具としていた
BC875年頃 アメン主席神官ハルシエスの反乱 ブリテン系デーン人C
vs旧デーン人B1
ブリテン系デーン人C勢力がスパルタ人勢力に反旗を翻し、アメン神官団国家再建を目論んだ
だが、ハルシエスの死後、テーベは旧デーン人B1勢力により再度平定された
BC858年 アッシリア帝国vsオソルコン2世 旧デーン人B1
ブリテン系デーン人C
ブリテン系デーン人B
vs古代デーン人C
オソルコン2世はビブロス(ブリテン系デーン人B勢力)と組み、カルカルの戦闘でアッシリアを食い止めた
BC830年頃 レオントポリスのパディバステト王 ブリテン系デーン人C
vsギリシア系デーン勢力
明らかにC勢力以外のデーン人勢力と考えられるが、それがエジプト系のものか或いはギリシア系のものかは
わからない、或いはユダヤ勢力の可能性もある
BC830年頃 第23王朝の混乱 ブリテン系デーン人C
vsギリシア系デーン勢力
タニスのオソルコン4世、レオントポリスのイウプゥト2世、ヘラクレオポリスのペフチャウアウイバスト、
ヘルモポリスのニムロトという4名の王が乱立した、この事象は、C1勢力内の権力闘争、或いは、
C2、C3勢力、ギリシア系デーン人(ブリテン系デーン人Aグループ)のエジプトへの介入の可能性がある
BC750年 ヌビア人のテーベ支配 古代デーン人A
vs旧デーン人B1
vsブリテン系デーン人C
デーン人C3が背後にいるヌビア人がC1勢力を排除して一時的にテーベを支配した
BC746年 ヌビア人による
ナパタ朝エジプト王国成立
古代デーン人A
vs旧デーン人B1
vsブリテン系デーン人C
数千年前に古代デーン人Aがエジプト反体制勢力であるヌビア人に肩入れし、戦力として起用、育成した
紅海を勢力圏としていた同胞の古代デーン人Bも影でエチオピア人を支配し、中枢に参加させた
BC740年 第24王朝時代
反ヌビア勢力同盟成立
旧デーン人A
旧デーン人B1
旧デーン人B2
ブリテン系デーン人A
ブリテン系デーン人B
ブリテン系デーン人C
vs古代デーン人A
タニスのオソルコン4世、ヘラクレオポリスのペフチャウアウイバスト、ヘルモポリスのニムロト、
レオントポリスのイウプゥト2世が同盟、この同盟軍はギリシア、フェニキア同盟軍と称して良いだろう
彼らは、ヌビアのピイ率いる軍勢を退けたが、所詮、エサに群がるハイエナなので、ヌビアの策略に
より同盟関係が壊れ、それが原因でナイル河畔はヌビア勢力(古代デーン人A)に席巻された
BC712年 ペリシテの一都市
アデュドドの王が亡命
ブリテン系デーン人B
vs古代デーン人A
vs古代デーン人C
アッシリアの支配を逃れてアシュドドの王がエジプトに亡命したがエジプト王シャバカはアシュドドの王を
アッシリア側へ送還している
なぜなら、当時のヌビア人とアッシリア人は、裏で、同じ古代デーン人に支配されていたからだ
BC701年 ペリシテ諸都市
アッシリアに反乱
ブリテン系デーン人B
vs古代デーン人A
vs古代デーン人C
アッシリアの支配に対し、ペリシテ諸都市がユダ王国と共に反旗を翻し、エジプト王子タハルカが援軍を派遣
したが、アッシリア軍と矛を交えることもなく、エジプトに帰還、反乱は征圧された
なぜなら、当時のヌビア人とアッシリア人は、裏で、同じZY系デーン人に支配されていたからだ
BC7世紀 エジプト王国
ギリシア諸神殿に貢ぐ
ギリシア系デーン勢力 アマシス2世はデルポイの神託所、ギリシア神殿に供物を送り、ギリシア王女を妃にした
完全にギリシア神官団、シビュラの神託(デーン勢力)の支配下にあったと思われる
BC690年 アッシリア帝国が侵攻
ナパタ朝エジプト王国滅亡
古代デーン人C(ア)
vs古代デーン人A(ヌ)
当時のヌビア人とアッシリア人は、裏で、同じ古代デーン人に支配されていたが、この事象は
古代デーン人同士の内乱と捉えて良いだろう
BC674年 エジプト王国
アッシリア軍が侵攻
古代デーン人C(ア)
vs古代デーン人A(ヌ)
タハルカはフェニキア人、シリア人、キプロス人、デルタ地帯に住むエジプト人兵士を動員して撃退
BC671年 エジプト王国
アッシリア軍が再度侵攻
古代デーン人C(ア)
vs古代デーン人A(ヌ)
タハルカは敗北を喫しヌビアへ敗走
BC667年 アッシリア帝国
メンフィスに侵攻
古代デーン人C(ア)
vs古代デーン人A(ヌ)
アッシリア軍がテーベを占拠、663年にはタハルカの後継者、タンワタマニが再度エジプト奪還を狙うが叶わず
ナパタへ帰還し、こうして古代デーン人C1bがエジプトから排除された
BC664年 第26王朝時代 旧デーン人B1
vs古代デーン人A(ヌ)
プサメティコス1世は王権を確固たるものにするためにイオニア人、カリア人傭兵の力を借りた
後継者のアマシスはギリシア贔屓であり、ギリシア傭兵がエジプトに永住することが多く、地中海世界の
ネットワークを活かし商人として成功したギリシア人も大勢いたという
ここに、背後でリビア人を操る旧デーン人B1(ドーリス人)のエジプト支配が復活
BC595年 プサメティコス2世
ナパタへ侵攻
旧デーン人B1
vs古代デーン人A(ヌ)
ナパタには古代デーン人C1bの残党が逃れていると思われるが、プサメティコス2世はナパタを追撃
カリア人、フェニキア人から成る傭兵軍団を派遣、ヌビアには金鉱があるので古代デーン人C1bを駆逐したいのだ
BC570年 エジプト王国
ギリシア人の交易植民地設置
ギリシア系デーン勢力
BC525年 ペルシア帝国
エジプト征服
イラン系アーリア人
vs旧デーン人B1
BC404年 ペルシアから独立
エジプト第28王朝始まる
旧デーン人B1
vsイラン系アーリア人
BC332年 アレクサンドル大王、エジプト征服 旧デーン人B2
vs旧デーン人B1
リビア人の背後からエジプトを支配していたスパルタ系デーン人が同じドーリス人勢力である
コリント系デーン人が支配するマケドニア人に敗北
BC305年 プトレマイオス王朝成立 旧デーン人B2
vs旧デーン人B1
同じドーリス系のスパルタ系デーン人、アテネ系デーン人らの勢力を抑え
オリエントに覇を唱えたコリント系デーン人帝国の一部としてプトレマイオス王朝が建つ
BC250年 「セラピス信仰」 旧デーン人B2
vsエジプト人
プトレマイオス1世がオシリスとアピスの両神を合体させ、セラピスという新しい神を
アレクサンドリアにて創造した、またプトレマイオスはエレウシスから大祭司の家系に
属するティモテウスを招いて祭儀を組織化した
BC196年 ロゼッタストーンが刻まれる
BC32年 ローマ元老院
クレオパトラに宣戦
ブリテン系デーン人A2
vs旧デーン人B2
AD30年 エジプト復興失敗
ローマの属州となる
ブリテン系デーン人A2
vs旧デーン人B2
エジプト王朝時代の終焉





















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