年代
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できごと |
勢力 |
内実 |
BC6000年頃 |
イラン高原、インダス高原の境界
地域で農耕開始 |
現生人類(インダス) |
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BC4000年頃 |
銅の使用・ロクロの使用 |
現生人類(インダス) |
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BC3300年頃 |
古代デーン人大航海時代
(アフリカ周航ルート)
ハラッパー文化期 |
古代デーン人D
vs現生人類(インダス) |
アフリカを周航してインダス川に到達したエラム人がインダスに拠点を築いたと考えられる |
BC3200年頃 |
エラム王国 (原エラム時代) |
古代デーン人C (アフリカ周航ルート) |
インダスを拠点にしながらシュメール人と貿易を行い、メソポタミアを知ったエラム人は、メソポタミアに
拠点を築くことを画策、それがエラム王国だった
その後、インダスのことを知ったシュメール人はカッチに入植、拠点としたのではないか |
BC3000年頃 |
古代デーン人大航海時代
カッチ入植
(地中海ルート) |
古代デーン人D
vs現生人類(インダス) |
シュメール人はインダス河河口にあるカッチ(グジャラート州)に移民、カッチは変わった土地で
乾季になると地続きになり、雨季になると湿地帯が広がり、大陸と切り離されるのだ
シュメール人はそこを拠点にし、ハラッパー、シュメールの住民と貿易を行なった |
BC2600年〜
BC2000年 |
ハラッパー文化、放棄 |
古代デーン人D
vs古代デーン人D |
エラム人(インダス系)の一部は東アジアに向かった可能性がある、それは波状的に行われ
最終的にハラッパーにいた人々は東アジア、またはエラム王国勢力圏(カナン)に散ったのではないか |
BC2500年〜
BC1800年 |
モヘンジョ=ダロ建設 |
古代デーン人D |
シュメール人(インダス系)がモヘンジョダロを建てた可能性がある、ここを拠点に本拠地と貿易を
続けていたのではないか |
BC2000年頃 |
アーリア人
中央アジアに移住 |
アーリア人 |
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BC1800年頃 |
インダス文明諸都市衰退 |
古代デーン人D
vs現生人類(インダス) |
ハラッパー文化と同様にインダス文明衰退の裏にデーン人の暗躍があったか?推測の域を出ないが |
BC1500年頃 |
アーリア人
西北インドに移住開始 |
インド系アーリア人 |
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BC1500年頃 |
「前期ヴェーダ時代」 |
インド系アーリア人 |
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? |
アーリア人、パンジャブに侵入
ダーサ人に遭遇 |
インド系アーリア人
vs古代デーン人D |
名前の響きからデーン人の可能性がある、デーン人は他の地域ではダヌ、ダナーン、デニエン、エン、
ダーナなどと呼ばれているのだが、とにかく、大航海時代以来、彼らは離島に拠点を置き何度もインドを
来訪している、後のチャンダーラなどの反アーリア人系先住民を検証すれば、デーン人がインダス文明を
破壊し、現地人をドルイド教化していた可能性は否定できない |
BC15世紀頃 |
アーリア人
イラン高原に出現 |
イラン系アーリア人 |
チャリオットを駆ってイラン高原に出現した |
BC1100年頃 |
十王戦争
クル王国(十六大国) |
インド系アーリア人 |
インド系アーリア人の部族が古代デーン人の部族とそれぞれ連合し、戦争をした
結果、敵同士だったバーラタ族がプール族と連合、クル王国が建国される
十六大国が勢力を拡大する時期よりも古い時代にガンジス川上流域で一大勢力を築いたという |
BC1000年頃 |
「前期ヴェーダ時代」後半 |
インド系アーリア人
vs古代デーン人D |
「リグ・ヴェーダ」によると先住民の中のパニ人と呼ばれる種族は富裕であるが貪欲でアーリアの神を祀らず
時には家畜を盗むこともあったと言う、このパニ人がインダス文明時代に活躍していた商人の末裔であった
可能性があるという、パニ人はデーン人に支配されていた人々だろうか?パニ人がどういう宗教を
信仰していたか分かれば確実だが… とにかく悪名高さがデーン人を想起させる、しかし想像の域を出ず |
BC1000年頃 |
ガンジス河流域に移動
「後期ヴェーダ時代」 |
インド系アーリア人 |
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BC1000年頃 |
コーサラ王国(十六大国) |
古代デーン人D
(シュメール人) |
インド系アーリア人による王国と考えられる、コーサラ国は十六大国の中でも最も有力な国の1つであり、
マガダとガンジス川流域の覇権を争ったという、それは、旧デーン人勢力であるシャカ族が
コーサラ王国の勢力圏に住んでいたことからも分かる、伝統的なデーン人の戦法である |
BC1000年頃 |
海の民がインド洋に出現
セイロン島に入植
ランカー島ラーヴァナ神のモデル |
インド系アーリア人
vsブリテン系デーン人E |
ランカー島(セイロン島)に住んでいたラーヴァナ神はデーン人を連想させる、ある程度、史実の寓話化と
いえるのではないか、伝説によるとラーヴァナは征服戦争に乗り出し、インディラ神にも勝利したという |
BC9世紀頃 |
キンメリア人、出陣
ウクライナ平原に出現 |
旧デーン人
vsイラン系アーリア人 |
霧深い黒海北岸に住まい、冥界への入り口を守護する人々とされている、とギリシアの文献に記されている
点が幻の種族、キンメリア人とギリシア系デーン人との関係を臭わせるに充分だろう |
BC9世紀頃 |
マガダ王国(十六大国) |
ブリテン系デーン人E
vs古代デーン人D |
もともとは古代デーン人の国だったらしい、そこへインド系アーリア人が侵入、自分達をバラモンと称し
古代デーン人の権力者をクシャトリアと呼び、格下に置いたと考えられる |
BC8世紀頃 |
「バラモン教」 |
インド系アーリア人
vs古代デーン人D(シュ)
vsブリテン系デーン人E |
インド系アーリア人は、古代デーン人がインダス文明時代に到来し、先住民をドルイド教で支配していた
ことを認識していた、古代デーン人が先住民を反体制勢力として使用することを阻止するため、
古代デーン人の力を封印するため、インド系アーリア人賢者が厳しいカースト制を敷いた可能性がある |
? |
混血バラモン出現 |
ブリテン系デーン人E
vsインド系アーリア人 |
先住民(古代デーン勢力)の中からバラモンと自称する者が出始めた
ガンジスのバラモンは彼らのことをバラモンと自称するに過ぎない者、として蔑視した |
BC700年代 |
ヴァッサ王国(十六大国) |
イラン系アーリア人 |
クル王国の分流だという、つまりイラン系アーリア人の国
最終的にアヴァンティ王国に吸収されたという |
BC675年 |
ペルシア王国 |
イラン系アーリア人
vsブリテン系デーン人B |
ブリテン系デーン人Bグループは3手に分かれてそれぞれフェニキア人、アラム人、新ヒッタイト人を影から
支配した、その一派、アラム人に従属していたペルシア人はアラム人に対して蜂起、ペルシア王国を成立 |
BC672年 |
第一次メディア王国 |
旧デーン人(絹道系)
vsイラン系アーリア人 |
メディア人の族長、フラワルティシュがスキタイ人(旧デーン人)の助力を得て建国 |
BC660年 |
「ゾロアスター教」 |
イラン系アーリア人
vs旧デーン人(絹道系) |
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BC653年 |
スキタイ王
アッシリアと同盟 |
旧デーン人
古代デーン人C2
vsイラン系アーリア人 |
メディア人の同盟者だったスキタイ人が裏切り、アッシリアと同盟、メディア王国を滅ぼす |
BC625年 |
第二次メディア王国 |
イラン系アーリア人
vs旧デーン人(絹道系) |
フラワルティシュの息子、フヴァ・フシュトラがスキタイ人を駆逐、第二次メディア王国を建てた
フシュトラはやがてイラン高原西北部、メソポタミア平原北部(アッシリア)を支配する大国に成長
更にカスピ海沿岸のイラン高原北部を征圧、小アジア、メソポタミア、イラン高原を支配する広域国家を樹立 |
BC600年代 |
シャカの故郷
カピラヴァストゥの語源
迦毘利(カピリ)出現 |
旧デーン人(絹道系)
vsインド系アーリア人
vs古代デーン人D
vsブリテン系デーン人E |
迦毘利(カピリ)、もしくは迦毘羅(カピラ)は釈迦が生まれる以前に存在した仙人であり、現在のヒンドゥー教
サーンキヤ学派(数論外道)の祖とされる人物である、カピリという名は「黄色の頭」の意であり、
その名の通り金髪であったという、彼がデーン人であったのは間違いが無い オリエント、イラン高原に留まっていた旧デーン人勢力が遂にインド亜大陸に登場
バビロニア帝国を築いたアラム人、ミケーネ文明を建てたアケーア人、ギリシャのスパルタ人、
アレクサンドル大王を育てたコリント人、エジプトを一時期征圧したヒクソス人、シルクロードを開発し
中国で陰陽道を建て、朝鮮、日本をも席巻した旧デーン人勢力の血統だ |
BC600年代 |
アーリア社会最下層
「チャンダーラ」発生 |
インド系アーリア人
vs古代デーン人D |
アーリア人に征服された先住民に由来しているというチャンダーラ、バラモンは彼らをデーン勢力として
懸念していた可能性がある、そのために社会最下層として封じ込める必要があった
チャンダーラはそれとわかる印を身につけて歩くことを強制された、という
そうすることで集団ストーカー(異分子排除)などを防止することが出来たと考えられるし、
チャンダーラの多くは森に起源があった、そこからしてドルイド教を連想させるが、彼らは呪術を持つ者と見ら
れており、古代の文献にはチャンダーラの呪術に関する話がさまざまに語られているという
樹木崇拝(樫木)、蛇神崇拝(蛇の卵)、精霊崇拝(妖精伝説)など、容易にドルイド教が連想される |
BC600年代 |
ガナ・サンガ国の興亡
リッチャヴィ共和国(十六大国)
シューラセーナ共和国(十六大国)
マッラ共和国(十六大国) |
旧デーン人(絹道系)
vsイラン系アーリア人 |
北インドにはマハージャナパタ(大国)と呼ばれる国家郡が割拠し、十六大国と称されていた
それらの国々は、部族共和制(ガナ・サンガ)を執る国と、王制を採る国に大別できた
当時のガナ・サンガ国の代表的存在はリッチャヴィ族の国であったが、彼らは先住農耕民の有力部族であり
クシャトリアを自称していたと言う、彼らはデーン勢力ではないか、なぜなら彼らはドルイド教と同じく、
樹木崇拝、蛇神崇拝を行なっていたからだ |
BC600年代 |
ヒヤオナ人vsゾロアスター |
旧デーン人(絹道系)
vsイラン系アーリア人 |
ヒヤオナ人は、ゾロアスターのスピターマ家と対立した部族、デーン人が影でヒヤオナ人を操り
ゾロアスター教の殲滅、または乗っ取りを企んでいたものと考えられる |
? |
スキタイ人の宗教
「エナレエス」 |
旧デーン人(絹道系)
vsイラン系アーリア人 |
菩提樹の皮を用い、生殖能力を失って女性化した男性「おとこおんな」が担う占い師であるというが、
アーリア人系の宗教との類似点が見出せないと言う点がドルイド教との関連を匂わせている |
BC559年 |
アケメネス朝ペルシア帝国 |
イラン系アーリア人
vs旧デーン人(絹道系) |
ペルシア帝国はメディア王国であり、メディア王国はペルシア帝国であった
つまり、イラン系アーリア人の国家に変わりはなかった |
? |
「マゴス神官団」 |
旧デーン人(絹道系)
vsイラン系アーリア人 |
マゴス神官団はメディア王国時代から受け継いだ宗教集団だった、ペルシアには明確な宗教が存在
しなかったためにそのまま引き継いだと言われるが、神官団に取り付くのはデーン人の十八番である
それを裏付けるように、マゴス人の習慣がある、父子相承で記憶する呪文、がそのひとつだが
ドルイド教を容易に連想させるものである
とにかく、デーン勢力と考えられるマゴス人はアーリア人の宗教であるゾロアスター教に執り憑き、汚染して
いた可能性がある、その後にペルシアの賢者がイスラム教を創ったのは英断であった
現代インドのゾロアスター教財閥の多くはマゴス神官団の教義を継承した末裔が創立したものであるという |
BC538年 |
ペルシア帝国
バビロニア王国に侵攻 |
イラン系アーリア人
vs旧デーン人A2 |
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BC530年 |
マッサゲタイ族との戦闘 |
イラン系アーリア人
vs旧デーン人(絹道系) |
ペルシア帝国のクル王が中央アジアのマッサゲタイ族の国に侵攻したが、マッサゲタイ人は女王に
率いられて世界初の大帝国の創始者を討ち取った |
BC525年 |
ペルシア帝国
エジプトに侵攻 |
イラン系アーリア人
vsエジプト系デーン人連合
vsギリシア系デーン人連合 |
マハーバーラタ戦争以来、約2000年ぶりにアーリア人とデーン人が戦火を交える |
BC500〜
479年 |
ペルシア帝国
ギリシアに侵攻 |
イラン系アーリア人
vsギリシア系デーン人連合 |
マハーバーラタ戦争以来、約2000年ぶりにアーリア人とデーン人が戦火を交える |
BC6世紀頃 |
アンガ王国(十六大国) |
古代デーン人 |
ジャイナ教の文献によると、アンガ国の部族はインド系アーリア人であった、しかし「マハーバーラタ」
ダルマ・シャーストラ文献によると、アンガの人々は野蛮人と見なされるムレーッチャの子孫であるとされる
ムレーッチャとは古代デーン人の末裔ではないか?南インドやビルマとの貿易で栄えた、という |
BC6世紀頃 |
カーシー王国(十六大国) |
インド系アーリア人 |
BC6世紀頃に古代デーン人系の王国であるマガダから独立し、シャカの登場する時代の直前までは
インドで最強だったという、しかし、再度マガダ王国に吸収された |
BC6世紀頃 |
パンチャーラ王国(十六大国) |
インド系アーリア人 |
もともとアーリア系であったが、後に共和制を取るようになったという
その際に、古代デーン人勢力になった可能性がある |
? |
マツヤ王国(十六大国) |
インド系アーリア人 |
|
? |
アッサカ王国(十六大国) |
インド系アーリア人 |
|
? |
アヴァンティ王国(十六大国) |
インド系アーリア人 |
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BC6世紀頃 |
ガンダーラ王国(十六大国) |
古代デーン人D |
ガンダーラはヴェーダ時代、カブール河岸からインダス河口までをその疆域としていた、その領域は
ペシャワール渓谷として知られている、のちの時代にガンダーラ人はインダス河を越え、パキスタンの
パンジャーブ州北西部をも領土に含めた、ペルシアと中央アジアの重要な交通路であったガンダーラは
国際的な商業都市として繁栄したという |
BC6世紀頃 |
カンボージャ王国(十六大国) |
旧デーン人(絹道系) |
インドの文献にはカンボージャ人は粗暴で野蛮な人々であると伝えられていること、そして
碑文などの記述される際、必ず隣国のガンダーラ王国と併置されていることから、両者には関係があった
と言われているが、ガンダーラは古代デーン人勢力と考えられるので、旧デーン人はいつか乗っ取ろうと
考えていたのだろう、この後、この地方はペルシア、イスラム帝国に侵攻されたが、その時にカンボージャの
旧デーン人勢力は海を渡り、東南アジアに赴き、クメール王朝を建てたと考えられる |
BC400年代 |
新思想家郡「六十二見」 |
旧デーン人(絹道系)
vsインド系アーリア人 |
東方の地に興った「非正統派」の宗教運動は正統派(バラモン)の弱点を突き、下層民を加えた大きなうねり
となって展開したという、明らかにインド系アーリア人を追撃したいデーン勢力だろう |
BC400年代 |
「仏教」 |
旧デーン人(絹道系)
vsインド系アーリア人 |
旧デーン人がシルクロードを通り、送り込んだ諜報員がシャカに仏教を作らせた
仏教とは欧州の覇者、デーン人によるインド亜大陸征圧、アジア全土征圧だった
この頃に起きたスカンジナビア本土での世代交代により、仏教も旧デーン人から新デーン人に継承された |
BC400年代 |
「六師外道」 |
旧デーン人(絹道系) vsインド系アーリア人 |
ブッダとは相容れない考えを抱く六人の思想家という意味だという、ブッダももともとデーン勢力であったが
ブッダは真の人間の解放を希求していたため、自覚のない反デーン勢力として認知されていたのではないか
六師外道の中にはジャイナ教の開祖、ヴァルダマーナがいた、彼もデーン勢力なのだろう |
? |
リッチャヴィ国の滅亡 |
インド系アーリア人
vs旧デーン人(絹道系) |
リッチャヴィ人は大国のマガダ王国と戦って一歩も退かなかったと言う、ブッダ曰く、彼らの強い理由は
しばしば集会を開き多数が集まること、共同して行動すること、伝統的な法を破らず新たな方を
求めないこと、古老を敬い彼らの言葉を聞くこと、一族の女性に強制や暴力を加えないこと、
祠廟を崇め供物を絶やさないこと優れた出家者を迎え入れ保護すること、だという、これらを見ると
ドルイド教との共通点を見出すことができる |
BC468年 |
「ジャイナ教」 |
旧デーン人(絹道系)
vsインド系アーリア人 |
ジャイナ教徒は小売商や金融業を営んだ、ジャイナ教徒の商人はインド全域の都市に住み、それぞれの
地の実業界で大きな力を持っているという、印矯の祖と言えるだろうか? |
BC350年 |
ナンダ朝マガダ王国 |
旧デーン人(絹道系)
vs古代デーン人D
vsインド系アーリア人 |
マハーパドマは北インドにおけるクシャトリア出身の古い王朝を次々に滅ぼした、恐ろしいシュードラの王
として伝えられている、また、ヴェーダの権威を認めない自由思想家や新宗教家たちを保護したという
これらの記述から、インドに腰を据え、全インドの蹂躙を画策していた旧デーン人がアーリア人との苦闘
の中やっと手に入れた王朝だと考えられる |
BC330年 |
アレクサンドロス大王
ペルシア帝国滅亡 |
旧デーン人B2グループ
vsイラン系アーリア人 |
ギリシア系デーン人が二大アーリア人勢力圏に侵入を画策、まずペルシア帝国を滅ぼした |
BC326年 |
アレクサンドロス大王
インダス河を渡る |
旧デーン人B2グループ
vsインド系アーリア人 |
アレクサンドロスやマケドニア人の背後にいた旧デーン人B2グループ(コリント系ドーリス人)は
古代デーン人から聞いたインドの話を耳に挟んでいたものと考えられる |
BC322年 |
マウリヤ朝マガダ王国
(スパルタの中枢移転) |
旧デーン人B1
vsインド系アーリア人 |
アレクサンドロス大王に行軍していた旧デーン人B2グループ(コリント系ドーリス人)が反体制派の下層民を
味方に付け、古来からのインド系デーン人に代わり、全インドを統一、新しく興した王朝だと考えられる
インド統一とは言え、南方は手付かずだったと言うが、古来から古代デーン人の勢力圏なのだろう
マケドニア本国(旧デーン人B2a)、セレウコス朝シリア(旧デーン人B2b)、
プトレマイオス朝エジプト(旧デーン人B2c)、マウリヤ朝マガダ王国(旧デーン人B2d)と仮称する |
BC305年 |
セレウコス軍
マウリヤ朝に侵攻 |
旧デーン人B2
vs旧デーン人B1 |
旧デーン人Bグループ同士の勢力争い、最終的にB2dグループがアフガニスタンを入手し、B2bグループは
500頭の象を入手、シリアは後に象部隊を用いて西アジアの覇権をかけたイプソスの戦いに於いて勝利 |
BC290年 |
カリンガ王国
(ジャイナ教) |
旧デーン人(絹道系) |
十六大国のひとつ、チェティ王国の分家をカンボージャの旧デーン人の中枢が支援して
東方に移動する途中で建てた国と考えられる、その根拠は彼らが遠方の国々と交易を行ない強大な
海洋王国として栄えたという点だ
また、彼らはマガダ王国を攻撃し、インド・グリーク朝のギリシャ人軍団を退けている |
BC268年 |
マウリヤ朝マガダ王国
アショーカ王即位 |
旧デーン人B1
vs旧デーン人B2 |
アショーカ王は、ジャイナ教を利用する勢力と利害を異にするために仏教に帰依したと考えられる |
BC260年 |
マウリヤ朝マガダ王国
カリンガ国に侵攻 |
旧デーン人B1
vs旧デーン人(絹道系) |
アショーカ王(というかカウティリヤ)は非暴力の政治を行うことを決意する、同時に仏教に帰依した
アテネの民主主義と同様、アショーカの非暴力主義は後の大英帝国、アメリカ合衆国の先駆というべきだ |
BC256年 |
グレコ・バクトリア王国 (スパルタの中枢移転) |
旧デーン人B1
vs旧デーン人B2 |
セレウコス朝(旧デーン人B2bA)に蜂起し、独立したコリント系ギリシア人(旧デーン人B2bB)国家 |
BC250年 |
インド・グリーク朝 |
旧デーン人(絹道系)
vs旧デーン人B1 |
旧デーン人(スカンジナビア系)がギリシャ人軍団を正統な所有者(旧デーン人B2・コリント人)から
乗っ取ったのだろう、このギリシャ人たちは本家旧デーン人勢力なのだ
インド・グリーク朝が同胞のカリンガ王国に侵攻したこともあったが深刻な戦闘には発展しなかった |
BC242年 |
マウリヤ朝マガダ王国
「ダルマの勅令」 |
旧デーン人B1
vs旧デーン人勢力
vs古代デーン人勢力 |
彼は、ダルマをギリシア(旧デーン人勢力圏)、セイロン(古代デーン人勢力圏)に輸出し、勢力圏拡大を
狙った、従来のデーン人の戦法の踏襲だが、仏教はもともと強制性の低い宗教なので、
いかんせん、カウティリヤ(諜報員)の狙いは外れたといっていい |
BC230年 |
サータヴァーハナ帝国 |
インド系アーリア人
古代デーン人D
vs旧デーン人(絹道系)
vsギリシャ人
vsブリテン系デーン人E |
インド系アーリア人が新規のデーン人勢力に対抗するために古代デーン人と提携したと考えられる
非アーリア人であるアーンドラ人は古代デーン人の血統だと考えられるが、彼らは、
インド系アーリア人勢力であるバラモン教を信仰することを申し出、その見返りに帝国建設を要求、
新規デーン人勢力に対抗するためにお互いが妥協したのではないか |
BC3世紀頃 |
サルマタイ人、ウクライナ平原
コーカサス山脈に出現 |
イラン系アーリア人
vsブリテン系デーン人A |
西アジアへ侵攻するよりもローマ帝国北辺を脅かした、主にハンガリー平原でローマ帝国軍と交戦
状況によってはローマ帝国の傭兵にもなったという |
BC3世紀頃 |
「実利論(アルタ・シャーストラ)」
カウティリヤ著 |
旧デーン人B1
(スパルタの中枢) |
デーン人直伝の領土を獲得し維持する方法が記されている、つまり、ドルイドがひた隠しにしてきた秘法だ
2つほどの例が書かれているが、モロにその後のヴァイキングやアメリカ軍が使用してきた戦法である |
BC3世紀頃 |
パルティア人
イラン高原に出現 |
イラン系アーリア人
vsブリテン系デーン人A |
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226年〜
651年 |
ササン朝ペルシア |
イラン系アーリア人 |
|
420年 |
エフタル出現 |
新デーン人
vsイラン系アーリア人 |
エフタル人はヒョーン人とも呼ばれ1000年前にゾロアスターと対立したヒヤオナ人と同一視されているが、
まさかその頃の部族が延々と存続して5世紀に再度、姿を現すはずがない、とは学者の弁
また、ゾロアスター教神官団は、ゾロアスター教根絶のためにいにしえのヒヤオナ人が復活したと考えた
ヒヤオナ人は実際には裏に旧デーン人が陣取っていたものと考えられる |
490年 |
エフタル、ササン朝を属国化
更にインド亜大陸に侵攻 |
旧デーン人C2
vsイラン系アーリア人
vsインド系アーリア人 |
アーリア人勢力圏をモノにしたいデーン人の悪意に他ならない、エフタルの意志は新デーン人の意志である |
567年 |
エフタル滅亡 |
イラン系アーリア人
トルコ人
vs新デーン人 |
イラン系アーリア人、テュルク人の現生人類連合が新デーン人グループに勝利 |
651年 |
ササン朝ペルシア滅亡 |
イスラム勢力
vsイラン系アーリア人 |
実際にはペルシアの賢人がオリエント地方保護のためにイスラム教を発明したと考えられる |